Column「伏水物語」

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もついには亡びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ」・・・(平家物語より)

 

サイトを公開して1周年を迎え伏見の始まり〜現代までの伏見を紹介する企画としてコラム「伏水物語」をアップしました。

伏見の始まり〜江戸末期まで完成しておりますが明治〜現代まで・・・

↓時代別リンクで見ていただくと便利です。

「伏見のはじまり」

地名の起源

伏見の地名が初めて出てくるのは、「日本書紀」です。

5世紀の中頃、指月の森辺りに土器を作る人達が居住していたと記されています。

 

「万葉の伏見」

柿本人麻呂(生没年不詳)

7世紀末〜8世紀にかけての万葉歌人で持統・文武両天皇に仕えた宮廷歌人と云われます。雄大荘重な長歌の形式を完成する一方で短歌においても抒情詩人としても高い成熟度を示し、万葉歌人中の第一人者とされる。伝記は明らかでないが、和銅の初め頃、五十歳で、石見国(島根県)で没したと伝わります。後世、歌聖と崇められました。

 

伏見の田

柿本人麻呂の歌に出てくる伏見の地名は、日本書紀に次いで古い記録です。

「巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり射部(いめ)びとの伏見の田井に雁渡るらし」

「巨椋池干拓史」に、三栖神社を中心に南方数町に及ぶ一帯の耕地は完全なる条里制地区であったと記されています。

「条里制」とは、古代に行われた土地区画の制度で大化の改新(645年)より以前に制定されていたと伝わります。

 

「平安時代・・・桓武天皇による平安遷都、藤原貴族の栄華」

平安時代は、延暦13年(794年)〜約400年余り続き源平争乱で源頼朝が勝利し鎌倉に幕府を開き武家政治を始める迄を言います。

桓武天皇

桓武天皇 天平9年(737年)〜延暦25年(806年)

宝亀元年(770年)、称徳天皇が逝去し壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え、新たに天皇に即位したのは、天智天皇の孫にあたる光仁天皇でした。新天皇体制も、皇太子が天皇に早く即位したい為、皇后と共に「呪い」をかけた事件から一変し直ちに二人を幽閉、その地位も剥奪されました。新たに皇太子に擁立されたのが、山部親王(やまのべしんのう)、後の桓武天皇です。父は光仁天皇、母の高野新笠は渡来系氏族(秦氏)であった為に当初、山部親王の天皇即位には多くの反対がありましたが、時の実力者であった藤原百川らの推挙で皇太子に擁立され、天応元年(781年)、天皇に即位しました。天応4年(784年)長岡京に遷都を果しましたが、長岡京の造営長官だった藤原種継(たねつぐ)が夜半に弓矢で暗殺される事件が起き、桓武天皇の弟、早良(さわら)親王が関係ありとして捕縛されるが、親王は無実を訴え断食、淡路島に護送中に死去。その後、凶事が続いた為、早良親王の祟りと噂され、桓武天皇は、和気清麻呂の進言もあって、縁暦13年(794年)、平安京へ遷都し、1200年にも及ぶ平安京時代が始まりました。平安京は唐の長安、風水学などを参考に造営されたと伝えます。

桓武天皇柏原陵

桓武天皇陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野辺り)に定められましたが、凶事が相次ぎ、山陵が賀茂神社に近い為の祟りだと天皇陵は山城国紀伊郡(京都市伏見区)柏原山陵に改葬されましたが、南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索では、元禄年間の修陵で、伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。

 

