伏水の里道散策

 

呉竹の里散策・・・その2

 

薄日さす 元政庵や 竹の春 法城

 

仁明天皇深草陵〜浄蓮華院〜真宗(しんじゅ)院〜嘉祥寺〜深草十二帝陵(深草北陵)〜瑞光寺〜宝塔寺

 

桃山城

宝塔寺の仁王門辺りからの桃山の景色

 

仁明天皇深草陵

陵は、南面する方墳で周囲に空壕をめぐらし陵上に松樹が茂っています。陵は、後世その所在を失い江戸時代には、諸説粉々、容易に決定できなかったが、安永・天明頃に善福寺の住職が東車塚とよぶ荒墳を発掘、石棺や陶壺に入った乾元大宝の古銭を得た事から深草陵と決定し元治元年〔1864年〕修治されました。

仁明天皇深草陵

浄蓮華(じょうれんげ)院

天台宗妙法院末寺院で洋風建築の本堂には阿弥陀如来像を安置しています。境内の後に俗に谷口古墳と称する一堆の円墳があり江戸時代の頃、桓武天皇御陵と言われていました。文政4年(1821年)、比叡山の僧・尭覚は有栖川韻仁(つなひと)親王を奉戴して一宇を草創し浄蓮華院と号しました。万延元年(1860年)、その弟子・尭雄は御影殿を建てて天皇の菩提を弔ったが明治になり種々検討された結果、御陵は単なる伝説に過ぎないと判定されましたが未だに桓武天皇御陵地には諸説がありミステリーとされています。又、当院は幕末期に勤皇派の飯田忠彦が隠栖し「野史」291巻を執筆した所であり彼が参考資料を移しとり書きとどめた手記などが当寺に保管されています。

山門

御影殿

旧東海道本線跡

明治12年(1879年)8月18日、京都・稲荷・山科(歓修寺)・大谷間13.1kmが仮営業され、翌13年6月28日には逢坂山トンネルが開通し、京都・大津間が、開通。大正10年(1923年)東山トンネルができ、現路線に至るまで東海道線の路線でした。

旧東海道本線跡(名神高速道路高架下道路)

蒸気機関車(Cタンク)

Cタンク1800型機関車(イギリス製:自動連結器)

Cタンク2800型機関車(イギリス製:自動連結器)

京都〜大津間の25/1000の勾配に対処する為に明治14年(1881年)、8両が輸入されました。現在、大阪交通博物館に静態保存されています。現東海道線東山トンネル越えの勾配は10/1000です。 動輪(大車輪)の数が3つならA・B・Cと3つ数えてCです。4つならDです。有名な「D51:デゴイチ」は動輪が4つという事です。

明治30年(1897年)、奈良鉄道(現:近鉄)が輸入し今の近鉄京都線を走りました。伏見駅近くの高架下(濠川)に当時の鉄橋跡が残っています。明治38年(1905年)、奈良鉄道は関西鉄道に買収された時に、2800型を8両、3030型を5両を所有していました。

真宗(しんじゅ)院

浄土宗西山深草派・根本山と号し、後深草天皇の発願により宝治年間(1247〜1249年)に円空立信によって建立されました。当時の寺領は後の深草北陵も含み後嵯峨上皇から山門、経蔵などが寄進され後深草天皇が亡くなられると境内の法華堂に納骨され深草北陵(十二帝陵)の始まりとなりました。安政7年(1778年)、伏見義民では文殊九助ら36人が真宗院に集まり将軍(幕府)への直訴が決議されました。裏山の墓地には日本初の人体解剖を行い、その成果を「蔵志」として著した山脇東洋の墓所があります。

山門

本堂

善福寺

真宗大谷派・霞谷山と号し境内に旧嘉祥寺の礎石が残っており旧嘉祥寺の一部でその跡地に辻堂が建てられたと伝わります。この一帯は伏見城築城以来の瓦の生産地で知られ瓦師は姫路よりの移住者で熱心な真宗門徒であったが為に承応元年(1652年)、辻堂跡に本堂を立て善福寺と号しました。天明年間(1781〜1788年)、伏見奉行・小堀政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴した文殊九助らの中に焼塩屋権兵衛がおり善福寺は彼の宿坊でもあり当時の住職・良周は彼らを支援し本堂の客僧部屋は彼らの集会場所でもあった。

山門

嘉祥寺礎石

嘉祥寺(かしょうじ)

嘉祥寺は天台宗の寺院で、本堂に歓喜天、別名は 聖天を祀ることから「深草聖天」とも称され往時は七僧を置き、朝廷の御願を修する寺院であったと伝わり、貞観3年には西の院、清和天皇の御代には嘉祥寺西院でもって貞観寺を建立、その後の光考天皇の頃には五種の塔を建てたと記録が残るほど、南北に500mにも及ぶ境内を有する大きな寺院であったと伝わりますが「応仁の乱」により堂宇は殆どが焼滅し荒廃してしまいました。

