伏見の紹介

 

伏見桃山城(伏見城御花畑山荘跡)

 

「伏見は、水と歴史の町」

伏見の概要・・・

醍醐山西方〜桃山の西方、宇治川の北に位置する京都市南郊の最大行政区で東は醍醐、日野、小栗栖。西は新高瀬川を隔てて下鳥羽、横大路、淀。鴨川、桂川を隔てて羽束師、久我に連なり、南は宇治川を隔てて向島。北は竹田、深草、稲荷に至ります。近世以降、城下町として発展し往古は芦萩(ろてき)の生い茂る極めて侘しい水郷地でした。これは、伏見を伏水と記す事によっても想像できると思います。伏見の先住民は当初、桃山丘陵台地によって原始生活を営んだが流出する土砂の堆積によって漸次、西方に進出し耕地化する事によって舟戸荘、久米荘などの聚落ができ総称して紀伊郡石井郷と呼び伏見とは言いませんでした。『日本書紀』雄略天皇17年の条にみえる「俯見村」を伏見とする説がありますが、これは大和国(奈良県)俯見村を言ったもので『万葉集』巻9に掲げる「巨椋(おおくら)の 入江響(どよ)むなり 射部人(いめびと)の 伏見が田井に 雁渡るらし」の伏見も田井に係る語で固有名詞ではなく、史上における伏見の初見は延久年間(1069〜73年)、橘俊綱が指月山に山荘を構えて伏見長者と言われた事だとされます。以来、景勝地として知られ王朝時代には、歌、詩、物語、将、日記に伏見の名が随所に散見し仔細に検討すると何れも今の桃山丘陵を称したものとされ当時の伏見は、山城盆地の湖水の残る低湿地であったと推定されています。伏見が町になったのは、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が桃山に伏見城を築き周囲に全国の大名屋敷を造り多くの商工業者を集めた時からで伏見の町は一躍天下に冠絶しました。しかし、徳川家康が元和9年(1623年)、伏見城を破却し一時、哀徴しましたが伏見奉行を設置し幕府の直轄地とした事から政治都市から商工都市として暫次発展し江戸中期頃には町数も263町、舎屋6300を数えるに至りました。当時の町屋は今も樽屋町、指物町、塩屋町、紺屋町、魚屋町、瀬戸物町、車町、材木町として残り大名屋敷跡として伯耆町、肥後町、丹波橋、毛利橋、阿波橋などが現存しています。特に慶長16年(1611年)、角倉了以の開削した高瀬川が伏見を起点とし淀川を航行する過書船と共に高瀬舟によって京阪間の物資交流を速やかに行った重要な河港(伏見港)となり都市交通上の要衝地になりました。水上運輸による伏見の発展は明治における蒸気船の登場にも影響を受けなかったが明治10年(1877年)、京都〜大阪間に鉄道が開通し貨客が鉄道輸送に奪われ淀川運航はパッタリと途絶え伏見の町も寂れました。明治27年(1894年)に私鉄・奈良鉄道(現、JR奈良線)が開通、明治28年(1895年)には、日本初のチンチン電車(京都電気鉄道:七条〜油掛町)が開通、明治44年(1911年)、京阪電鉄も開通、次いで明治天皇桃山御陵の造営などがあり人口も追々と増加し昭和6年(1931年)、京都市に編入されました。

伏見全域マップ

管理人が訪ねた伏見のスポットを大まかに紹介します。伏見全域マップを見て頂くと参考になるかと思います。『伏水物語』、『洛雅記』、『Pちゃんズの古都珍道中記』では、管理人が訪ねた伏見を始めとした古都のスポットなどを紹介しております。一伏見人として私的感覚でサイト運営しておりますのでお気軽にご覧ください。伏見の素晴らしさが皆様に伝われば幸いです。