平城京〜長岡京遷都

奈良時代最後の桓武天皇は、国土統一以来、大和朝廷に古い権力者が多く「壬申の乱」以降、天智皇統と天武皇統の

二皇統に分かれ、更に大和の仏教勢力が入り乱れた勢力、権力争いの陰謀が絶えず天皇の地位ですら不安定でした。

天智天皇の功臣、藤原鎌足を祖とする藤原百川は、天武皇統の聖武天皇の逝去後、皇位継承した皇女の弥徳天皇が

僧の道鏡などに深く関わった為に失脚した事と、有力な皇位継承者がいなかった事を機に天智皇統の白壁王を即位させますが、

10年後に逝去され、皇太子の山部王が桓武天皇として即位しました。父・光仁天皇の意思を継承し天皇の地位を強固にし、

政治力を確立しようとの考えから奈良の諸豪族、仏教勢力などとの関係を根絶する為に新しい政治の場所を求めて長岡に遷都しました。

長岡京〜平安京遷都

天応4年(784年)長岡京に遷都を果しましたが、長岡京の造営長官だった藤原種継が弓矢で暗殺される事件が起き、藤原一族と

対立していた大伴一族が首謀者と判明し数十名を処分されましたが、桓武天皇の弟、早良親王も関係ありとして捕縛されるが、

親王は無実を訴え断食、淡路島に護送中に死去。その後も造都は続けられましたが3年後の天応7年(787年)、5ヶ月も雨が

降らなかったり、近畿諸国に悪病が流行ったり、天皇の母、皇后や重臣が次々と亡くなり早良親王の祟り説が噂され

更に桂川、小畑川の氾濫による大洪水と激しい雷雨により長岡宮殿の一角が崩壊し濁水に浸かりました。これらの出来事により

桓武天皇は、造都の計画を断念、和気清麻呂の進言もあって、葛野宇太村(千本丸太町辺り)へ再び遷都する事を決定しました。

延暦13年(794年)10月、桓武天皇は、葛野宇太村に移り「山河襟帯、自然に城を作(な)す」と言って山背国(やましろのくに)の

北辺が三方を山に囲まれ桂川、鴨川、紙屋川などが流れ南部で淀川となり軍事、交通などの最適地であると認めました。

これまでの山背国(やましろのくに)を山城国に改名し、長岡京より遷都した新京を「平安京」と名付けました。

 

藤原氏の台頭

藤原道長 康保3年(966年)〜万寿4年(1027年)12月4日

平安時代中期の政治家。藤原兼家(かねいえ)の五男。正暦6年(長徳元年・995年)、右大臣・氏長者(うじのちょうじゃ)となり、左大臣、長和5年(1016年)、摂政(天皇の代理者)に昇進。翌年、子の頼通(よりみち)に譲位し太政大臣となって表向きは引退したが死ぬまで政治の実権を握った。この間、3人の娘を夫々を皇后とし、それらの生んだ皇子が即位(後朱雀天皇など)、藤原氏の黄金時代をもたらした。3人めの娘威子(いし)が後一条天皇の皇后に決まった時、「この世をばわが世とぞ思ふもち月のかけたることもなしと思へば」と詠んで、その全盛を誇った歌は有名です。晩年は法成(ほうじょう)寺を建立し住まいしたので「御堂関白(みどうかんぱく)」とも称されました。名文名高い「源氏物語」の光源氏は藤原道長がモデルという説もあります。

 

貴族の別荘地伏見

平安時代は藤原氏の「摂関政治」として長く繁栄した藤原貴族時代でした。この独裁を支えたのが、藤原氏の領地でした。

京都の文化が繁栄したのも藤原氏の栄華が生み出したものでしたが、この文化は貴族の為のみである貴族文化でした。

「伏見山寺宮近迴地図大概」

風光明媚な伏見山荘の造営

伏見が伏見の里として世に知れ渡るのは平安時代末期頃で橘俊綱が古くから"月の名所"とされ、巨椋池と絶景の展望地である

指月の丘に山荘を造営した頃と伝わります。俊綱の没後、白河上皇に寄進、後に伏見宮家の荘園となり伏見と皇室の関係ができました。

当時の古地図()に伏見宮家の伏見殿(上御殿)を中心に九つの郷村(伏見九郷)があり郷村各々に社寺、地侍屋敷、民家などが、

描かれています。又、同時期に鴨川と桂川の合流地界隈には、鳥羽離宮が造営され離宮内には貴族の屋敷が建ち並んでいました。

 

院政の終焉〜武家の台頭・・・貴族社会の崩壊〜武家社会の成立へ

平清盛の台頭

平清盛 元永元年(1118年)〜養和11年(1181年)

平安時代末期の武将政治家。平忠盛の長子で保元1年(1156年)、保元の乱に参加、その功で播磨守・太宰大弐。平治1年(1159年)、平治の乱で藤原信頼、源義朝を誅滅し、仁安2年(1167年)、内大臣、従一位、太政大臣となる。全国の知行国500余カ所の荘園と宋貿易を掌握し六波羅政権を成立。重盛、宗盛以下も高位高官となった。その後、福原に退隠したが政権に固執し続けました。養和11年(1181年)、熱病により逝去。

頼政道

治承4年(1180年)、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨に立ち上がった源三位源頼政が、利あらず醍醐〜日野〜奈良へ逃げ落ちる際に、この道を通ったとされる所以から頼政道と日野の里人に言われています。

 

平氏の時代へ

白河上皇後、鳥羽、後白河上皇などの院政が続き、保元々年(1156年)、鳥羽上皇没後、崇徳上皇と後白河天皇の間で皇位継承

争いが勃発、世にいう保元の乱です。天皇近臣の藤原通憲(みちのり)、源義朝(よしとも)、平清盛らが後白河天皇に加勢し勝利しました。

その後も院の近臣達の対立は続き、平清盛、藤原通憲(信西)と源義朝、藤原信頼(のぶより)の間で平治の乱が勃発しました。

平治元年(1159年)12月、平清盛が熊野参詣で京を留守にすると、藤原信頼と源義朝は御所を急襲しました。

後白河上皇、二条天皇を幽閉。藤原通憲(信西)を捕らえ斬首し政権を握りましたが、武力、兵力に勝る平清盛が勝利しました。

源義朝の長子、頼朝は伊豆へ流されました。これらの乱により、武家の頭領になった平清盛の名声、地位、権力が確立されました。

 

