Column「伏水物語」

 

江戸時代(前半)・・・関が原の戦い〜大阪冬の陣、夏の陣】

 

関が原の戦いの前哨戦〜豊臣から徳川へ・・・

伏見城攻防戦

慶長5年(1600年)7月19日、石田三成率いる西軍の宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘、毛利秀元らの4万の軍勢が

伏見城を包囲し、銃撃戦から城攻めが始まった8月1日、西軍の総攻撃を受けついに陥落、城代・鳥居元忠は城内の

石段で切腹し伏見城は陥落しました。西軍は、徳川家康率いる東軍を壊滅すべく大垣城に向けて行軍を開始しました。

石田三成の台頭

石田三成 永禄3年(1560年)〜慶長5年(1600年)

石田三成は、軍事的才能よりも官僚としての能力にすぐれ、兵站(へいたん)の掌握や民政の実施、服属大名との折衝に辣腕を振るった。浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以らの豊臣氏直属吏僚の中で筆頭奉行としての地位を確立しました。秀吉をして「才器でわれに異ならないものは三成のみ」と言わしめたと伝わります。慶長5年(1600年)、反徳川勢力を結集して、挙兵し天下を二分した戦いは9月15日、関ヶ原で東西両軍が衝突。小早川秀秋らの寝返りによって西軍は壊滅状態となり、三成も逃走中捕縛されて10月1日、京都六条河原で処刑されました。

関が原の戦い

    天下の覇権争い

慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍、双方合わせて15万人を超える大軍が天下の覇権を

巡って関が原で激突しました。早朝から始まった合戦は、正午前後に中山道を南西から見下ろしていた西軍の小早川秀秋が東軍に

寝返り、西軍の側背に攻め込み西軍は崩壊しました。たった1日の合戦をもって徳川家康は、対抗勢力を一掃しました。 

豊臣家の滅亡

豊臣秀頼 文禄2年(1593年)〜元和元年(1615年)

淀殿 永禄12年(1569年)〜元和元年(1615年)

文禄4年(1595年)、秀吉の養子関白秀次の自刃により豊臣世嗣となる。慶長3年(1598年)、秀吉は徳川家康、前田利家ら五大老に秀頼を託して伏見城で死去。慶長5年(1600年)、の関ヶ原の戦い後は徳川家康が天下の政権を掌握し秀頼は摂津、河内、和泉の60余万石の大坂城主という一大名に転落。慶長8年(1603年)、内大臣となり、家康の孫千姫と結婚。慶長10年(1605年)、右大臣に進んだ。慶長19年(1614年)、冬の陣と元和元年(1615年)、5月8日、夏の陣の二度の争乱で徳川軍に攻められ母淀殿と共に自害し、豊臣氏は滅亡しました。

豊臣秀吉の側室。近江生れ。浅井長政の長女、母は織田信長の妹小谷の方。茶々ともいう。天正元年(1573年)、浅井氏滅亡の際、母と妹2人(常高院、崇源院)と共に信長の尾張清洲城に入る。信長の死後、天正10年(1582年)柴田勝家に再嫁した母に従い越前北庄に移ったが、翌年柴田氏の滅亡にあい、妹たちと共に秀吉に庇護される。やがて秀吉の寵を受け側室となり、天正17年(1589年)、納所の淀城に移り、淀の女房と呼ばれ、棄丸(鶴松、3歳で夭逝)を生む。小田原征伐、文禄の役には秀吉の陣所に随伴、文禄2年(1593年)、大坂城で拾丸(豊臣秀頼)を生み、翌年、伏見城が成ると西丸に住み、その権勢は正室北政所(高台院)を凌ぐほどであった。秀吉の没後、慶長元年(1596年)、秀頼を擁して大坂城に移ったが、大坂の冬の陣、夏の陣で徳川家康と交戦、元和元年(1615年)5月8日、大坂落城により、秀頼と共に自刃した。尚、淀君と称される事は、徳川方によって作られた嘲弄した俗称です。

 

大阪夏の陣

慶長20年(1615年)4月26日〜5月8日

慶長20年(1615年)4月26日、大阪夏の陣が開戦しました。 二重の堀に守られた大阪城に徳川方が攻めあぐねた冬の陣と違って、和睦として徳川方が外堀、内堀まで埋めた夏の陣では豊臣方も籠城できずに外に打って出ますが、戦況は 厳しく、5月6日頃に勝敗が見えてきました。ここで徳川方は7日、家康の孫娘・千姫を厳しい淀君の監視下から城外に脱出させる事に成功。 この日、最後の決戦も行われました。 この戦いで、散々徳川方を苦しませた真田幸村も戦死。豊臣方の主戦力も壊滅 して、完全に勝負は付きました。 8日昼頃、淀君と秀頼母子も自刃。天正10年(1582年)の本能寺の変後、豊臣秀吉 が天下統一してから33年後、豊臣家は滅亡しました (秀頼の遺児・国松は捉えられ23日に処刑)。