管理人オススメの伏見エリアスポット!☆⌒(*^∇゜)v

桃山大手筋エリア
伏見城 伏見桃山城 桓武天皇柏原陵

伏見城・・・文録元年(1592年)8月、指月の森に豊臣秀吉が築城(指月城)しました。慶長元年(1596年)、慶長の大地震によって倒壊し慶長5年(1600年)に現在の明治天皇陵付近に再建(木幡山城)する。この城も関ヶ原の戦いの前哨戦として炎上。覇権を握った徳川家康は、伏見城を修復するが寛永2年(1625年)三代将軍・徳川家光により破却された。伏見城は、3回も建替えられました。伏見桃山城・・・伏見のシンボル的存在の城で昭和34年(1959年)に有志の人々によって建設が着手されました。大天守閣、小天守閣を並べた連結式城郭で鉄筋コンクリート造、内部外観共に旧伏見城を偲ぶに足るべく城です。当地は旧伏見城の御花畑山荘があった桃山の西北丘陵台地にあり山城盆地を一望できる京洛随一の景勝地でしたが平成15年(2003年)1月31日に閉園され38年間の歴史に幕を下ろしました。天守閣などは運動公園として予定され京都市によって公的保存されています。

南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索(元禄年間の修陵)では伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説がある。幕末、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。

明治天皇桃山陵 伏見は酒蔵の風景が似合う街

桃山丘陵の頂に明治天皇陵、昭憲皇太后陵がある。伏見桃山陵は、明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。当地は、伏見城本丸跡を陵墓としたものと言われ少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后御陵がある。明治天皇陵への230段もある石段ですが、登りきると眺望絶景のポイントです。

伏見は「伏水」とも記され良質の地下水に恵まれ古来、酒造りが盛んで兵庫県の灘と並ぶ二大銘酒処として知られます。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城を築き淀川を巨椋池から切り離し城の外濠として構築させました。酒蔵の多くは、この濠川に接して建てられ明治の終わり頃まで米、薪炭、樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石船で運ばれていました。
 

乃木神社 御香宮 松林院陵(舟戸御所(下御所)跡)

陸軍大将だった乃木希典(のぎまれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をしたが、多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人と共に殉死。境内には、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復元されています。

貞観4年〔862年〕9月、境内に清泉が、湧き出し四方に水が香り病者はこの水を服用すればたちどころに病気が、完治すると云われた。清泉を神格化した神社の1つです。祭神は、神功皇后および仲哀、応神両天皇とされています。旧伏見町の産土神で古来から信仰されている洛南屈指の大社です。

中世、この辺り一帯に御宇多上皇が創建した舟戸御所がありました。宇治川に臨んで船着場があった事から舟戸御所、舟津御所とも言いました。桃陵指月の森にあった伏見殿を上御所と呼ぶのに対して舟戸御所を下御所とも言いました。吉野時代の延文元年(1356年)8月、宇治川の氾濫によって舟戸御所は水没しました。祀られているのは御崇光太上天皇で伏見宮貞成親王です。伏見を大変に気に入られていたので康生2年(1465年)、当地に葬られ陵墓となりました

坂本竜馬ゆかりの寺田屋 十石舟 三十石船

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍との恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁ぎました。伊助は放蕩者で宿は女将のお登勢が一切を切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育しました。義侠心が強く、志士達に援助を惜しまなかったと伝えます。

大方の旅人は、伏見街道から京橋に出て寺田屋の前の船着場(寺田屋浜)から三十石船(一般的に旅客定員28名〜30名、船頭4名が定員)で大阪・八軒屋(堺屋源兵衛)へと向かった。急行便とする寺田屋の船は6人〜8人に増員した船頭で朝三便、昼四便、夜五便ほど往復、下りは早く夜に乗船すれば早朝には大阪に着いたが、上りは綱で引くから朝に大阪・八軒屋を出ても夕方にしか伏見に入る事はできなかった。船賃は天保銭一枚、一人座席で寝転べば三人分の料金、船頭1人増す毎に水夫増賃(かこましちん)が必要だった。

