雅の里
雁さわぐ 鳥羽の田づらや 寒の雨 芭蕉
鳥羽殿の雅散策 |
鳥羽離宮の全景(イメージ図) |
鳥羽離宮は平安時代後期の応徳3年(1086年)、白河天皇が藤原季綱(すえつな)から献上された鳥羽の地に後院として造営を始め、鳥羽上皇が継承して完成させました。規模は約100町と云われ、1町とは1辺が約109mで面積が11,881u(約3,600坪)になり、100町といえば、約36万坪にもなる広大な離宮でした。半分近くが池で、河川海などの水運交通の拠点、都への陸運交通の玄関として物流拠点、経済拠点でもありました。現在、往時の鳥羽離宮を偲べるのは安楽寿院、城南宮界隈です・・・ |
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酒蔵(高瀬川堤防) |
北向不動院道標石 |
近衛、鳥羽、白河天皇御陵道標石 |
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「伏見百景」でも有名な酒蔵で春に菜の花が咲き乱れた様は絶景です。高瀬川に鴨が泳いでいます。春近し・・・ |
北向不動院迄の道標ですが近鉄の踏み切り内にあります。 |
近衛、鳥羽、白河天皇陵迄の道標ですが近鉄の踏み切り内にあります。 |
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近衛、鳥羽、白河天皇御陵道標石 |
山王権現大宮社の跡碑 |
南天塚跡碑 |
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近鉄の踏み切り内にあり保線員の方達に許可を得て線路内に入って撮影しましたが途中特急が通過するなど迫力満点でした?!(^▽^;) |
保延元年(1135年)、鳥羽上皇が鳥羽離宮内に山王権現大宮社を勧請しました。最盛期には社領もあり、例祭には神輿が御旅所に渡興したり催馬楽や走馬も催されたと伝わります。明治13年(1880年)、廃社に伴い山王七社の神像を北向山不動院に移し、現在は竹田小学校になっています。 |
竹田四十八塚として竹田には古来、多くの古墳が散在している一つで詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡とも伝わります。 |
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国分寺跡辺り |
猿塚の跡 |
御幸ノ森跡 |
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山城の国分寺は南山城(相楽郡瓶原:みんのはら)の恭仁宮跡地にありましたが江戸時代にもこの地を山城国分寺の跡と称され現に安楽寿院にこの寺の木額を有し、その旧仏と伝わる宝冠阿弥陀坐像(藤原初期)を安置している事から後世、当地に寺名を移したと伝わります。明治7年(1874年)、廃寺になり安楽寿院に合祀されています。 |
猿塚(申塚)は竹田四十八塚として旧竹田村地域に散在している墓塚の一つで山王権現の猿を産土神とした猿塚を示すもので何故か民家の庭内にあります。鳥羽離宮遺跡とも伝わり鳥羽上皇が保延元年(1135年)、鳥羽離宮内に山王権現大宮社を勧請しましたが明治13年(1880年)に廃社となり、山王七社の神像を北向山不動院に移し、跡地は竹田小学校になっています。 |
御幸の森は竹田四十八塚として旧竹田村地域に散在している墓塚の一つの「社の神塚」とも考えられています。詳細は不明ですが鳥羽殿の遺跡とも伝えます。 |
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中宮塚 |
金剛心院塚(後宮塚とも称する?) |
成菩提院塚 |
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詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。 |
詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。白河院没後、鳥羽上皇も引き続き28年間院政を行ったが、その時建てられたのが田中殿(御所)であった。田中殿は皇女八条院の御所として鳥羽上皇が造り、金剛心院は田中殿内にあった御堂でした。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。 |
詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。 |
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式内真幡寸(まはたぎ)神社跡碑(若宮宮) |
近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔) |
車塚跡碑(現在不明) |
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真幡寸神社は鳥羽真幡木里にあったと云われ秦氏の氏神と考えられ平安京遷都時(794年頃)の創建と伝える。弘仁7年(816年)、官社に列した延喜式内社でした。応徳3年(1086年)、本社を中心に鳥羽離宮が造営されました。真幡寸神社は、明治10年(1877年)、城南宮に合祀され現在に至ります。 |
平安京の羅城門(正門)から「鳥羽の造り道(つくりみち:鳥羽街道)」を南進すると当地界隈に出ます。この所以から鳥羽離宮を城南(せいなん)離宮と称したと伝わります。鳥羽離宮として往時を偲べるのが安楽寿院です。安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。 |
「竹田四十八塚」として竹田に散在している一つで鳥羽離宮遺跡とも伝わります。元は竹田三坑町にありましたが、いつしか当地に移され現在は所在地不明です。石碑には「鳥羽離宮より東山へ 花見の宴に御幸の白河法皇 裾野の外れたりし当所に輦(車)を駐め 桜花を愛で給う」と記されています。 |
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安楽寿院 |
明治天皇御小休所安楽寿院石碑 |
三宝荒神社 |
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本尊は鳥羽上皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来座像(重要文化財)で、本堂、諸塔などは 後世の再建ですが、この本尊だけは台座の 修理銘により平安時代後期、造営当時の 本尊と伝わります。胸に卍が刻まれてある事から「卍の阿弥陀」とも知られています。鳥羽上皇が東殿の境内に建立した御堂など「鳥羽伏見の戦い」時、薩長軍の本営となった寺院です。 | 明治5年(1872年)5月23日、明治天皇は行幸で伊勢、大阪を経て入洛し6月4日、再び大阪へ行幸途中に安楽寿院で休憩されました。 | 保延3年(1137年)、落慶し何度も火災に遭いました。天文17年(1548年)の火災では伽藍の大部分を焼失しました。慶長11年(1606年)の復興時に火災に遭わないようにと荒神を勧請されました。以後の400年間は一度も火災に遭っていません。火難消除の神として信仰されています。 | |
