Column「伏水物語」
【江戸時代(前半)・・・関が原の戦い〜大阪冬の陣、夏の陣】
関が原の戦いの前哨戦〜豊臣から徳川へ・・・ 伏見城攻防戦 慶長5年(1600年)7月19日、石田三成率いる西軍の宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘、毛利秀元らの4万の軍勢が 伏見城を包囲し、銃撃戦から城攻めが始まった8月1日、西軍の総攻撃を受けついに陥落、城代・鳥居元忠は城内の 石段で切腹し伏見城は陥落しました。西軍は、徳川家康率いる東軍を壊滅すべく大垣城に向けて行軍を開始しました。 石田三成の台頭
関が原の戦い 天下の覇権争い 慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍、双方合わせて15万人を超える大軍が天下の覇権を 巡って関が原で激突しました。早朝から始まった合戦は、正午前後に中山道を南西から見下ろしていた西軍の小早川秀秋が東軍に 寝返り、西軍の側背に攻め込み西軍は崩壊しました。たった1日の合戦をもって徳川家康は、対抗勢力を一掃しました。 豊臣家の滅亡
大阪冬の陣、夏の陣 関が原の戦いが終わり、天下の実権を握った徳川家康は敵方・西軍についた大名を改易・減封など処分した。 家康は征夷大将軍に任命され事実上天下人になると河内・和泉・摂津60余万石を領する対抗勢力・豊臣家を圧迫し始めました。 多数浪人を召抱え始めた事や方広寺の鐘の銘文事件を口実に戦に持ち込み慶長19年(1614年)、「冬の陣」が勃発。 圧倒的な兵力を前に外堀を埋めるなどの条件で一度は和睦するが、家康は内堀も埋めさせ、その上他国へ転封せよなど 無理な強要をし慶長20年(1615年)、「夏の陣」が再び開戦しました。豊臣秀頼・淀殿母子は自刃し豊臣家は滅亡しました。 徳川家康の台頭
江戸幕府の開設 江戸幕府は、徳川家康が慶長8年(1603年)、征夷大将軍に宣下され、江戸城を本拠地として武家政治を執った機関を言います。 15代将軍・慶喜(よしのぶ)が慶応3年(1867年)、大政奉還する迄の約265年間続きました。徳川家康が、全国を幕府領と大名領に 分け、将軍を頂点として、幕府と藩による支配体制を布きました。これを幕藩体制といい、士農工商の身分制度と、大名の謀反などを 防ぐ為に親藩、譜代、外様大名に区別して領地を配置し、武家諸法度で厳しく取り締まり、参勤交代なども義務づけました。 幕府が直接支配する直轄地(天領)は約400万石で、旗本領を合わせると約700万石となり、全国の石高の約1/4を支配しました。 大阪、京都、長崎、山田(今の三重県伊勢市)などの都市や佐渡金山や石見銀山などを直轄地とし、貨幣の鋳造権も独占しました。
伏見奉行所 慶長5年(1600年)9月18日、関が原の役後、徳川家康の伏見城入城後は桃山清水谷(桃山御陵石段下)に奉行所を設置しました。 松平下野守忠吉の支配下に属し、臣舎人源左衛門に司した為、慶長の動乱によって荒廃した伏見は次第に回復し慶長7年(1602年) 12月、伏見城在番制を定めその指揮は京都所司代の管轄とされました。慶長12年(1307年)4月29日、掛川城主・松平隠岐守定勝を 初代伏見城代に任命し「伏見は天下概要の地なるを以ってここに在城せんと欲するも思う所ありて駿府を坐城とせしかば伏見の警備の為 には譜第勇敢の士を以って当たらしめ武具兵糧の貯えたり若し不慮の事あらんには汝固く守り怠る勿れ。」と武器、鎧などを優遇しました。 寛永2年(1625年)7月、時の奉行・小堀遠江守が富田信濃守邸跡地に奉行所を移転その規模と指月の森を背景に宇治川に面した 風景は見事だったと伝わる。安政元年(1854年)、時の奉行・内藤豊後守が組屋敷内に「優則学舎」を設立し与力、同心の子弟や 町の有志の子弟達にも入学を許可し教育も始められ、後の伏見に私塾、寺子屋などが多数開かれる教育機関の礎となりました。 石庭と所からの藤 元和9年(1623年)、7代奉行・小堀遠江守の頃、3代将軍・家光が伏見奉行所を見聞に来るとの事で費用、日数をいとわず風雅を 尽くして庭園を築き寛永9年(1632年)に完成しました。遠江はその功により5000石の加増となり一躍大名に列せられました。 そこには藤の銘木があり、後水尾上皇から「所から実に見事な藤だ。」と賞賛された所以から「所からの藤」と名付けられた。 戦後、国道24号線拡張工事の為に石庭は、御香宮神社に移され「遠州ゆかりの石庭」として当時の名残を僅かに留めています。
伏見城の廃城 慶長6年(1600年)、関が原の戦いを経て徳川家康が、伏見城に入城し以来、三代将軍・家光迄、将軍の宣下を当城で受けました。 元和5年(1619年)、伏見城の廃城を決定する迄の約20年間は、徳川氏の伏見城下町として発展し現在の伏見の町形態が ほぼ整備されました。伏見城の廃城と共に向島城や各大名屋敷も取り壊され、商人、職人達も大阪に移転したので伏見は、 急激に衰退しました。間もなく直轄領地となり伏見奉行・山口駿河守が赴任し交通、経済都市として新しい伏見の町造りが始まりました。
角倉了以(すみのくらりょうい)の運河開削
高瀬川の功績 角倉了以による高瀬川の開削は、伏見を京都の外港としての役目をもたらせました。又、伏見は、宝暦年間(1751〜1764年)迄に 伏見街道、大和街道、大阪街道などの主要街道が伏見港を中心に整備され水陸両路の中継地として発展しました。 寛永12年(1635年)、三代将軍・徳川家光は、「参勤交代」の制度を定めました。大名行列の京都通過は厳禁されていたので 淀川を船で上り伏見で泊り伏見馬借で馬を借り大津街道を山科へ向かいました。このように京阪間を上下する大名、旅客、 貨物などの中継地として賑わうと共に諸施設なども整備され伏見は活気を取り戻しました。
伏見港
城下町〜港町、宿場町への変貌
慶長19年(1614年)、角倉了以によって京都二条〜伏見迄、高瀬川が開削されると高瀬舟、淀川の過書船などの港となり京都、 大阪の中継港として活気付きました。陸上交通でも馬借、伏見車組などが設けられ、京橋や淀で荷揚げされた物資が京都へ 運ばれました。近江への中継地としては、六地蔵で荷揚げされ同じく牛車で近江、大津などへ運ばれました。 伏見の町は城下町〜港町、宿場町へと変貌し江戸時代後期には、人口も4万人を突破し堺、長崎などと双肩しました。 桂川・宇治川・木津川が合流する水陸の要所に新たに築城 淀城(別名・てん城) 二代将軍・徳川秀忠は、元和5年(1619年)、伏見城廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の 要所である淀に松平越中守定綱に築城を命じて、元和9年(1623年)、着工し寛永2年(1625年)、竣工したのが新淀城である。
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