大阪冬の陣、夏の陣

関が原の戦いが終わり、天下の実権を握った徳川家康は敵方・西軍についた大名を改易・減封など処分した。

家康は征夷大将軍に任命され事実上天下人になると河内・和泉・摂津60余万石を領する対抗勢力・豊臣家を圧迫し始めました。

多数浪人を召抱え始めた事や方広寺の鐘の銘文事件を口実に戦に持ち込み慶長19年(1614年)、「冬の陣」が勃発。

圧倒的な兵力を前に外堀を埋めるなどの条件で一度は和睦するが、家康は内堀も埋めさせ、その上他国へ転封せよなど

無理な強要をし慶長20年(1615年)、「夏の陣」が再び開戦しました。豊臣秀頼・淀殿母子は自刃し豊臣家は滅亡しました。

徳川家康の台頭

徳川家康 天文11年(1542年)〜元和2年(1616年)

天文11年(1542年)、松平広忠の長男として誕生。永禄5年(1562年)、信長と清洲で同盟。慶長2年(1597年)、秀忠の長女・千姫、伏見で誕生。慶長5年(1600年)関ヶ原で西軍と戦い大勝(関ヶ原の戦い)。九男・義直(尾張藩々祖)、伏見で誕生。慶長6年(1601年)、伏見に銀座を設置。慶長7年(1602年)、十男・頼宣(紀伊藩々祖)、伏見で誕生。慶長8年(1603年)、家康、伏見城で征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。十一男・頼房(水戸藩々祖)、伏見で誕生。慶長18年(1613年)、公家諸法度五カ条制定。慶長19年(1614年)、豊臣氏征伐を決定し、諸大名に出陣を命ずる(大坂冬の陣)。元和元年(1615年)、豊臣氏との講和決裂。諸大名に出陣を命ずる(大坂夏の陣)。大坂城炎上、豊臣秀頼・淀殿母子、大坂城中で自害。豊臣氏滅亡(元和偃武)。武家諸法度制定。元和2年(1616年)家康、駿府城にて没する。享年75歳。久能山に葬られる。元和3年(1617年)、家康に東照大権現の神号が贈られる。

江戸幕府の開設

江戸幕府は、徳川家康が慶長8年(1603年)、征夷大将軍に宣下され、江戸城を本拠地として武家政治を執った機関を言います。

15代将軍・慶喜(よしのぶ)が慶応3年(1867年)、大政奉還する迄の約265年間続きました。徳川家康が、全国を幕府領と大名領に

分け、将軍を頂点として、幕府と藩による支配体制を布きました。これを幕藩体制といい、士農工商の身分制度と、大名の謀反などを

防ぐ為に親藩譜代、外様大名に区別して領地を配置し、武家諸法度で厳しく取り締まり、参勤交代なども義務づけました。

幕府が直接支配する直轄地(天領)は約400万石で、旗本領を合わせると約700万石となり、全国の石高の約1/4を支配しました。

大阪、京都、長崎、山田(今の三重県伊勢市)などの都市や佐渡金山や石見銀山などを直轄地とし、貨幣の鋳造権も独占しました。

 

銀座発祥の地の石碑

両替商旧跡

1601年(慶長6年)、豊臣秀吉の逝去後、伏見城に入った徳川家康は、日本最初の銀座を伏見に設立しました。堺より職人を招いて通用銀の鋳造を初めました。

慶長13年(1608年)、銀座が京都に移されてからも銀座の伝統が受け継がれ、両替商が多く軒を並べ、天保年間(1830〜44年)、両替商は51軒もありました。この石標は両替商の旧跡です。

伏見奉行所

慶長5年(1600年)9月18日、関が原の役後、徳川家康の伏見城入城後は桃山清水谷(桃山御陵石段下)に奉行所を設置しました。

松平下野守忠吉の支配下に属し、臣舎人源左衛門に司した為、慶長の動乱によって荒廃した伏見は次第に回復し慶長7年(1602年)

