Column「伏水物語」

 

【江戸は政治の拠点、京都・大阪は経済の拠点】

 

伏見は城下町〜水運、港町へと変貌

家康が江戸に居城したのは、豊臣秀吉の忠告からでした。秀吉は北条氏討伐時、東京湾北岸のにある江戸という漁村を知りました。

この地こそ関八州の鎮府に相応しき地として「北条氏滅亡後この領地は家康に譲るので江戸を居城とすべし・・・」と薦められた家康は

この江戸に居城しました。豊臣家滅亡後、大阪城、伏見城と移城、幕府を江戸に開基したのは、争乱の起こりやすい都圏を避け、

都近くの豪商も多く、覇者の交代に慣れた上方圏の人々より関東、奥州の人心の方が守護しやすいと考えたからと言われます。

家康は、大阪の豪商との連携に努め、政治拠点は江戸に移しながら経済拠点は大阪に残しました。

当時すでに大阪が全国の流通の拠点となりその機能を無くしては、たちまち経済が混乱してしまう事を恐れたのです。江戸は新興都市で

あったので京都・大阪の勢力を借りて成長しました。京都、大阪の二大都市を結んでいた伏見港の賑わいは盛況を極めました。

江戸時代の中書島〔京橋・蓬莱橋界隈〕

宇治川派流・蓬莱橋界隈 宇治川派流・京橋の船着場

京橋界隈の船宿の様子

旅人のほとんどは伏見街道から京橋に出て、寺田屋の前の船着場から三十石船(一般的に旅客定員28名〜30名、船頭4名が定員)で大阪・八軒屋(堺屋源兵衛)へと向かった。急行便とする寺田屋の船は6人〜8人に増員した船頭で朝三便、昼四便、夜五便ほど往復、下りは早く夜に乗船すれば早朝には大阪に着いたが、上りは綱で引くから朝に大阪・八軒屋を出ても夕方にしか伏見に入る事はできなかった。船賃は天保銭一枚、一人座席で寝ころべば三人分の料金、船頭1人増す毎に水夫増賃(かこましちん)も取られたという。

幕府の直轄地・・・京都、伏見

徳川家康は、天下人になってから大名の統制、全国主要都市、鉱山を幕府の直轄する事に取り組みました。

京都・伏見・大津・堺・尼崎・長崎などの政治、貿易都市の有力者を奉行、代官、町年寄、に起用し幕府を助けさせました。

当時、京都、伏見は幕府の直轄地で人口約40万人を越える日本最大都市だった事、複数の政治勢力が存在し、歴史も古く

経済的、文化的にも発達していたからでした。京都、伏見を直接統治する事は、幕府政治の持続、安定に不可欠でした。

京都に所司代を開設したのが、慶長6年(1601年)でした。目的は、大阪の豊臣家(秀頼)、朝廷、西国大名などの動静を

監視するものでしたが、後に京都に移されたが当初、将軍の宿館や所司代屋敷は、伏見に開設されていました。

江戸の経済を支えたのは、関西の経済力でした。物資や多くの商人が流入し大阪、京都、伏見、近江の商人が江戸に

出店し畿内、西国より特産品などを運ぶようになると江戸の商業も活気を帯だしました。当時の伏見名物・深草団扇(うちわ)や

伏見人形なども京都、大阪で流行しましたが、京土産として江戸の人達の人気を集めるようになりました。

深草団扇(うちわ)

伏見人形

団扇の本来の役割は、風を起こすものというより、貴人が自分の顔をかざすために用いた道具であり、魔除けの意味もあって儀礼用、装飾用として発展してきました。日本のう団扇には、中国月扇、朝鮮団扇、南方系葉扇の3系統があり、京団扇は地紙の内部に多数の竹骨をもつ朝鮮団扇の流れをくんでおり、南北朝時代に倭寇によって西日本にもたらされ、京都伏見区の深草に伝わった深草団扇といわれています。京団扇の特徴である挿柄の団扇(柄が中骨と一体でなく、あとから取りつけられる構造)は、江戸時代の宮廷御用の土佐派、狩野派の絵師による「御所団扇」に始まり、柄を黒塗としたり蒔絵をほどこしたりする豪華な団扇もありました。やがて、庶民の使う団扇にも普及し、深草団扇の発達が現在の京団扇に継承されています。

