ちょっと伏見ぶらぶら散策

 

平成16年(2004年)ラスト散策

2004年も残りわずか・・・本年は伏水物語の開設1周年を無事に迎える事ができました。皆様にアクセス頂いた事が励みとなりました。

自転車、電車、バス、徒歩での散策でしたが振り返れば伏見を始めとする洛南、洛北、洛東、洛西など随分とコラムも増えました。

2005年は今迄の散策コースをベースに更に未踏地へも行こうと思っています。京都は1200年の都だっただけに歴史跡が目白押しです。

本や写真を見るだけでなく実際に訪ねられると何かを感じる事ができます。「歴史は繰り返す。」、「賢者は歴史に学ぶ。」・・・格言にも納得できます。

当サイト(「伏水物語」、「洛雅記」、「Pちゃんズの古都珍道中記」)が皆さんのお役に立てれば幸いに思います。

 

酒蔵(高瀬川)

城南宮

Pちゃんの二代目・ラッキー号(MTB)

拝殿と本殿(城南宮)

草津の湊

魚市場跡碑

下鳥羽は、古くは草津と言い、木津、今津とも言われ船で西国に向かう人達の乗船地でした。延喜元年〔901年〕、太宰府へ流された菅原道真、保元元年(1156年)、讃岐国へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝わります。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした

ブッタカヤの仏足跡(水琴窟/久我・誕生寺)

本堂(久我・誕生寺)

鳥羽、久我界隈

2005年も気軽にご覧頂ければと願っております。本年最後の散策コラムとしてはバワー不足と思いますが当方の大好きな処を周ってきました。

城南宮

王朝貴族の雅な歌遊びの様子を再現する「曲水の宴」が行われることで有名です。社殿を取り囲むように広がる神苑を「楽水苑」と称し、光源氏がその華やかな時を過ごした六条院をモデルにしたという苑内には源氏物語に登場するほとんどの植物が植栽されています。苑内を流れる小川や池の水には「菊水若水」が使われているそうです。

酒蔵(高瀬川) 二の鳥居(城南宮) 二代目・ラッキー号(Pちゃん愛用車/クリックすると拡大)

楽水苑(らくすいえん)

往時の離宮を表した城南離宮の石庭など創意工夫された名庭は見事で貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。平安末期、当地に白河上皇が鳥羽離宮を造営し院政を執りました。城南宮は平安京、離宮の守護神として崇められ梅・桜・つつじ・藤・ササユリが美しく「源氏物語」に因む草花が約100種類あり、平安植物園の様です。

拝殿と本殿

本殿

春の庭(楽水苑)

赤井河原

赤井河原とは桂川の西側(羽束師:はづかし)を称し古くは赤日崎、赤江ノ崎とも記され広漠とした河州であった。保元の乱後、朱雀野で処刑された六条判官為義の夫人は赤江の淵に身を投じたとされ新宮十郎行家も当河原にて斬られました。元弘3年(1333年)、千種頭(ちぐさのとう)中将忠顕(ただあき)の率いる500余騎の軍勢が当河原に布陣するなど中世には淀、八幡を結ぶ戦略上の要点としてその名は史上にしばしば登場し山城盆地を一眼に納めた景観はすこぶる雄大であったと伝わります。

男山、天王山方面(嵐山サイクリングロード) 草津の湊 赤井河原
神川神社

神川座住吉神社と称した 式内社です。鴨川村の産土神で元は住吉神社といわれました。文政年間の当社神主古川為猛の「住吉社之略記」によれば、鴨川、桂川の落ち合う瀬の為に度々難破船があり、摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされています。

魚市場跡碑 神川神社 割り拝殿

久我神社

8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃に、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社であり京都市でも最古の神社の一つである。一説には『山城国風土記』逸文にいう賀茂氏が、「久我の国」に居をすえ、祖神を祀ったのが当社であり、更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも云われる。又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたと云われる。尚、境内には「お唐臼」という石臼が奉られている。これを持ち帰った者に祟り、元に戻したと云われています。

本殿 久我神社

割り拝殿

妙覚山・誕生寺(みょうがくさん・たんじょうじ)

誕生寺は久我家(道元の父・久我通親:みちちか)の旧跡と伝えられ、大正8年(1919年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(こが:くが)に越前小松荘にあった妙覚寺の本堂を移築した為、安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木造も妙覚寺のままです。昭和63年(1988年)11月、本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。道元禅師が幼少で出家した比叡山延暦寺、深草・欣浄寺、円山公園内の道元荼毘所なども所縁の聖地です

本殿 山門 道元禅師幼少像

道元禅師の父は村上天皇〔村上源氏〕筋で内大臣久我通親(こがみちちか)、母は藤原基房(ふじわらもとふさ)の娘・伊子(いし)とされ道元禅師は正治2年(1200年)1月2日に生まれ幼名を「文殊丸」と呼ばれたほど頭脳明晰でしたが、わすか13歳で比叡山延暦寺に出向き、翌年に出家しました。幼くして両親と死別し世の無常を感じた為と伝わります。下山後、建仁寺の栄西に禅を学び貞応2年(1223年)、修学の為に渡宋し帰国後、深草や宇治において教化に務め嘉禎2年(1236年)、深草に興聖寺(現宇治の興聖寺は再興)を開き、晩年の寛元2年(1244年)、曹洞宗を開基し永平寺の開祖となりました。建長5年(1253年)8月、西洞院高辻の俗弟子・覚念の邸で54歳で没した鎌倉期の偉僧です。

本堂 ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) 桂川洗い堰(久我橋

『布教の為に印度(インド)をくまなく歩かれたお釈迦様の足を洗ってあげて下さい。お釈迦様の「ありがとう」という声が聞こえます?』と書かれてあり、慎んで洗ってみました。もしかして水琴窟(すいきんくつ)?と思いましたが・・・ビンゴでした!!!・・・以前に訪ねた時も水琴窟と思ったのですが音が聞こえませんでした今回、聞えたという事は・・・心身共に成長したのでしょうか?(^_^;)水琴窟はいい音色です。

Tourist 2004.12.20(M) 

 

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