12月、伏見城在番制を定めその指揮は京都所司代の管轄とされました。慶長12年(1307年)4月29日、掛川城主・松平隠岐守定勝を

初代伏見城代に任命し「伏見は天下概要の地なるを以ってここに在城せんと欲するも思う所ありて駿府を坐城とせしかば伏見の警備の為

には譜第勇敢の士を以って当たらしめ武具兵糧の貯えたり若し不慮の事あらんには汝固く守り怠る勿れ。」と武器、鎧などを優遇しました。

寛永2年(1625年)7月、時の奉行・小堀遠江守が富田信濃守邸跡地に奉行所を移転その規模と指月の森を背景に宇治川に面した

風景は見事だったと伝わる。安政元年(1854年)、時の奉行・内藤豊後守が組屋敷内に「優則学舎」を設立し与力、同心の子弟や

町の有志の子弟達にも入学を許可し教育も始められ、後の伏見に私塾、寺子屋などが多数開かれる教育機関の礎となりました。

石庭と所からの藤

元和9年(1623年)、7代奉行・小堀遠江守の頃、3代将軍・家光が伏見奉行所を見聞に来るとの事で費用、日数をいとわず風雅を

尽くして庭園を築き寛永9年(1632年)に完成しました。遠江はその功により5000石の加増となり一躍大名に列せられました。

そこには藤の銘木があり、後水尾上皇から「所から実に見事な藤だ。」と賞賛された所以から「所からの藤」と名付けられた。

戦後、国道24号線拡張工事の為に石庭は、御香宮神社に移され「遠州ゆかりの石庭」として当時の名残を僅かに留めています。

 

伏見奉行所組屋敷図

伏見奉行所の組屋敷図です。伏見奉行所といえば・・・慶応3年(1867年)12月迄、44代奉行・永井主水正(もんどのしょう)が赴していました。翌年正月2日、会津・桑名藩の幕軍が京橋に上陸し大阪町の本願寺別院(伏見幼児園)に入り、新撰組は伏見奉行所に陣取っていました。一方、薩長連合軍は西郷隆盛の指揮下にあり御香宮東方の高台(桃山筑前台、龍雲寺)に大砲列陣を布いて伏見奉行所を眼下に見下ろしていました。3日、午後4時頃、鳥羽に於いて薩摩藩が機先を制し大砲を一発を発射。この砲声により高台にいた大砲列陣が一斉に伏見奉行所に向けて砲撃を開始。会津藩、新撰組など応戦の準備をする迄に砲火を浴び大火を起こしJR桃山駅迄反撃し大接戦となったが、大山弥助(大山厳元帥)が大ニ砲隊を率いて来援し勝利しました。この戦いで伏見は奉行所始め、大手筋以南は殆ど焼滅しました。戦いは、4日迄続いたが、仁和寺(小松宮)喜彰親王が軍事総督として錦御旗を掲げ出陣し土佐軍も連合軍に参戦、朝敵と呼ばれる事を恐れた幕府軍は退却せざるを得なかったと伝えます。

伏見城の廃城

慶長6年(1600年)、関が原の戦いを経て徳川家康が、伏見城に入城し以来、三代将軍・家光迄、将軍の宣下を当城で受けました。

元和5年(1619年)、伏見城の廃城を決定する迄の約20年間は、徳川氏の伏見城下町として発展し現在の伏見の町形態が

ほぼ整備されました。伏見城の廃城と共に向島城や各大名屋敷も取り壊され、商人、職人達も大阪に移転したので伏見は、

急激に衰退しました。間もなく直轄領地となり伏見奉行・山口駿河守が赴任し交通、経済都市として新しい伏見の町造りが始まりました。

高瀬舟と三十石船

高瀬舟

三十石船

慶長8年(1603年)、徳川家康は過書船に対し朱印状を与え営業許可を再確認し、運上料と運賃を規定しました。「過書」とは関所を通過する免状で、これを備えた船を過書船と言います。過書船は三十石船とも呼ばれ近世を通じて独占的に物資と旅人の輸送にあたりました。便数は朝晩二便で、伏見〜大阪を上下しました。下りは半日で大阪の八軒家に到着、流れに逆行する上りは一日かかって京都・豊後橋に到着しました。乗船場は伏見が京橋、蓬莱橋、阿波橋、平戸橋の4カ所でした。大阪が八軒家、道頓堀、東横堀、淀屋橋の4カ所でした。

角倉了以(すみのくらりょうい)の運河開削

角倉了以(すみのくらりょうい) 天文23年(1554年)〜慶長19年(1614年)