土人形の源流をなす伏見人形はその古い歴史と伝統、そして土地柄、垢抜けして洗練された作風の中にも庶民の心をひきつける素朴さをなくさず多様な種類、膨大な生産量、全国的な販路を誇った事など、土人形中の圧巻である。しかし、伏見人形がいつ発祥したのか明確な時期など諸説があるものの、いずれも明確な資料を欠いているのである。かって、この伏見人形が生産された伏見稲荷大社界隈の深草一帯は古来、土師部が住み、盛んに土器作りを行ってきた事は、多くの資料によって実証されている。そして後世まで「深草の土器」として名産にもなっていて、この土師の伝統が無関係とは思えない。江戸初期までは、土人形らしきものは登場しないが製作技術はすでにあったと思われる。その後、貞享・元禄の頃(1684年〜1704年)、さまざまな土人形が文献に頻出しその後、幕末、化政期(1804年〜30年)頃、その盛時を迎え50軒を越える伏見人形屋が軒を連ねていたと言います。盛大を極めた伏見人形も.時代の推移には抗しきれず、庶民信仰の変化、生活環境の近代化、新素材の玩具の登場などによって、伏見人形への関心が薄らぎ、明治20年代を境に衰退の一途をたどりました。現在、製作を続けているのは丹嘉と菱屋だけである。

深草の団扇屋〔京都団扇の発祥〕

藤森辺りの茶店

伏見街道にあった深草の団扇屋で京都団扇の発祥と伝わる伏見の名産でした。

伏見街道・藤森辺りの茶店で大津街道分岐点地にあり旅人などで大賑わいでした。

忠臣蔵

元禄14年、江戸城松之廊下で浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こして切腹、さらにお家断絶、城地没収に処せられると、赤穂城を開城。

浅野大学長広による浅野家再興を目指すが、翌年7月に長広の浅野本家お預けが決まり、大石内蔵助良雄は、京都円山に同士を

集めて吉良上野介に対する仇討ち決行を確認。12月15日未明、本所・吉良邸に浪士46人と討ち入り、上野介義央の首級を挙げました。

大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)と伏見

大石良雄(内蔵助)万治2年(1659)〜元禄16年(1703年)

大石良雄(内蔵助)は、穂藩の重臣の家に生まれた。15歳で家督を継ぎ、翌々年に赤穂藩家老職に就く。早くから山鹿素行赤に軍学を、元禄5年(1692年)、奥村権左衛門無我に剣術を学びました。元禄7年(1694年)、松山城収受の際には、藩主・浅野内匠頭の名代として務めを滞りなく果たす。赤穂藩主・浅野長矩(ながのり)の無念をはらそうと、家老・大石良雄(内蔵助)ら四十七人の義士隊を組織して討入りを果しました。「忠臣蔵」で有名な大石良雄は、討入り前の一年有余を山科の地に住居を構えていました。討ち入り後は細川家お預けとなり、翌年2月4日に切腹してその生涯を閉じました。

撞木町遊郭跡

大石良雄〔内蔵助〕遊興の地記念碑

撞木町遊郭遊郭之碑

慶長9年(1604年)、渡辺掃部・前原八右衛門の両名により開設された。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704年)全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄〔内蔵助〕(1659〜1703年)が敵の目を欺く為、この地で遊興した事で知られる。

寺田屋騒動

文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩々主・島津久光は率兵(1000名)して自らが上洛し4月10日、大阪藩邸に入った。