伏見と酒の歴史

京都市の南の玄関口・伏見は、桂川、鴨川、宇治川の三川に沿った平野部と桃山丘陵を 南端とする東山連峰の山並みからなっています。伏見の歴史は古く、『日本書記』に「山城国俯見村」として記されています。平安時代は風光明媚な山紫水明の地として皇室や貴族の別荘が営まれ、安土桃山時代は豊臣秀吉が伏見城を築城し一大城下町を形成しました。江戸時代になると京都〜大坂を結ぶ淀川水運の玄関口として栄え、幕末には坂本龍馬を始めとする志士たちとともに近代の夜明けとなった幕末維新の舞台となったのが伏見。古来より豊かな自然風土に恵まれ、京文化に磨きあげられた伏見の清酒の歴史も古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったと伝える。以来、脈々と受け継がれてきた酒造りの伝統が花開いたのは、安土桃山時代の事。太閤秀吉の伏見城築城と共に伏見は大きく栄え、需要が高まる中で一躍脚光を浴びるようになりました。後の江戸時代には、水陸交通の要衡として、伏見は益々発展。酒造家も急増し、銘醸地の基盤が形成されました。そして明治の後半には、天下の酒処として全国にその名を轟かせるようになったのです。伏見の街、人と共に息づく名酒の歴史が伏見にあります。(伏見酒造組合)

日本を代表する日本酒シェアを誇る伏見は酒蔵の風景が似合う街
現在、伏見区内には23の酒蔵・蔵元が現存しています。
撮影でお馴染みの酒蔵 宇治川派流の桜と柳と十石舟の伏見らしい風景も美しい!(*゜▽゜)/
傾城町(けいせいまち)としても栄えた中書島

傾城町(けいせいまち)とは遊郭、郭(くるわ)、遊里、色街のこと。有名なのは京・島原、伏見・柳町、八幡・橋本、江戸・山谷(吉原)等、全国に傾城町が点在していた。歴史を重ねた町には、必ずその表通りがあれば裏通りもある。すべてに表裏、陰陽、光と影が存在するように豊臣秀吉によって伏見城と城下町が形成されたが、町の一角に傾城町が存在していたのも事実である。・・・現在の中書島は京阪中書島駅を中心とした住宅・商店街で、南北に竹田街道が通っている。四方を川(南は宇治川、三方は宇治川派流:濠川)に囲まれて、かつて島であった名残を僅かに留めている。文禄年間、中務少輔の職にあった脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだ事から中書島の名前が生まれた伝える一説と中務少輔の唐名が中書であった事から、脇坂は中書(ちゅうじょう)様と呼ばれ、その中書様の屋敷があった島なので中書島と呼ばれるようになったというのが定説。城下町だった伏見には、大名屋敷にちなむ地名も多く残っている。桃山時代まで伏見港一帯は湿地であった。豊臣秀吉が伏見城を築城したことで城下に武家屋敷が立ち並ぶようになったが、江戸幕府は伏見城を廃城としたため江戸時代前期に荒廃した。一方で高瀬川が開削され京都と大坂が結ばれると、再び河川港として水運における重要性が増した。その後、伏見城下にあった遊廓が移転され、繁栄するようになる。酒処であったので人も多く集まり、また、宇治川に近く、交通の便が良い中書島は遊廓であると同時に花街でもあり、祇園をしのぐほどの名妓を輩出してきたという。当時、中書島は柳町と呼ばれ長建寺の移転を契機として 伏見奉行・建部内匠頭(たてべたくみのかみ)に参詣人の為の茶屋設置の請願を出したことから 昭和まで続いた中書島遊郭の歴史が始まりました。明治5年の記録によると業者数は西柳町に23軒、東柳町に36軒、大正初年に京阪電鉄が開通し中書島駅が設置されると廓は全盛期を迎えた。昭和初期は陸軍第16師団の兵隊が客のほとんどを占めていました。昭和8年の記録では貸座敷数84軒、娼妓数400人とあります。益々栄えるようになったが、昭和33年(1958年)3月15日、売防法によって遊廓としての役割を閉じ、花街のみとなった。その後、徐々に衰退し、昭和45年(1970年)に花街としての長い歴史に終止符を打った。現在は花街、遊廓時代のモダンな建築意匠の建物がほんの僅かに見つける事ができるだけである。現在は当時の郭と無関係で取り壊された建物もある。

