Column「伏水物語」

 

安土桃山時代・・・戦国時代〜天下統一】

 

豊臣秀吉が開いた城下町

 

安土城

伏見城

天正7年(1579年)、織田信長は天下統一の象徴として絢爛豪華な安土城を築城しました。3年がかりで完成した安土城は、軍事的機能より、思想的、宗教的、政治的な機能を優先していました。特に天主閣は、信長の「天下」の表現であり、神道、仏教、儒教、道教などを包括した「天道思想」だったので織田信長が、天下統一の拠点として近江(おうみ)の安土に築城しました。 城下町を整備し商人を集め、「楽市・楽座」を開設し自由に取引きできるようにしました。本能寺の変後、明智光秀に接収され、これを攻めた織田信雄(のぶかつ)によって焼失しました。

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が築城した伏見城(指月伏見城)は、桃山文化の粋を集めた豪壮華麗な城郭でした。2年後の慶長大地震で崩壊し、耐震性に優れた城を木幡山に再築城(木幡山伏見城)しました。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉逝去。慶長5年(1600年)、の関ヶ原の合戦の前哨戦で伏見城は焼失、徳川家康が再建して徳川幕府の拠点になりました。元和9年(1623年)、「一国一城制」により破却されました。現在の伏見桃山城は、昭和39年(1964年)、伏見城のお花畑山荘に築城され、大天守と小天守を持つ連結式城郭は豪華絢爛な桃山文化を再現しています。

豊臣秀吉の伏見城築城により城下町伏見として発展

伏見が歴史上最も栄華な時代を誇ったのは、文禄3年(1594年)、豊臣秀吉によって伏見城が築城された桃山時代です。

伏見は京都、大阪を結ぶ中継地として栄えた港町。その基盤を作ったのは豊臣秀吉でした。

豊臣秀吉の治水工事によって巨椋(おぐら)池をめぐる堤

文禄3年(1594年)、伏見城の建設資材を運ぶ為、大規模な治水工事を行い伏見港を開き、太閤堤、槇島堤、淀堤など堤防を築いた。

豊臣秀吉は京都、奈良、大阪などに隣接し水路や街道など陸路が便利な伏見を新しい首都圏として城下町などの整備をしました。

伏見城下には、大名屋敷や近隣から様々な商人、職人などが集まった事で伏見は、一大城下町として活気付きました。

織田信長〜明智光秀〜豊臣秀吉の台頭

織田信長 天文3年(1534年)〜天正10年(1582年)

明智光秀 享禄元年(1528年)〜天正10年(1582年)

天下統一の覇業を推進した戦国時代最大の風雲児で天下統一目前で本能寺にて自刃。本能寺に入った信長は、公家を招き信長が天皇職に就けるか否か問い、堺などから商人を招き茶道具を披露している。信長の天下統一が目前の天正10年<1582年>6月2日未明、中国攻めに向かったはずの明智光秀率いる1万3000の軍勢が本能寺へ攻め込みました。光秀の攻めに織田信長は自刃しました。

 

戦国武将で清和源氏(清和天皇が祖)・土岐下野守頼兼の末裔といわれ通称、十兵衛と称し足利(室町)幕府15代将軍・足利義昭に仕えた後、織田信長に仕え、近江・坂本城主となり、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称した。後に丹波・亀山城主となったが、天正10年(1582年)6月2日、信長を京都の本能寺に攻め自刃させた。僅か11日後の6月13日、羽柴(豊臣)秀吉と京都の山崎で戦い、近江・坂本城へ敗走途中、伏見・小栗栖で信長の近臣・小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により落命し「三日天下」と言われる事はあまりにも有名です。

日本史上、最大級の謎・・・<本能寺の変〜山崎の合戦>

天正10年(1582年)、羽柴秀吉が、中国地方の毛利輝元を攻めている時、織田信長は近江の安土城から天下統一を成し遂げる為に

京都の本能寺に移っていました。丹波の亀岡にいた明智光秀は夜陰に乗じて桂川を渡り本能寺の信長を攻め滅ぼしました。

秀吉は直ちに毛利と和睦し京都に向いました。「中国の大返し」と言われています。明智光秀は、秀吉軍を迎え撃つ為に

勝竜寺城と納所の城を前線基地とし山崎で合戦となりましたが敗れてしまいました。近江坂本城で出直すべく淀〜下鳥羽〜伏見山(桃山)

の北の峠(八科峠)を越えた小栗栖にて信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃に遭い竹槍で刺され最期を遂げました。

明智藪

明智塚(明智光秀胴塚)

天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は、勝龍寺城から間道を通り、伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃れる途中、当地にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えられています。

小栗栖で刺され自刃した明智光秀の胴体が埋められた所と伝わります。

豊臣秀吉の台頭

豊臣秀吉 天文6年<1537年>〜慶長3年<1598年>

千利休 大永2年(1522年)〜天正19年(1591年)

農民から関白太政大臣、天下人(太閤)になった戦国武将。織田信長の五軍団(柴田勝家、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉)の1人。天正10年(1582年)6月13日、「天王山の戦い」で明智光秀を破り、天正18年(1590年)8月9日、天下統一を成し遂げた。戦後は織田信孝、柴田勝家との後継者争いとなり、天正11年(1583年)、柴田勝家を滅ぼし実質的な後継者となる。天正11年(1583年)、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦うが、勝てずに講和。その後、四国、九州を平定し、小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一した。天正13年(1585年)、関白。天正14年(1586年)、太政大臣に任ぜられるなど位人臣を窮め、関白を養子・秀次に譲った後、太閤と称した。太閤検地・刀狩りなどを行うなど、荘園制を廃してその後の幕藩体制の基礎を作りました。文禄3年(1594年)、伏見城築城。慶長3年(1598年)3月、醍醐で花見を行う。