これを機に尊攘派の志士らは檄(げき)をとばして同士、250人程が参集し、王政復古の魁(さきがけ)にしようと画策した。

「関白・九条尚忠と所司代・酒井忠義を襲撃し、相国寺獅子王院に幽閉されている前青蓮院宮尊融法親王を救出し、

宮を奉じて参内する。そして、久光に滞京の詔(みことのり)を賜り、三百諸侯に激し、その上京を促す。その上で集議によって、

国是を決し、もし幕府が朝命を拒む時は、違勅の罪を責めて立ちどころに誅伐を加える。」という激しい内容でした。

しかし、島津久光は公武合体論を唱えた為、薩摩藩急進派と久留米水天宮神官・真木和泉守率いる諸藩有志は京都進撃を目指した。

4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組21名、客将という事で真木和泉守ら10名、

田中河内介ら5名の36名が集結しました。中には、大山厳、三島直庸、西郷隆盛の弟・西郷慎吾(従道)らもいました。久光の君命

を受けた薩摩鎮撫使の奈良原喜八郎、道島五郎兵衛、江夏(こうか)仲左衛門、森岡善助ら4名が、竹田街道から大山格之助、

鈴木勇衛門、鈴木昌之助(勇衛門の息子)、山口金之助、上床源助ら5名が伏見街道から、9名が二手に分かれ寺田屋に向かった。

寺田屋にどちらか先に到着した方が取り鎮める手はずで、この9名の内6名が誠忠組の同志であった事は島津久光の心遣いであった。

しかし、鎮撫使側に上意討ちの許可が出ていた為、藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず遂に斬り合いとなりました。

鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切 腹)を出し、

この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、 遺骸を丁寧に白木綿で包み

大黒寺に埋葬した。更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。後、墓は「薩摩九烈士」として祀られ

西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています。西郷隆盛は泣きながら九烈士達の為に、墓碑を書いたとされています。


坂本竜馬・・・八作(船中八作)

慶応3年(1867年)、長崎〜土佐に帰る船中で坂本竜馬は、新国家建設の構想、新政府組閣、閣僚人事、などを考えていました。

八作(船中八作)

一、

全国の政権を朝廷に返上し、政令は全て朝廷からでるようにする。

ニ、 上下の議政局を設置し万機を会議に基いて決定する。
三、

諸侯、公家、庶民から人材を選んで議員に登用し、無用となった旧来の官職は廃止する。

四、

外国との交流は会議に基づき規約を立てて、執り行う。

五、

古来の律令を廃止し新たに法典を選択する。

六、

海軍を拡張する。

七、

新兵を設置して帝都を守衛する。

八、

金貨及び、物価を外国と平衡させる。

この八作は、竜馬暗殺の翌年(明治元年:1869年)、由利公正によって「所謂五ヶ条の御誓文」となり新政府の網領となりました。

寺田屋

女将・お登勢

お龍(りょう)

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。

寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、十八歳のとき寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が一切きりもりし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く、志士たちにも援助をおしまなかった。

西陣織店に生まれたが生家が事業に失敗し没落した為、奉公先の医者・楢崎将作の養女になる。楢崎将作は勤王家で、安政の大獄に連座して獄死。お龍は母親や弟妹を養う為に龍馬達、勤王派の炊事を手伝ったり、京料理屋で働いた。龍馬は楢崎家や料理屋でお龍に会った事があり、元治元年(1864年)苦しい生活を助ける為、龍馬の世話で寺田屋に預けられる。慶応元年(1865年)1月、龍馬が寺田屋で襲撃された際、その危機を風呂場から裸で急を知らせた事は有名。事件後、西郷隆盛の仲人により結婚、薩摩へ日本初の新婚旅行として巡った。