取り壊された建物もあるが、わずかながら当時のレトロな建物意匠を見つける事ができる。
京都らしい裏路地 裏路地にも僅かながら花街、遊廓時代の建物意匠を見つけることができる。
路地の光と影、静寂な空間そして石畳などの風情が別世界を演出している・・・。
伏見にはキリシタン大名・高山右近の屋敷があったのでキリスト像を地中に埋めて拝んでいたというキリシタン灯篭が点在しているのも必然。
海宝寺(伊達政宗屋敷跡) 三栖閘門 伏見港公園

豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で、江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれた。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えと伝わる。樹齢は約400年とされる。今も、町名の桃山正宗や、門前の伊達街道などに、数多く残されています。

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、三栖閘門はその役目を終えました。

長建寺 酒蔵(高瀬川) 欣浄寺(ごんじょうじ)

紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。7月下旬の祭礼は「伏見の弁天祭」と言われています。

「伏見百景」でも有名な酒蔵で春に菜の花が咲き乱れた様は絶景です。

深草少将の屋敷跡に欣浄寺(ごんじょうじ)はあり、今は清涼山と号する曹洞宗の寺院ですが寺伝によれば応仁の乱(1467年)迄、真言宗の寺院だったと伝わります。鎌倉時代の寛喜2年(1230年)頃、道元禅師が布教に務めた地とも伝わり曹洞宗では道元禅師ゆかりの地でもあり、「深草閑居の史跡」としての聖地と伝わります。

深草下鳥羽エリア
塔寺(ほうとうじ:多宝塔) 石峰寺 瑞光寺(元政庵)

縁起は藤原氏の極楽寺にまで遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院ででしたが突如として、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝わります。徳治2年(1307年)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門、本堂、多宝塔は重要文化財に指定されています。

百丈山と号し黄檗宗の寺院で薬師如来を本尊とします。平安中期の武将・源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝えます。正徳3年(1713年)、黄檗宗・萬福寺の六世・千呆(せんかい)によって創設され江戸中期に創建時は諸堂も有する大寺院でしたが大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火し、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみでです。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建で本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生から涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現しています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝えます。

明暦元年(1655年)、草庵(竹葉庵)を建て父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。その墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものである。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と門は深草一風情があると言われています。ここは元、極楽寺薬師堂の跡と伝え明暦年間、元政上人が草庵を結びました。

伏見稲荷大社 藤森神社 城南宮

欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。

延喜式外社〔えんぎしきがいしゃ〕で深草界隈の産土神として崇拝されています。社伝によれば神功皇后が、三韓征伐より凱旋後その旗と武器を納められた事が、起こりで境内にある旗塚は、それらを埋納した場所と伝え、天応元年〔781年〕早良〔さわら〕親王は、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝を祈願されたと云う・・・よって、祭神を神功皇后とし竹内宿禰や早良親王など12柱に及ぶ神々を奉祀している特異な神社で当社については、古来種々の伝説が、あります。

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来とされます。

近衛天皇陵(安楽寿院南陵) 恋塚寺 鳥羽伏見の戦い碑(小枝橋)

近衛天皇は、3歳で即位し在位14年。久寿2年(1155年)、近衛殿にて17歳で崩御。長寛元年(1163年)、この地に埋葬されました。御陵建物は応仁の乱などの戦火で数度焼失しました。慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が、再建しました。

遠藤武者盛遠(文覚上人)が、上西門院(後白河法皇の姉)に北面の武士(上皇の院御所を守衛する武士の事)として仕えた。同僚の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫・渡辺左衛門尉源渡を殺そうと侵入したが、身代わりとなった袈裟御前を切ってしまった。袈裟御前の首を、付近の池で洗った時、池の水が、まっ赤になったので「赤池」と呼ばれるようになった・・・僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのがこの寺の興りと伝えます。

慶応4年(1868年)1月3日、東軍(幕府軍)は「小枝橋」に陣取る西軍(薩摩軍)に通行を迫るが通さない。その場で朝廷工作の成果報告を待つが、使者は、戻らない。夕刻、東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。薩摩軍の一発の砲弾が戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたを切りました。

