伏水の里道散策

 

呉竹の里散策・・・その1

 

通ふ深草百夜の情 小町恋しい涙の水が 今も湧きます 欣浄寺

 

大黒寺〜金札宮〜伏見七名水〜撞木町遊郭跡〜欣浄寺〜墨染桜寺〜藤森神社〜深草山〜沓塚(くつづか)陵墓参考地

 

伏見大仏(毘盧遮那仏:びるしゃなぶつ)

清涼山・欣浄寺(伏見・墨染)のご本尊です。木造、寄木造で胎内銘によれば江戸中期頃の建立で木造大仏では国内に匹敵するものは無く当時の彫刻の力作としても珍しいです。この大仏の建立は、「天明義民一揆」で悲憤に死んだ7人の義民の供養として発願されたと伝わり、深草の地が一揆の拠点であった事を偲ばせます。伏見大仏の拝観は予約が必要です。

 

大黒寺

江戸時代は薩摩藩の祈祷所、本尊は五穀豊穣の神、出世開運を授けると云われる大変にありがたい大黒天です。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負の墓があります。

大黒寺

御手洗(みたらい)

平田靱負顕彰碑と伏見義民遺髪塔

宝暦2年(1752年)、将軍・徳川家重は77万石の薩摩藩々主・島津重年に薩摩藩の弱体化を策して木曽・揖斐・長良川治水工事を命じました。工事では多数の薩摩藩士が、幕府へ抗議の切腹や病気などで果てました。藩は多大な資金(300万両)を治水工事の為に費やし、藩の財政も圧迫するなど、藩の存続を脅かす程の危機に至る犠牲を払いました。この責任を一心に受けて工事完了を見届けた工事総奉行の家老・平田靱負(ゆきえ)、は切腹、介錯した伊集院十蔵も自刃しました。伊勢桑名の西田芝寿(しばとし)、美濃大垣の金森吉次郎らが靱負(ゆきえ)の功績を讃えて油島千両松原に宝暦治水碑を建立しました。大黒寺には、平田靱負(ゆきえ)の墓と顕彰碑があります。境内に湧く金運清水は、平成13年(2001年)に新しく掘られた井戸で大黒天に供えら金運良好、資産増加、子孫繁栄など大変ありがたいご利益があります。

金運清水と紅梅・白梅

平田靱負(ゆきえ)の墓所

薩摩九烈士の墓所と墓碑(右手前端)

文久2年(1862年)4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組(薩摩藩急進派)21名、真木和泉守ら10名、田中河内介ら5名の36名が集結。島津久光の君命を受けた薩摩鎮撫使9名が藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず斬り合いとなりました。鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切 腹)を出し、この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、 遺骸を丁寧に白木綿で包み大黒寺に埋葬した。更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています。

金札宮

縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝わります。この翁が天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)で天平勝宝2年〔750年〕に創立し清和天皇の御代、橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命です。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝える。

鳥居と参門

境内

拝殿と本殿

伏見の七名水・・・「七つ井」

伏見の由来が、伏し水と言われる程に良質な伏流水が、豊富でした。七つ井とは、石井(いわい)、常盤井(ときわい)、春日井(かすがい)、白菊井(しらぎくい)、苔清水(こけしみず)、竹中清水(たけなかしみず)、田中清水(たなかしみず)の井戸(湧き水)〕を言います。

竹中清水

白菊水

常盤水

常盤井は元々、伏見区桃山常盤町にありました。昭和32年〔1957年〕、国道24号線の拡張工事時に破却され井戸の井筒は、御香宮・弁天社前の池の石橋になっています。伏見七井の1つとされた名水で水が、清く不変なので常盤と云われました。又、"平治物語"に因って常盤御前が、今若、乙若、牛若(源義経)を連れて大和に落ちのびる途中にこの井戸で足を洗った事からこの名前が付いたという付会された伝説もあります。

撞木町遊郭跡

慶長9年(1604年)、渡辺掃部、前原八右衛門の両名により開設されました。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704年)全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)が敵の目を欺く為、この地で遊興した事で知られます。

撞木町遊郭跡

大石良雄(内蔵助)遊興の地記念碑

撞木町遊郭遊郭之碑

欣浄寺(ごんじょうじ)

