伏水の里道散策

 

呉竹の里散策・・・その3

 

春風に 五百羅漢の とはれ皃(かほ) 鈴鹿 野風呂

 

石峰寺・石仏群(五百羅漢)巡り〜ぬりこべ地蔵尊〜一本松

 

羅漢石仏(石峰寺)

 

五百羅漢

ようやくに念願の百丈山・石峰寺の五百羅漢(石仏群)を見る事ができました。風化している羅漢さんもありましたが洒落味があります。「釈迦の誕生〜涅槃(ねはん)迄」を表していますが全ての羅漢さんの表情が違い必ず自分に似ていると感じるものがあるはずです。

石峰寺

石峰寺は百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝えます。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって創設されました。江戸中期、創建時は諸堂も有する大寺院でしたが大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみです。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生から涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現しています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝えます。

石峰寺参道

赤門(竜宮造り)

赤門(竜宮造り)

歌碑

石峰寺開山千呆(せんかい)碑

本堂

本尊・薬師如来像

伊藤若沖(じゃくちゅう)

境内に墓地があり墓石表面には「斗米庵若中居士墓」と記しその右には貫名海屋(ぬきなかいをく)の撰文による筆塚があります。若中は江戸時代中期の画家で錦小路の青果問屋「桝屋」の長男として生まれましたが幼少より画を好み、狩野派の画を学び中国の古蹟を真似、光琳の図案風の筆致を取り入れて人物山水花鳥画を描きました。特に鶏画を得意とし絵を求める人は白米一斗を謝礼としたので「斗米庵」と称されました。市井の生活を嫌い晩年は深草に閑居し清貧の中で画筆に親しみ寛政12年(1800年)9月10日、85歳で没しました。

地蔵尊祠

マリア像(キリシタン地蔵尊)

伊藤若沖墓所

石仏群(五百羅漢)巡り

本堂背後の山中にあり石造釈迦如来像を中心に十大弟子、五百羅漢、禽獣鳥魚(きんじゅうちょうぎょ)などを配し釈迦の誕生〜涅槃(ねはん)迄の一代を表しています。この石仏群は伊藤若沖が下絵を描き作らせたと伝わります。江戸時代の作ですがその表情はいずれも奇抜軽妙、洒落味があって微笑ましく洛西五智山の石仏と供に京都市石仏群の双璧と称されています。

赤門(竜宮造り)

卒塔婆石塔

釈迦誕生

耒迎諸菩薩、出山釈迦

出山釈迦

十八羅漢、説法(釈迦・文殊・普賢)

托鉢修行

諸羅漢坐禅窟

釈迦涅槃(ねはん)の場

釈迦涅槃(ねはん)の場

賽(さい)の河原

賽(さい)の河原

参道と石仏(羅漢)

諸石仏(羅漢)

諸石仏(羅漢)

諸石仏(羅漢)

五百羅漢参道〜赤門(竜宮造り)

赤門(竜宮造り)

赤門からの景色

ぬりこべ地蔵尊

明治3年(1870年)の深草村絵図に、この場所は「ヌリコベ墓」と記されており、江戸時代から信仰があったようです。由来は、歯の痛みを封じ込める意味、又は土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になったとも伝えます。現在も歯の治癒を願って参詣者は絶えません。

ぬりこべ地蔵尊

一本松

かって樹齢千年を越す老松がありました。昭和9年(1934年)の室戸台風で損傷し枯死し現在は二代目の松が植えられ「旧蹟一本松」の標石があります。常盤御前が三人の子を連れてその下で休んだとか豊臣秀吉が植えたとか参勤交替の道標だったとか諸伝説があります。元治元年(1864年)7月19日、「禁門の変(蛤御門の変)」では大垣藩兵が一本松(宝塔寺に本陣)に布陣し伏見街道を北上してきた長州藩兵と戦闘が勃発し黒門の守備を命じられていた新撰組や会津・桑名藩兵が急行し長州藩兵を撃破しました。付近の住民は七面山などに避難したと伝わる。

旧蹟一本松碑

Tourist  2004.03.15(M)

 

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