坂本龍馬

中岡慎太郎 天保9年(1838年) 〜慶応3年(1867年)11月17日

有馬新七 文政8年(1825年)11月4日〜文久2年(1862年)4月23日

土佐の郷士の家に生まれた。文久元年(1861年)、武市瑞山が土佐勤王党を結成するとこれに加わったが翌年脱藩。江戸で、幕府の軍艦奉行勝海舟に教えを受けて単純な攘夷論を捨てた。海舟の失脚後、薩摩藩の援助を受けて長崎に亀山社中を結成。海運業を開いた。慶応2年(1866年)、薩長同盟実現に奔走。慶応3年(1867年)、脱藩の罪を許され、亀山社中を海援隊と改めて隊長となった。さらに大政奉還構想などを含む「船中八策」を提唱、前土佐藩主・山内容堂によって将軍・徳川慶喜に建白され、同年10月、大政奉還となった。同年11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎と会談中を見廻組・佐々木只三郎らに襲われ、奇しくも32歳の誕生日に暗殺されました。

土佐藩大庄屋の家に生まれる。文久元年(1861)、武市瑞山の土佐勤王党に加盟。弾圧が始まると脱藩し、長州へ。蛤御門の変にも参加した。その後、薩長同盟の構想を得、坂本龍馬と共に奔走して成功。慶応3年(1867年)脱藩を許され、京都で陸援隊を組織し、藩の遊軍とする。大政奉還の翌月の11月15日、近江屋で坂本竜馬と共に見廻組・佐々木只三郎らに襲われ3日後に死亡しました。

薩摩藩郷士の子として生まれる。19歳で江戸に出、学識を深め、安政4年(1857年)薩摩藩邸学問所教授となり、尊王攘夷の志士と広く交わる。島津久光が兵を率い上洛して公武合体を表し、急進派の真木和泉らと討幕の挙に出ようと、寺田屋に集まった時、久光が派遣した鎮撫使9名らと折衝が付かず斬り合いとなりました。刀が折れた有馬は道島五郎兵衛を壁に押さえ込み、橋口吉之丞に「おいごと、刺せ!」と道島五郎兵衛を道連れにした壮絶な最後は、有名です。西郷隆盛は、この事件を薩摩で聞いた時に「何という事をしたのか、薩摩人は天下を論ずる資格はない。天下の同志に何と説明するつもりか、顔向けのできん事になった。」と涙を流しながら悔しがったと伝えます。

坂本竜馬の逃走路図

慶応2年(1866)1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、入浴中のお龍が気づき裸で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射して、この絵地図のコースを逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜紺屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせました。

坂本龍馬避難の材木小屋跡碑と龍馬が隠れた木材倉庫(濠川・大手橋近くの元・江崎木材置き場)
薩摩藩伏見藩邸跡碑と龍馬は手傷を負っていたので木材倉庫に隠れた後、お龍の通報で薩摩藩の舟で濠川を上り伏見藩邸へ逃げ込んだ。

大黒寺

江戸時代は薩摩藩の祈祷所、本尊は五穀豊穣の神、大黒天。寺田屋事件の有馬新七始め、薩摩九烈士、家老・平田靭負の墓があります。平成13年(2001年)、新しく掘られた井戸(金運清水)で大黒天に供えら金運良好、資産増加、子孫繁栄など大変ありがたいご利益がある。

幕末の動乱・・・倒幕への流れ

維新前の坂本竜馬間は、天皇を頂点に「列藩会議的議員制(八策)」を主張しました。慶応3年(1867年)11月15日、近江屋で

中岡慎太郎と共に見廻組・佐々木只三郎らによって暗殺されました。一方、維新の三傑・西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎

(木戸孝充)らが約300年近く続いた徳川幕府を倒し、新しい日本を志していました。西郷隆盛、大久保利通は伏見・大黒寺に

おいて頻繁に密会し倒幕について話し合ったと言います。彼らが語り合ったという部屋は、現在も大黒寺に残されています。

伏見城の廃城後、伏見は歴史の表舞台に登場する事は殆ど無くなりましたが、幕末の動乱期に至り、再び脚光を浴びる事と

なりました。幕末期は尊王攘夷思想が高まり倒幕という大きな時代の変化期に突入し、遂に「鳥羽・伏見の戦い」へと推移します。

 

↓時代別リンクで見ていただくと便利です。

 

鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦い

 

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