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

高瀬川の功績

角倉了以による高瀬川の開削は、伏見を京都の外港としての役目をもたらせました。又、伏見は、宝暦年間(1751〜1764年)迄に

伏見街道、大和街道、大阪街道などの主要街道が伏見港を中心に整備され水陸両路の中継地として発展しました。

寛永12年(1635年)、三代将軍・徳川家光は、「参勤交代」の制度を定めました。大名行列の京都通過は厳禁されていたので

淀川を船で上り伏見で泊り伏見馬借で馬を借り大津街道を山科へ向かいました。このように京阪間を上下する大名、旅客、

貨物などの中継地として賑わうと共に諸施設なども整備され伏見は活気を取り戻しました。

伏見港界隈の諸施設

伏見伝馬所 現在の月桂冠本社辺りにあって馬75頭と従事する人々が多数いました。
継飛脚 江戸飛脚(南浜町)、大阪飛脚(東浜町)、諸国飛脚(北浜町)、京都飛脚(上中町)
淀川水運の船 過書船(乗客を主とする三十石船の他大小450艘)、伏見船(十石舟200艘)、高瀬舟(京都50、伏見100艘)
本陣 南浜町二軒、山崎町二軒
脇本陣 京橋一軒、南浜一軒
大名御用達 大名屋敷を置かない大名の御用達は、南浜の商人が殆どを占め百余の大名の御用達を30数軒で扱いました。
旅館、船宿 京橋を中心に4、50軒ほどありました。有名な所では、寺田屋があります。

伏見港

淀川筋船舶図(伏見の図)

伏見港の図(豊公伏見城ノ図)

現在の伏見港

豊臣秀吉が伏見城築城の為宇治側の大規模な治水工事をして開いた伏見港。それが港町、伏見発展の礎となりました。

城下町〜港町、宿場町への変貌

車石(八科峠)

牛が荷車を牽き易い様に敷設した路面石で石溝は加工とも轍の跡とも言われ、水を流して滑り易くしていた様です。この車石は、東海道の逢坂山にあったものです。竹田街道にも敷設されていました。

慶長19年(1614年)、角倉了以によって京都二条〜伏見迄、高瀬川が開削されると高瀬舟、淀川の過書船などの港となり京都、

大阪の中継港として活気付きました。陸上交通でも馬借、伏見車組などが設けられ、京橋や淀で荷揚げされた物資が京都へ

運ばれました。近江への中継地としては、六地蔵で荷揚げされ同じく牛車で近江、大津などへ運ばれました。

伏見の町は城下町〜港町、宿場町へと変貌し江戸時代後期には、人口も4万人を突破し堺、長崎などと双肩しました。

桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所に新たに築城

淀城(別名・てん城)

二代将軍・徳川秀忠は、元和5年(1619年)、伏見城廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の

要所である淀に松平越中守定綱に築城を命じて、元和9年(1623年)、着工し寛永2年(1625年)、竣工したのが新淀城である。

江戸時代の淀城図

江戸時代の淀城は「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」の歌で有名な水車があり直径が約8mもありました。城の西南と北の二ヶ所に取り付けられ城内の生活用水として利用されました。

現在の淀城跡

寛永10年(1633年)、松平氏の国替えにより、永井尚政が城主となり、その後、石井憲之、戸田光熙、松平乗邑と城主が次々と代わり享保8年(1723年)5月、明智光秀の重臣で斎藤利三の娘で稲葉家に養女となっていた後の「春日局」で有名な「福」の女婿である稲葉正成から、明治4年(1871年)16代・稲葉正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代にわたり148年間も淀城主でした。

淀千両松

淀小橋(左側・淀城址)

江戸時代の淀川水運は、過書(かしょ)船と呼ばれる幕府の許可を得て運行する船が航行し、中でも旅客輸送用の過書船は三十石(さんじゅっこく)船と呼ばれました。この船は大阪、伏見間を上下し、各船宿が1日2回昼と夜の定期便を出していました。全長27m、約30人乗りの三十石船は、曵き船が必要な上りには約12時間、川の流れに乗る下りには約6時間を要しました。曵き船とは、流に逆らって航行する時に船頭らが川岸から綱で船を引っ張る事をいいます。(上図左岸)

明治11年(1878年)10月、長さ約135mの淀小橋の北側橋台を約3,6m長くし南の橋台、左右の川幅も広めて全長は約169mとなり中央に於いては、約22,6mの間柱を設け通船が便利になるように改修されました。

現在の淀千両松(宇治川右岸堤防)

現在の淀小橋旧跡碑

堤防の上は、道路になっていて千両松と言われた見事な松並木の美しい面影などは全くなく堤防の横を京阪電車が疾走しています。

宇治川にかかり淀城下の入口にあった淀小橋(幅約7,2m、長さ約169m)は、明治31年(1898年)、桂・宇治・木津川の三川改修工事で道路上に淀小橋の石碑を残すのみとなりました。

 

↓時代別リンクで見ていただくと便利です。

 

江戸時代(後半) 江戸時代(後半)

 

inserted by FC2 system