源頼朝の台頭

源頼朝 久安3年(1147年)〜正治元年(1199年)1月13日没

平治の乱で父・義朝に従い参戦、平家に破れ伊豆に配流される。後、以仁王の令旨を受け山木にて挙兵。石橋山では大敗し九死に一生を得るも、富士川の戦で平家に大勝。東国武士集団の棟梁として権力、地位を握る。鎌倉に拠点を置く一方、西国の平家打倒を義経らが率いる武士集団に命じる。平家滅亡後、奥州平泉の藤原氏を滅亡させる。 晩年、後白河法皇との政治的活動、娘を入内させようとするなど朝廷との折衝に執着しました。頼朝の死因は、落馬が原因と伝えられるが、定かでない為に暗殺説など諸説があります。

 

平氏〜源氏の時代・・・平安末期〜鎌倉時代へ

やがて、鹿ケ谷の陰謀では、平清盛に後白河上皇が反旗を翻しました。西光法師、上皇の近臣らが、平家討伐の謀に失敗し

清盛は、上皇を鳥羽離宮に幽閉、孫の安徳天皇に皇位継承させると平家に対する不満が出始め、治承4年(1180年)上皇の第二子の

以仁王(もちひとおう)、源頼政(よりまさ)、源頼朝(伊豆)、源義仲(木曾)らが、挙兵しますが、苦戦し宇治平等院に退去しますが、頼政は

自害し、以仁王は大和へ敗走途中に討ち取られました。源義仲は、倶利伽羅(くりから)峠の戦いで平維盛(これもり)に勝利し入洛しました。

京の源義仲、伊豆の源頼朝、西国の平家の三つ巴の対立構造が生じました。頼朝より義仲追悼令が出され源義経、梶原景季(かげすえ)、

佐々木高綱が宇治川の戦いに参戦。「宇治川先陣争い」の逸話が生まれ、宇治橋上流の塔の島に、先陣争いの碑があります。

源氏同士の骨肉の争い、源平の合戦の末に壇ノ浦で平家は滅亡しました。・・・

院政の末期には、名文名高い「方丈記」著者の鴨長明(かものちょうめい)、「鳥羽絵(鳥獣戯画)」作者の鳥羽僧正(とばそうじょう)

などの個性的な文化人も登場しました。「鳥獣戯画」は、「鳥羽戯画」の間違いではないか?という説もあります。

 

往時の鳥羽離宮を偲ぶ安楽寿院界隈

安楽寿院

近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)

鳥羽天皇陵

白河天皇陵

今は往時を偲ぶ形跡もない鳥羽離宮跡の中で、辛うじて 往時をしのべるのが安楽寿院。鳥羽上皇が 東殿の境内に建立した御堂です。元は鳥羽離宮の東殿だった訳ですが、平安時代後期、保延3年(1137年)に覚行法親王が寺に改めた事に始まります。

籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇。

鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬した。

 

北条義時の台頭

源氏〜北条氏の時代へ・・・鎌倉時代

源平の合戦によって、壮麗を誇った鳥羽離宮もすっかり荒廃してしまいました。後鳥羽上皇は、離宮の復旧に力しました。

藤原定家の「名月記」には、建永元年(1206年)、新御所を建立。建暦2年(1212年)、新御堂を建立したと記されています。

又、山崎に水無瀬(みなせ)離宮を造営し離宮間を船で往来し船遊びなどを楽しんだと伝えます。

後鳥羽上皇は、仙洞御所に和歌所を設け藤原定家、俊成、家隆、寂蓮らに八番目の勅撰和歌集の編寡を命じました。

完成したのが、「新古今和歌集」です。又一方では、後鳥羽上皇は天皇親政が薄らいでいく事に不満を募らせていました。

鎌倉幕府三代将軍・源実朝(さねとも)が暗殺された頃の承久3年(1221年)5月14日、城南宮の流鏑馬に乗じて挙兵。

約1700もの軍勢で北条義時の討伐へ向い最終的に軍勢は2万にも達していましたが、約2ヶ月で敗退しました。

後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門(つちかど)上皇は土佐へ流罪となった一連の

事件を「承久の変」と言います。と同時に院政も終幕しました。この後、京都に六波羅探題が設置されました。

朝廷、反幕府分子の監視や警察権の行使、九州以外の西日本の統括など絶大な権力が与えられました。

ここに院政の崩壊と同時に武家による政治が始まりました・・・貴族社会が終焉し、武家社会が成立しました。

 

室町時代 室町時代

 

inserted by FC2 system