羽束師(はづかし)、久我(こが)エリア
北向見返り天満宮 羽束師(はづかし)神社 道元禅師ゆかりの誕生寺

延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが、北向見返天満宮です。

羽束師神社は、旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年〔701年〕以前からの鎮座と云われています。羽束師は、羽束首(はづかしのおびと)の居住地で一族は、土器を作り石灰を焼いたりする泥部(はつかしべ)の伴造家であった。羽束氏の祖神を祀った神社と言われています。羽束師は、元、乙訓郡に属し古くは、羽束師郷とも言いました。

誕生寺は久我家(道元の父・久我通親:みちちか)の旧跡と伝えられ、大正8年(1919年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(こが:くが)に越前小松荘にあった妙覚寺の本堂を移築した為、安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木造も妙覚寺のままです。昭和63年(1988年)11月、本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。

久我神社 菱妻(ひしづま)神社 大善寺(六地蔵)

8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃に、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社であり京都市でも最古の神社の一つである。一説には『山城国風土記』逸文にいう賀茂氏が、「久我の国」に居をすえ、祖神を祀ったのが当社であり、更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも伝えます。又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたとも伝えます。

旧久我村の産土神です。平安時代初期〔永久元年(1113年)〕、鳥羽天皇に久我家の祖右大臣・源雅実が奈良の春日大明神から藤原氏の祖神、天児屋根命を勧請し、源氏の安護神・火止津目大明神として祀られました。広大な神鎮社殿であったが、桂川の大洪水で久寿元年には、菱妻大明神と改められ久我の郷の鎮守、学問運筆上達の神として崇拝されています。

地蔵菩薩立像は平安時代の始め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えます。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが、後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたとされます。

日野、醍醐エリア
法界寺 親鸞聖人ゆかりの誕生院 五重塔(醍醐寺)

真言宗醍醐派に属する法界寺は、日野薬師とも言われ、一般に安産・授乳に霊験のあるお寺として知られています。弘仁13年(822年)、藤原家宗が薬師如来を祀ったのが始まりで、永承6年(1051年)、藤原氏一族、日野資業(ひのすけなり)が薬師堂を建立した寺院で「阿弥陀堂(国宝)」は兵火をかいくぐって残り、藤原時代の遺構として宇治・平等院鳳凰堂、大原三千院・往生極楽院や岩手県・中尊寺金色堂と並び貴重な平安時代の代表的な遺構とされる建物です。本尊の阿弥陀如来坐像も国宝に指定されています。僧によって元旦〜14日間、修正会と称して薬師堂で五穀豊穣、天下大平を祈願し結願の1月14日の夜、群参の内、精進潔斎した青少年、壮年の信徒が二組に分かれ、褌姿で水をかぶり身を清め、両手を上げて合掌しながら「頂礼ちょうらい頂礼ちょうらい」と連呼しながら踊ります。踊りに用いれられた下帯(褌)は、妊婦の腹帯として用いる信仰もあります。当夜は、牛王串(ごおうぐし)の御守が授与され、かす汁の振る舞いもあります。

本願寺第20代・広如宗主の文政11年(1828年)9月、宗主・親鸞聖人の誕生地である日野を顕彰して1つの堂宇が建てられたのが日野誕生院の始まりです。親鸞聖人の父・日野有範(ありのり)卿に因んで有範堂とも宝物堂とも言われた。前代の本如宗主は、宗主の顕彰に熱意を示し、学僧に当地の調査をさせたり、日野家の菩提寺・法界寺との交渉をしました。文久2年(1862年)、講持の為、京都の同行の間に日野誕生講が結ばれました。第21代宗主・明如は、明治11年(1878年)、堂宇を日野別堂と改名、大正12年(1923年)、立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機に堂宇の一大改宗が計画され第23代宗主・勝如の昭和3年(1928年)5月、着工。昭和6年(1931年)5月、本堂が完成し落慶法要が営まれました。この時に、日野誕生院と改名され現在に至ります。