深草少将の屋敷跡に欣浄寺(ごんじょうじ)はあり、今は清涼山と号する曹洞宗の寺院ですが寺伝によれば応仁の乱(1467年)迄、真言宗の寺院だったと伝わります。鎌倉時代の寛喜2年(1230年)頃、道元禅師が布教に務めた地とも伝わり曹洞宗では道元禅師ゆかりの地でもあり、「深草閑居の史跡」としての聖地と伝わります。

茅葺門(小町姿見の池)

深草少将姿見ノ井戸(墨染井)

小野小町・深草少将供養塔

有栖川宮供養塔

昭宣公塚

墨染井(涙の水)

小町姿見の池

本堂

墨染桜寺

貞観16年(874年)、清和天皇の勅創により豊臣秀吉は当寺に信心厚く、姉瑞竜尼も帰依され、整備されました。平安時代、藤原基経の死を悲しんだ歌人・上野峯雄が歌を献じたところ、桜が薄墨色になったとの伝説により墨染桜寺と名付けられました。

山門

本堂

墨染井(御手洗鉢)

本堂前の御手洗鉢は明和5年(1768年)、ニ代目・中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と刻まれていますが墨染桜の話しや欣浄寺(ごんじょうじ)の深草の少将の悲話が歌舞伎芝居で民衆に人気だった事を物語っています

壽碑

三代目の墨染桜と黄桜(御衣更)

藤森神社

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。

南参道の鳥居

蒙古塚

かえし石

「蒙古塚」は一に「七塚」とも呼び蒙古の将兵の首を埋めた所と云われ神功皇后が兵器を埋納した所とも伝わります。「かえし石」は別に「力石」とも呼ばれ、大・中・小の三つの餅型の石が積まれています。江戸時代より藤森祭の京都所司代巡検時に当社の神人が拝殿より鳥居迄この石を転がす行事があったとか祭りに集まった力自慢が力試しに石を抱き上げたとも伝える。

紫藤ノ碑

拝殿

本殿

本殿

不二の水井

旗塚

旗塚の上に”いちいの木”があり今は枯れた株となっているだけですが、 かっては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛などの治癒にご利益があり新撰組局長・近藤勇も 「いちの木さん」を信仰し、足しげく通っていたと伝わります。 旗塚の「旗」は 「秦」につながると云う説もあります。 平安遷都以前に当地を治めていたのは 紀氏一族で産土神(うぶずながみ)として深草山々頂に雷神を祀ていたのが最初で、やがて新羅系渡来人の秦氏の勢力が大きくなり守護神として真幡寸(まはたき) 神社と称するようになり神護景雲年間(767〜769年)頃の事で社地も現在地に定まりました。「旗塚」、纛旗(とうき)の埋納説などは秦氏に因んでの伝説です。

神兜像

八幡宮(重要文化財)

末社

大将軍社(重要文化財)

天満宮社

末社(蔵王、広田、諏訪、厳島、住吉、熊野、天満宮)

石川五右衛門ゆかりの水鉢台石(手水舎)

手水舎の水鉢の台石は宇治浮島にある十三重塔の上から五番目の石を石川五右衛門が盗みここへ持ち運んだと伝わり現在も十三重塔を見るとその部分だけ色が違っています。

稲荷社

手水舎

水鉢と五右衛門が盗んだという台石

絵馬堂

絵馬

JRA奉納絵馬

伏見義民一揆(天明義民一揆)

安永7年(1779年)11月、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)は着任後間もなく、その地位を利用して暴政を振舞うになりました。その為に数万もの伏見住民を窮地に陥れる結果となり、こうした町民を救おうと立ち上がったのが町年寄・文珠九助初め焼塩屋權兵衛ら7人の義民でした。彼等は江戸幕府に命がけの直訴に及び悪奉行を失墜させました。奉行罷免後、權兵衛は京都東町奉行所の再吟味による尋問に遭い、遂に天明7年(1788年)11月4日、獄中にて病臥し非業の最後を遂げました。

JRA奉納絵馬

焼塩屋権兵衛碑

即成就院跡(そくじょうずいんあと)