三尊石仏の祠 |
薬師三尊石仏 |
釈迦三尊石仏 |
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薬師三尊石仏、釈迦三尊石仏は質素な祠にありますが、平安時代(藤原時代)の作で薬師、釈迦、阿弥陀三尊の3面が江戸時代に出土し松香石で創られています。阿弥陀三尊石仏は京都国立博物館に保管されています。これら石仏には石仏の体を削って水で練り、子供の顔や体に塗るとクサが治癒するという信仰、歯痛治癒の信仰があった為に削られ結構傷んでいます。平癒のお礼に土団子を竹の皮に包み供える風習があったとも伝わります。 |
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安楽寿院遺跡発掘現場 |
石碑積場? |
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安楽寿院西側の遺跡発掘調査現場です。 |
安楽寿院北側にあり、所在不明の石碑などあるかと思いましたが・・・重すぎて分からず?! |
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鳥羽、白河法皇院政之地碑 |
冠石 |
鳥羽天皇安楽寿院陵 |
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鳥羽上皇が三代(崇徳・近衛・後白河天皇の御代28年間)に渡って院政を執り行った離宮としても知られ、貴族から使用人に至るまで宅地が設備され、その様は「あたかも都遷 (みやこうつり)の如し」と記されています。広大な敷地に鳥羽殿と云われた東殿、南殿、北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造営されました。冠石は保延7年(永治元年:1141年)、鳥羽上皇が法皇になった時この石の下に冠を埋めたと伝わります。★上皇が出家されると法皇(法王)と称します。 |
鳥羽天皇は鳥羽上皇となり白河上皇の院政を引き継ぎ ました。 籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で即位させ、一方では後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事でも史上有名な天皇です。鳥羽離宮の金剛院別当となった所以から鳥羽僧正とも云われカエルやウサギを人物に見立てた絵巻物「鳥獣戯画」を描いた人として有名ですが戯画に鳥が全く描かれず「鳥羽戯画」が正しいという説もあります。 |
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碁盤の梅(鳥羽天皇安楽寿院陵) |
五輪石塔 |
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法華堂の右横にある梅は、当時、僧侶や役人らが碁ばかりして気風が乱れ、碁を禁止して碁盤を埋めその上に梅木を植えて戒めたと云う。見えにくいですが、写真の松の後辺りです。 |
五輪の石塔は如法経塚とも云われ鳥羽上皇が如法経を埋めたと伝わります。弘安10年(1287年)の年号が刻まれています。約3mもあり鎌倉時代の五輪塔で重要文化財に指定されています。微かに読める刻字から、阿弥陀信仰によって建立されたと言われています。 |
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北向山不動院山門 |
千手観音、虚空蔵、文殊、普賢菩薩 |
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大治5年(1130年)、鳥羽上皇により建立されました。不動明王像を建立し、都の南にあたるため北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝わる。山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座されています。 |
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金剛不動明王 |
軍荼利(ぐんだり)明王 |
本堂 |
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応仁の乱で焼失し、現在の本堂は正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が移築され、本尊は、伝教大師作と伝える不動明王坐像が、安置されています。 |
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地蔵尊堂 |
地蔵菩薩 |
六体地蔵尊 |
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多数の不動尊、明王だけでなく地蔵尊も祀られています。 |
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大日如来、弁財天、阿弥陀如来 |
金剛夜叉明王 |
降三世夜叉明王 |
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境内には弁財天、阿弥陀如来、大日如来の他に軍荼利(ぐんだり)、金剛夜叉、降三世(ごうさんぜ)夜叉の各明王。荼枳尼天(だきにてん)、山王大権現、火頭烏素慧麼明王(かずうすさまみょうおう)、布袋(ほてい)、地蔵菩薩など多数鎮座しています。 |
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鳥羽上皇寵愛の松 |
洗心井(せんしんい)と御滝 |
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鳥羽上皇が寵愛したと伝わる松 |
洗心井(せんしんい)という井戸があり名水として知られています。傍にお滝業場もあります。 |
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白河天皇成菩提院陵 |
西行寺跡碑(火消地蔵堂) |
鳥羽離宮田中殿跡碑 |
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当地は藤原季綱(すえつな)の領地でしたが応徳3年(1086年)、季綱が白河天皇に献上し白河天皇が退位後の院として鳥羽離宮を造営しました。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院政の地となりました。平清盛が後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し院政は一旦中断しました。源平の争乱、南北朝の争乱など兵火に遭う事が多く急速に衰退したと伝わります。 |