醍醐寺は醍醐山全体、広大な境内を有する真言宗醍醐寺派の本山です。創建は、貞観年間(859〜877年)、理源大師が世俗を離れ真の仏を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立した事に始まり醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山麓の下醍醐に分かれています。五重塔は、天暦5年(951年)に完成した京都府内で最古の建造物です。五重塔以外の建物は、応仁の乱により殆どが焼失し、豊臣、徳川両家によって、現在の伽藍に整備されました。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が豪華な花見の宴を開催しました。上醍醐、下醍醐合わせて8万坪の境内には、約2000本の桜があり、毎年4月の第2日曜日に太開花見行列が行われます。醍醐寺は平成6年(1994年)に世界文化遺産に登録されました。

三宝院(醍醐寺) 仁王門(西大門:醍醐寺) 醍醐水(醍醐寺)

三宝院は永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうがく)僧正の創建。その後、座主の住房とされていた金剛輪院に名称がうつされ、現在に至っています。醍醐寺の塔頭の一で上醍醐寺の本坊です。 応仁の乱の兵火で焼失しましたが豊臣秀吉により再建された為に桃山建築の美しさがあり特別史跡、特別名勝に指定されている庭園は、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、庭奉行・竹田梅松軒などに命じて築庭させました。藤戸石(ふじといし=千石石(せんごくいし))は聚楽第より運ばれた名石です。又、桃山時代の豪華な襖絵や障壁画で飾られた葵の間、秋草の間、勅使の間(ともに重要文化財)、表書院(国宝)があります。

仁王門(西大門)と金剛力士像は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により再建されました。重要文化財です。

聖宝理源大師が紫雲に導かれて笠取山(俗に醍醐山)に登り、「醍醐味なるかな」の法水に出会ったと伝わる・・・今も「醍醐水閼伽井」に湧く「醍醐水」の醍醐味とは乳酪蘇中の微妙なるチーズ風味とも云われます。仏教では教えが深まった状態にも例えられ長い時をかけて心澄し到達する悟りの究極点が醍醐味と言われる。

エリア
淀城跡公園 淀(与杼)神社 妙教寺(秀吉、淀殿ゆかりの淀古城跡)

享保8年(1723年)5月、春日の局の子孫である稲葉丹後守正知が城主となってから明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。文禄4年(1595年)、秀吉は淀城を廃して築城中の伏見城へ建物を移し元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。

豊玉姫命、高皇産霊(たかみむすび)神、速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年〜63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。

近世の淀城跡から北東に500m程行った所に納所(のうそ)という所に妙教寺があります。この付近が淀古城で天正17年(1589年)、豊臣秀吉は側室・茶々(淀殿)の産所として弟・豊臣秀長の淀城を修築させました。4ヶ月後に長男・鶴丸を出産したが、鶴丸は3歳で病死しました。豊臣秀吉が、その妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれた為に淀は、一躍有名になったとか・・・鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為、薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。

淀小橋旧跡 唐人雁木旧跡碑 淀川瀬水車跡碑
淀美豆町(旧木津川河川左岸堤防)にある船に荷の上げ下ろしに使った浜納屋
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑) 東軍戦死者埋骨地(光明寺跡)
戊辰役東軍戦死者埋骨地(大専寺) 戊辰役東軍戦死者埋骨地(文相寺) 戊辰役東軍戦死者埋骨地(長円寺)
 戊辰役東軍戦死者埋骨地(長円寺)  戊辰役東軍戦死者埋骨地(東運寺)  JRA京都競馬場(淀競馬場)

 

うしさんを偲んで・・・

『うしさんの伏見』 うしさん(故・笠間 寛さん)

伏見大好き人間のうしさん(笠間 寛さん)が、2003年5月20日に53歳で急逝されました。「伏水物語」を立ち上げるキッカケになった方で生前から、「伏見の為ならよしなに・・・」と温かいお言葉を頂いていましたので遺作となりましたうしさんの伏見も参考にして「伏水物語」でご紹介させて頂く事となりました。「うしさんの伏見」も「伏水物語」、「洛雅記:らくがき」、「Pちゃんズの古都珍道中記」共々、温かく見守ってやって下さい。・・・うしさん(笠間 寛さん)のご冥福を慎んでお祈り致します・・・合掌

管理人・Syo 2003年5月

 

『伏水物語』 Syo

 

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