Column「伏水物語」
【室町時代・・・南北朝〜応仁の乱】
鳥羽離宮〜伏見殿の栄華 源平の争乱、承久の変などで院政の崩壊と共に荒廃した鳥羽離宮に変わって壮麗さを誇示したのが伏見殿でした。 伏見宮家が誕生すると公家、高僧が参集し屋敷や寺院を次々と建立し伏見の町は活気を取り戻しました。
伏見殿 橘俊綱逝去後、伏見山荘は、白河上皇に献上された時に皇室の荘園となりました。後に上皇の甥の源有仁(ありひと)、 養女頌子(こうし)内親王、後白河上皇へ継承されました。後白河上皇は、ここに壮麗な伏見殿を造営しました。 伏見殿は、上御殿が指月の丘(大光明寺陵辺り)、下御殿が巨椋池に面して船の出入りする港があった柿木浜町辺りに あったので船津御所とも伏見離宮とも称されていました。南北朝時代には、北朝(足利尊氏擁立)の光厳、光明上皇らに 継承され両上皇の母広義門院寧子(やすこ)は伏見殿の隣に大光明寺を建立しました。 大光明寺陵には、南北朝の動乱に翻弄された光明上皇、崇光上皇、皇子の治仁(はるひと)親王が合祀されています。
伏見宮家 光厳上皇は、栄仁(ひでひと)親王に皇位継承させようとしましたが叶わず伏見殿の継承を勧修寺経顕(つねあき)に遺言を 託していました。こうして栄仁(ひでひと)親王を始祖とする伏見宮家が誕生しましたが、応永8年(1401年)、大火で伏見殿は焼失し 殿内に大通院を建て出家しました。伏見宮家の二代目貞成(さだふさ)親王時に皇子彦仁王が後小松天皇の養子になり弥光天皇後、 後花園天皇になりました。伏見宮は家格が上り天皇の補佐的な地位に就きました。この時代の伏見は、伏見宮家の貞成親王の 「看聞御記」に深草郷との草刈争、炭山(宇治)との境界争、竹田との水争など近隣との紛争などが記されています。伏見の人々は、 伏見庄の荘官であり伏見宮家と深い繋がりを持つ小川氏、三木(そうぎ)氏などの有力士豪の元、御香宮などに結集して事にあたりました。 南朝北朝が統一されると、芸能文化が盛んに行われるようになり、伏見殿に近い御香宮などでも猿楽・連歌・御茶事などが行われました。 伏見郷の人々が伏見殿に参集し華美なつくり物や仮装をして、松拍子といわれる拍子物(踊り)を奉納した事なども記されています。 これが伏見の郷人の風流となり現在、御香宮神幸祭における拍子物(踊り)、花傘祭りへと継承されていると伝わります。 足利尊氏の台頭
南北朝時代のはじまり 足利尊氏は、嘉元3年(1305年)、鎌倉幕府の有力な御家人(ごけにん)の足利貞氏(あしかがさだうじ)の子として生まれる。足利氏は 源氏の子孫であったので鎌倉幕府内でも北条氏(平氏筋)に次ぐ勢力を持ちました。元徳3年(元弘元年・1331年)、鎌倉幕府の将として、 後醍醐天皇の倒幕軍を打破しました。正慶2年(元弘3年・1333年)、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討伐の為に鎌倉幕府の将として 出陣するが、途中で鎌倉幕府を見限り、倒幕軍に寝返りました。足利尊氏が倒幕軍についた為、多くの武士団が倒幕軍に付きました。 元弘3年(正慶2年・1333年)、倒幕軍の新田義貞が鎌倉幕府と北条氏を滅亡させました。後醍醐天皇と武士による建武の新政が始まりました。 「建武の中興」と言います。足利尊氏が鎮守府将軍に任命されましたが、天皇・貴族中心の政治に武士達の不満が高まります。 建武2年(1335年)、鎌倉で北条氏の残党が反乱を起こし後醍醐天皇に無断で鎌倉へ向かい、北条氏の残党の反乱軍を打破しました。 後醍醐天皇の命令を聞かなかった為、反逆者とされ足利尊氏は鎌倉で武士を集め、大勢力となり建武3年(延元元年・1336年)、 後醍醐天皇を討伐の為、京都に攻め込みました。開戦当初は、優勢でしたが、背後を後醍醐天皇軍につかれ敗退し九州へ 敗走しました。 後醍醐天皇と対立していた光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し九州で武士を集め、再び、京都に攻め込み京都を 占領し、後醍醐天皇を比叡山へ追いやりました。光明天皇(北朝)と後醍醐天皇(南朝)の皇位継承争いが始まりました。 暦応元年(延元3年・1338年)、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。尊氏は、不安定な京を 統治する為、建武式目(京の施政方針を十七箇条で示したもの)を制定し、貞永式目(御成敗式目)を基本として武家政治を開始 しました。武家政権の復活を目にした後醍醐天皇は花山院を脱出して吉野に逃れ、正当な天皇である事を宣言し、南北朝時代が始まりました。 ★ 和暦は南北朝2つの元号で表記しています。 室町時代 足利尊氏が京都を制圧し織田信長が将軍足利嘉昭(あしかがよしあき)を降伏させ室町幕府崩壊迄の135年間は、ほとんど戦乱が 絶えませんでした。三代将軍足利義満の御代になる迄は、南北朝の争いが続き、幕府政治の弱体に付け込各地で守護、地頭などが 農民、町民や下級武士などに圧政を強いたので山城に徳政一揆、丹波の土一揆など次々と各地で土一揆や徳政一揆が勃発しました。 室町幕府の衰退
応仁の乱 室町幕府第8代将軍・足利義政には世継ぎがなく、寛正5年(1464年)弟の義視(よしみ)を後継ぎに決めましたがその翌年、 妻の日野富子が義尚(よしひさ)を出産し将軍に擁立しようとした為、世継ぎ争いが勃発。又、三管領のうち、斯波(しば)氏では 義敏・義廉(よしかど)の間、畠山氏は政長(まさなが)・義就(よしなり)の間で相続争いが起こりました。幕府の弱体化、 各地の守護大名が力を強めていたが、特に細川勝元と山名持豊(宗全)の勢力が強まり、互いに勢力争いをしていました。 将軍や管領の世継ぎ争いが各々の家の中で起こると夫々が細川勝元と山名持豊に追随した為、1467年(文正2年)5月26日、 双方の争いは全国的な争乱となり、畠山政長と義就(よしなり)の衝突から京都始め伏見なども戦場とし10年にも及んだ応仁の乱が 始まりました。東軍(細川勝元・足利義視ら)は24か国の兵約16万を、西軍(山名持豊・足利義尚ら)は20か国の兵約9万を動員 しました。戦乱は長びき、勝元・持豊の死後も戦乱はやまず、各地に広がった。文明10年(1478年)7月10日、義政と義視が和解した 為戦乱はようやく治まったと言われていますが、多くの大名が京都から自領地に引き上げた事から自然消滅したのが事実のようです。 文明17年(1485年)12月、山城国一揆が起こります。南山城から畠山勢の撤退、京都の諸関所などの撤廃を求めて南山城の国侍、 農民、町民なとが、決起しこれを幕府に認めさせました。これ以降も幕府の諸将同士の争乱が続き京都や伏見は 壊滅的な打撃を受け、室町幕府の力は衰退し以後、約100年間に及ぶ戦国時代へ推移しました。 又、日野富子は応仁の乱の勃発のきっかけを作った張本人とみなされる事も多い のですが、日野富子がいなければ、 この時点で足利幕府は滅亡していたであろう事も、 また間違いのない事実だとも言われています。
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