口碑によれば西行法師が佐藤義清(のりきよ)と称し鳥羽殿の北面の武士であった頃の宅跡と伝えます。江戸時代、一宇の草庵があり境内には月見ノ池や剃髪塔などがありました。明治11年(1878年)、東竹田の観音寺に併合されました。観音寺には西行法師坐像が安置されています。 |
白河上皇没後、鳥羽上皇も継承し28年間に亘り院政を執りました。当時に建てられたのが田中殿でした。田中殿は皇女・八条院の御所として鳥羽上皇が造営し殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂)などが附属していました。 |
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城南宮 |
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城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と伝えます。 |
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鳥居 |
城南宮石碑と黄桜 |
社務所 |
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城南宮の名庭「洛水苑」 |
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社殿を取り巻く約1万坪(33,000u)の社苑は、春の山(本殿西側)、平安の庭(本殿東側)、室町・桃山の庭(本殿南側)と繋がり、総称して楽水苑(らくすいえん)と称します。 |
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平安の庭 |
室町・桃山の庭 |
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往時の離宮を表した城南離宮の石庭など創意工夫された名庭は見事で貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。平安末期、当地に白河上皇が鳥羽離宮を造営し院政を執りました。城南宮は平安京、離宮の守護神として崇められ梅・桜・つつじ・藤・ササユリが美しく「源氏物語」に因む草花が約100種類あり、平安植物園の様ですが今は梅がチラチラ程度咲いていました。 |
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真幡(まはたぎ)神社 |
芹川(せりかわ)神社 |
三照宮社(城南宮) |
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明治10年(1877年)、延喜式内真幡寸神社と して公定された後、昭和40年(1965年)城南宮に名復しており、社伝とは少々異なる事になるのですが・・・ |
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絵馬舎 |
鳥居 |
手水舎 |
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城南(鳥羽)離宮は都を凌ぐほど賑わったといわれ院や上皇は熊野を初めとする物詣でにあたり城南宮を方除けの為の御幸や精進所としたので方除信仰の対象になりました。「吏部王記」(りほうおうき)に延長3年(925年)8月、城南寺祭行幸との記述が残ります。祭の一つに城南寺明神御霊会と云われ、降雨祈願、競馬(くらべうま)、流鏑馬(やぶさめ)が催されました。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を画策し、流鏑馬に乗じて密かに兵を集め挙兵、「承久の乱」に敗れ隠岐に流されました。歌人としても優れ、「後鳥羽院御集」、「遠島百首」等の歌集がある。 |
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菊水井 |
神輿倉 |
拝殿 |
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江戸時代の随筆に「城南宮の菊水(延命水・若水ともいう)の水を飲むと、病が治るというので参詣者が絶えない。」と記されています。 |
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拝殿 |
神 楽 殿 |
本 殿 |
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平安庭の豊かな緑に臨んで寝殿造りを模した神楽殿が平成8年(1996年)に完成しました。流れ造りの本殿、変形入母屋造りの前殿、そして左右に伸びる翼廊が一体となった城南宮独特の複合建築。総檜造り。檜皮葺の緩やかに流れる屋根、飾り金具の細部に至るまで平安時代後期の様式に統一され優美な姿を見せています。 |
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本 殿 |
末社(庚申、稲荷、粟島社) |
末社(住吉、大黒、春日、大杉社) |
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松尾神社 |
神馬像 |
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祭神は木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと)で鎮座の縁起は不詳です。当地を野田村(深草南西部)と称した頃の鎮守社で当地で一番高い現在地に祀るようにと神託があったと伝わります。神得は火の神、水の神、安産の神として崇敬され女性の参拝者が多いです。 |
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Tourist 2004.1.26、2.02、2.09、2.16(M) |
今回のコースは、「No.1・王朝ロマンコース王朝(貴族)文化散策」の続編でエンザサンザ、注連縄(しめなわ)関連で竹田、下鳥羽界隈をのんびりとチャリンコ散策してきました。昔、竹田は紀伊郡に属し竹田ノ庄、真竹庄(またけのしょう)と称され高瀬川が南流し江戸時代に舟運により賑わいました。鳥羽離宮遺跡は国指定史跡で「竹田四十八塚」と3箇所の「陵墓参考地」となっていますが宅地開発なとで現存が少なく竹田在住のF.Y君や紹介頂いた竹田の長老さん達にご協力頂き、どうにかこれだけの塚など鳥羽離宮遺跡を発見できました。現在、鳥羽離宮の往時を偲べるのは、安楽寿院や城南宮界隈などで竹田、下鳥羽界隈は、王朝貴族の文化を漂わせる平安貴族、皇族にも所縁のある雅な里です。鳥羽離宮遺跡と伝える「竹田四十八塚」や3箇所の「御陵墓参考地」などを見つけるのに大変往生しました。 |
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