平安時代後期、関白・藤原頼道の子・橘俊綱が桃山丘陵に豪壮な山荘を構えました。俊綱没後、山荘内の持仏堂を伏見寺とし、後に即成就院と称しました。「伏見山寺宮近廻地図大概」には中世にはこの辺り一帯を即成就院村と称し伏見殿、大光明寺、蔵光庵などの寺院が描かれており付近には庶民の家屋も点在していました。伏見山荘は後に白河天皇に寄進され皇室領となりやがて伏見宮家に伝領されこの間にも即成就院も何度か建替えられましたが、応仁の乱で完全に荒廃し文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見山荘跡地辺りに伏見城を築城する事となり当地に移転する事となり明治5年(1872年)迄あった即成就院跡です。現在、即成就院は方安寺と共に泉涌寺(せんにょうじ)に遷されその名跡を残しています

即成就院跡

那須与一(なすのよいち)

寿永4年(1185年)2月、讃岐・屋島へ落ち逃れた平家を追って、源義経は海路で阿波に上陸し陸路で屋島に迫り、背後から平家を急襲した。驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返された。日没、両軍が兵を引きかけている時、沖の平家軍から年若い美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。美女は、紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで船べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをしている。これを見た、義経は、弓の名手・那須与一宗高に扇を射抜くよう命令した。与一は、馬を海に乗り入れたが、的の扇まで約40間(約70m)、そして的の扇は小舟と共に揺れている。与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢は見事に扇に命中し扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちました。この様子を見守っていた源平両軍は、歓声を上げて与一を褒め讃えたと伝わります。

那須与一誕生井

那須与一の墓所

即成就院(そくじょうずいん)跡地には那須与一の墓所と称する方墳や与一誕生井と称する古井戸があります。これは下野国の那須荘をこの寺領として寄進した事による付会した伝説です。

深草山

深草山とは稲荷山より南、伏見山(桃山)との間の低い山々を総称し山の表面は竹薮に覆われ桃や柿の木などが点在しています。史上初めてその名が見えるのは「類聚国史」の延暦11年(792年)8月4日の条と伝わる。「紀伊郡・深草山の西面は京城に近く、当地に庶民の遺骸などを埋葬する事は不敬にあたり禁ずる。」と記されています。間もなく桓武天皇を深草の南の柏原野に奉葬、仁明天皇を深草山の西辺に奉葬により庶民などの遺骸は全て山中に葬られました。今なお山中から祭器葬具類と思われる土器類を発掘するのは、この為で龕前(がんぜん)堂ヶ原、日打谷、日火ヶ谷などという地名は古来、葬送地であった事を意味しています。

うずらの里と称された深草

山伏塚(即身仏)

「山伏塚」は行者塚、行人塚、入定塚ともいわれ、仏教で仏といわれ釈迦滅後、56億7,000万年内に下生して衆生救済を果たすという弥勒信仰に基き、自ら生きながら塚に入り入定した行人や修験者の塚の跡です。入定を果たす為、行人や修験者は木食行といって木の実・草の根を食して穀類や塩類を断ち、寒の水行や手燈などの苦行を一定期間努め死期が近づくと塚に入り土中に埋められ節を抜いた竹筒で呼吸をし鉦を叩きながら念仏を唱えたり真言を誦して1〜3週間生き続けたと伝わり、入定後3年余りで遺体を掘り出し乾燥させたものを「即身仏」と称して人々の崇拝を受けました。自埋入定伝説は全国的に残されており現存する即身仏は20体以上ともいわれます。

山伏塚(行者塚)跡

沓塚(くつづか)陵墓参考地

この塚は一堆の円墳からなり墳上に松の木を植え文化5年(1808年)春、醍醐寺の侍臣・桜井忠亮の書になる「理源大師沓塚」と記した石碑がある。理源大師聖宝は初め、貞観寺の僧正・真雅の弟子となり後に子院・普明寺に院栖し、延喜9年(909年)7月6日、78歳で入寂しました。当地は普明寺の旧跡と伝わり塚は、理源大師聖宝の墓とされ深草地方に散在する沓塚、行者塚、松塚の1つで現在は陵墓参考地となっています。一説には、理源大師聖宝の遺体が天空に飛んで消え残された沓を身代わりに埋葬して墓所とした為に沓塚と称するとの伝説もあります。

沓塚

Tourist  2004.03.15(M)

 

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