往時の嘉祥寺イメージ図

山門

手水井

現在の嘉祥寺は江戸時代の寛文2年(1662年)に、大僧正空心が、安楽行院の再興にあたり、 聖天像を祀る堂宇を建立し、安楽行院嘉祥寺 と号したことに始まります。 境内にある大きな石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝わります。

十二帝供養塔

本堂

深草十二帝陵(深草北陵)

深草北陵とも呼ばれ、陵内に後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町〔おほぎまち〕、後陽成の十二帝、栄仁〔よしひと〕親王のご遺骨を泰安しています。鎌倉〜桃山時代にかけての天皇で多くの天皇が、一ヶ所に奉葬されたところに当時の皇室の衰退を物語っています。

深草十二帝陵(深草北陵)

極楽寺跡

宝塔寺より西、直違橋通り(6〜10丁目)に至る広大な寺領で現在は極楽町と呼んでいる所と伝わります。「大鏡」によれば藤原基経が幼童であった頃、仁明天皇が芹川行幸に供奉した時、天皇秘蔵の琴爪を紛失されそれを基経に捜し求められたが広大な荒野に於いて困難を極め、基経は一心に神仏に祈願を込め、もし勅命を果たす事が出来たならねそこに一伽藍を建立せんと誓い、無事にこの地に於いて発見したと伝わります。基経は承和3年(836年)、藤原長良の子として生まれ、叔父・義房の養子となり後に関白太政大臣になり没後、昭宣公と称されました。極楽寺は基経の子・時平が意志を継ぎ建立したもので寺域は今の七面山迄取り入れた広大であったと伝わります。「応仁の乱」以降、度々の兵火により荒廃し慶安2年(1649年)、宇治に興聖寺が移建された以外は極楽寺を偲ぶべきものは皆無となりました。

極楽寺跡界隈(深草極楽町)

番神塚(藤原塚)跡界隈(深草極楽町)

三十番神祠(瑞光寺:元政庵)

「番神塚(藤原塚)」跡は、元政庵の門前北側、JR奈良線の東側の地(深草極楽町)にあたります。塚は西南を正面とする前方後円墳で墳上に法華宗徒が建てた三十番神堂があったので「番神塚(藤原塚)」と称されました。この塚は昭宣公の母・藤原乙春(陽成天皇外祖母)を葬った「深草墓:延喜式」と云われ又、母の字を脱落して昭宣公の墓とも云われたが決定に至らなかったが現在、墳墓らしき形跡は認められません。瑞光寺(元政庵)の三十番神は大本山極楽寺薬師堂に番神山として現存していたものです。

瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

当地は極楽寺の薬師堂跡と伝わり、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われています。

元政上人(げんせいしょうにん)旧跡

山門

この石標は元政の旧跡瑞光寺を示すものである。元政(1623〜68年)は、彦根藩士であったが出家、詩人として有名になりました。

本堂

手水(帝釈天・白瀧弁財天)

元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものです。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努められた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

元政の墓所

宝塔寺(ほうとうじ)

縁起は藤原氏の極楽寺に迄遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院ででしたが突如として、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝わります。徳治2年(1307年)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門()、本堂(重要文化財)、多宝塔(重要文化財)は重要文化財に指定されています。

総門(四脚門:重要文化財)

日像荼毘処

境内からの景色

日像は妙顕寺(京都)で康永元年(1342年)没しました。遺言により、当地で荼毘(火葬)に臥され日蓮、日朗の遺骨も納められました。故に西身延、巽の霊山とも言われています。

仁王門

那羅延(ならえん)金剛

密迹(みっしゃく)金剛

本堂

客殿

歴代廟所

多宝塔(重要文化財)

中興開山廟

三十番神

深草山鶴林院と称する日蓮宗妙顕寺派の寺で境内に日蓮、日朗、日像三代の遺骨を納めた多宝塔が、ある事から宝塔寺と言います。応仁の乱で荒廃しましたが、天正18年〔1590年〕に日銀上人によって再興されました。

日像上人廟

日像上人廟

七面山参道

千仏堂(鬼子母神堂)

参道

七面社

山頂からの景色

常富明神祠

妙見堂

都々逸大明神

熊鷹舎

常富稲荷大明神

清瀧姫大神

参道

昭宣堂

七面山登り口

本堂

浄行菩薩(手水舎)

慈母観音菩薩像

鐘楼堂

塔頭・自雲院

塔頭・霊光院

塔頭・直勝寺

塔頭・霊光院には、織田信長から桂馬の一字を与えられ、宗桂と名乗った将棋名人の墓所があり、墓は将棋の駒の形で、裏面には桂馬と刻まれています。

塔頭・円妙院

塔頭・大雲寺

直違(すじかい)橋

文禄年間に豊臣秀吉が伏見築城に際し開通させた伏見街道の七瀬川に架かる橋を言います。川が道路を斜めに切っている為に橋も斜めに架けられた事から直違橋という名前になり、南〜北へ直違橋1丁目〜11丁目迄ある町名にもなっています。今の橋は明治初期に架けられ「伏見街道第四橋」と橋柱に刻まれています。

茶碗子の水井

直違橋

Tourist  2004.03.15(M)

 

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