安土桃山時代の茶人で、わび、さびの美意識貫いた天下一の茶匠と称されました。織田信長、豊臣秀吉の茶頭を務め通称、宗易(そうえき)と号し、利休という居士号は正親町(おおぎまち)天皇より下賜されたと言われます。若くして茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、武野紹鴎に師事した。又、堺・南宗寺の大林宗套に参禅し、禅の影響を強く受けました。最初の茶会は23歳の時で、永禄8(1565年)、戦国武将・松永久秀の茶会に招かれ、茶匠としての才能を発揮しました。永禄11年(1568年)、上洛した信長が堺に矢銭(軍資金)を課すと、町衆は抗戦派と和平派に二分し、和平派として信長に近付いた商人・茶人の津田宗及・今井宗久と親しかった事から、信長に茶頭として仕える事になりました。天正元年(1573年)、京都・妙覚寺における信長の茶会に招かれ、天正3年(1575年)、信長の茶会で点茶の役を務めていますが、信長の名器蒐集(名物狩り)には批判的でした。天正10年(1582年)、信長の死後、秀吉に仕え重用され、茶頭としての立場を越え側近としての役割が次第に強くなっていった。天正13年(1585年)、秀吉の関白就任御礼の禁裏茶会では、正親町天皇に献茶する秀吉の後見役を務め、天正15年(1587年)、京都・北野天満宮における歴史的な茶会「北野大茶湯」を催し、「天下一の茶匠」の名を不動のものにしました。茶人としての名声を手に入れた利休でしたが、天正17年(1589年)、大徳寺山門の楼上に自身の木像を置いた事などが不敬不遜の行為として、天正19年(1591年)、秀吉の命により自害しました。利休は、秀吉政権を支えましたが、利休の最大の理解者であった丹羽秀長(秀吉の実弟)の死による権力闘争に巻き込まれたという説が有力ですが、真の理由は不明です。

秀吉の天下統一

山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉は、信長の天下統一の後継者となり天正11年(1583年)、賎ケ岳の戦で柴田勝家、織田信孝、

滝川一益に勝利し天下統一の基礎固めをしました。天正13年(1585年)、四国を平定、天正15年(1587年)、九州を平定、

天正18年(1590年)に北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して全国統一を成し遂げた。一方、天正11年(1583年)に大坂城を築城、

天正13年(1585年)、関白、天正14年(1586年)、太政大臣に進み、豊臣の姓を賜った。天正15年(1587年)、9月建設中の聚楽第が

完成し、10月には千利休とともに北野大茶湯を催して世間を驚かせた。天正10年(1582年)〜天正18年(1590年)、「太閤検地」と

呼ばれる検地を行なった。規模の大きさ、方法の正確さで特筆される。天正16年(1588年)、武士以外の者から武器を取りあげる

「刀狩り令」を発して兵農分離を徹底させて身分制度を確立し、貨幣の鋳造、関所の撤廃、商工業の発展を妨げる座を廃止

し楽市楽座を促進し、豪商を保護して朱印船貿易にも意を注いだ。文禄元年(1592年)、慶長2年(1597年)、二度朝鮮に

出兵(文禄の役、慶長の役)しますが、水軍の不振や明の援軍、朝鮮各地の義勇軍の活躍などで失敗に終わった。

二度の戦役で豊臣政権滅亡の原因ともなりました。 文禄3年(1594年)、伏見城を築城慶長3年<1598年>、伏見城にて没しました。

淀古城

淀古城跡(淀・妙教寺界隈)

元は、細川氏綱の居城で、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が「淀君」の為に修築を行った「淀城」です。混同をさける為「淀古城」とも呼ばれています。築城時期は、はっきりしませんが、「細川両家記」などに、永正元年(1504)摂津の守護代薬師寺元一が管領・細川政元に反抗して「淀之城」に篭城し攻め落とされたとあります。元亀3年(1572年)三好三人衆の一人である岩成友通が淀城にあって、足利義昭と呼応して織田信長に対抗したが信長の武将・細川幽斎に攻略されました。淀城は一時小野木重次があずかり、天正17年(1589年)、秀吉は側室・茶々(淀殿)の出産の為、弟の秀長に修築させました。伏見城建設とともに文禄3年(1594年)破却された。

豊公伏見城ノ図

「豊公伏見城ノ図」によれば伏見城下には武家屋敷が580余りあり、現在も町名や橋の名前として残っています。

貴族の遊興地、別荘地から城下町へ変貌

伏見の里は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉により伏見城の築城が始まる以前は貴族の遊興地、別荘地でしたが

依然としてのどかな農漁村地帯でした。御香宮辺りを中心に伏見九郷として九つの村が点在していましたが築城に伴いこれらの

九つの村々は深草大亀谷や向島への移転を余儀なくされ伏見の町並みなどは築城や城下町の整備で大きく一変しました。

築城の為の資材などを運ぶ為に伏見港を建設し巨椋池と宇治川の流れを分離させ堤防を築き上を街道にし水陸の交通路を

整備させました。城下町では、多くの商人、職人などが伏見に移住したのもこの頃だと伝わります。生活環境の急変などに

対応しながら伏見の城下町に集まってきた人々や文化なども受け入れ、伏見は時代の先端としての城下町へと生まれ変りました。

 

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江戸時代(前半) 江戸時代(前半)

 

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