Column「伏水物語」

 

【鳥羽・伏見の戦い〜戊辰戦争へ・・・江戸幕府の壊滅〜明治維新】

 

世直し一揆・・・ええじゃないか

ええじゃないか・・・

慶応3年(1867年)7月頃〜慶応4年(1868年)、江戸から東海道、近畿の京都や安芸国・広島、四国迄の広範囲な地域で起こった騒乱状態を言います。神仏の「お札ふり」を契機とし、民衆を巻き込んだ踊りとして広がりました。この騒動は、「世直し」、「世直り」観念と結びつき「世直し」運動の一つであったが、前後の「打ちこわし」一揆騒動の中に「ええじゃないか」騒動に通じる要素があり、寛永15年(1638年)以後、慶応3年(1867年)迄に15回も起こった「おかげ参り」もその一つである。「ええじゃないか」は、神仏のお札・お祓などが降下した時、老若男女を問わず、盛装、異装で地方特有の囃子言葉で踊狂しました。降札のあった豪農商から酒食の振る舞い、撒き銭などを受けました。騒動で主体となったのは、町や宿場町などの町民・宿民らで幕藩体制下の日常的抑圧からの自己解放だったと言われる。

鳥羽・伏見の戦い

伏見町炎上図

伏見奉行所は薩摩軍の砲火によって焼け、伏見の薩摩藩邸は幕府軍によって放火され伏見の町の南半分もほとんど焼けました。

 

鳥羽・伏見の戦い

慶應4年(1868年)1月3日、戊辰戦争の開戦となった戦いです。小御所会議で決定された徳川慶喜の辞官、領地返納に納得

できず幕府軍、会津、桑名などの藩兵1万5000が、大阪城に移った慶喜を擁して大阪方面から薩摩討伐の大儀の元に京都に

向け進軍しました。これを防ごうとする薩摩藩・長州藩を主力とする薩長軍4500との間で鳥羽と伏見の両方面で戦われました。

 

徳川15代将軍・徳川慶喜

二条城大広間

徳川幕府約300年の歴史の幕を引く為に就任したような役回りでした。

慶応3年(1867年)、大政奉還を決定しました。武力倒幕を推進する薩長の機先を制し土佐藩などの建白を受け入れた会議で700年近く続いた武士の時代に終わりを告げました。

 

大政奉還〜小御所会議

薩摩・長州藩は慶応2年(1866年)1月、薩長同盟締結を機に、第二次長州征討で弱体化した幕府を倒幕しようとしていました。

しかし、慶応3年(1867年)10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が二条城で大政奉還し、薩摩・長州藩は機先を制されました。

徳川慶喜は、仮に幕府がなくなり将軍職から退いたとしても、その後の政権(朝廷を中心とした諸大名による合議政体)においても

徳川がトップに立てると考えていましたが薩摩・長州藩によって決行されたのが、12月9日の王政復古のクーデターと小御所会議でした。

小御所会議〜江戸薩摩藩邸焼き討ち

王政復古のクーデターによって幕府政治にあった将軍・京都所司代・京都町奉行・摂政・関白・議奏・伝奏その他の官職を廃し、

新たに天皇中心に総裁・議定・参与の三職を設置する事などが決まりました。その後の小御所会議で徳川慶喜の辞官納地などの

決定を巡り、土佐の山内容堂が徳川慶喜をこの会議に招く事と徳川家の利益保全を図る事などを主張し尾張藩・徳川慶勝や

越前藩・松平春嶽らはそれに同調し、結局、徳川慶喜自らが辞官納地を申し出るように慶勝と春嶽が説得にあたる事になりました。

12月12日夜、徳川慶喜が摩擦を回避する為に二条城から大阪城に移動します。慶喜と薩長との間に、越前・尾張・土佐が割り入り

紛糾し辞官納地は骨抜きになってしまい挙句に討幕派であった岩倉具視・三条実美らが慶喜が自発的に辞官納地をするなら、

議定職に就けてやってもよいではないかと言い出しました。武力倒幕を策していた薩摩藩は、西郷隆盛の策略によって、幕府を戦に

仕向ける為の挑発を行います。12月13日夜、江戸市中取締りを命じられていた庄内藩の屯所に薩摩藩の工作員(益満休之助達)が

発砲し庄内藩士に死傷者が発生しました。これ以前にも同様の策略の一環として江戸市中で工作員による攪乱工作が行われ、

幕府は挑発に乗ってしまい、25日未明、庄内藩に薩摩藩邸を焼き打ちさせました。江戸では幕府と薩摩藩が緊張状態になりました。

大阪では会津藩(藩主・松平容保、京都守護職)と桑名藩(藩主・松平定敬、京都所司代)が小御所会議に出席させてもらえず、

一方的に京都守護職、京都所司代の役職を罷免させられ薩摩藩に対する憤懣を募らせていました。江戸での一報が大阪城に

知らされ、その憤懣は一気に爆発し、「薩摩討つべし」の機運は高まりました。慶喜は挙兵に消極的でしたが、討薩の機運に押し切られ、

朝廷に対する奏聞書に署名、大目付・滝川播磨守に手渡しました。1月2日、薩摩藩討伐の大義の元、京都、伏見へ進軍しました。

 

鳥羽・伏見の戦い

会津藩先発隊の京橋上陸の図

慶応4年(1868年)1月2日、会津藩の先発隊約200名が京橋より伏見に上陸しました。

幕府軍と薩長軍の対峙の図(小枝橋:城南宮所蔵)

討薩表を持参した幕府軍・大目付滝川播磨守具拳(ともあき)が薩摩軍指揮官・椎原小弥太に「勅命で上洛する先の将軍徳川慶喜の先鋒部隊である。進軍を拒むような事あれば、武力突破する」椎原は「勅命など聞いていないから通す訳にはいかぬ」と反論。小枝橋で幕府軍・大目付滝川播磨守具拳と薩摩軍指揮官・椎原小弥太の押し問答となりました。滝川は椎原に「もはやこれまで、押し通る!」と言い放ち前進を始めました。

鳥羽伏見戦跡碑〔秋の山〕

鳥羽伏見の戦い碑〔鳥羽離宮公園〕

小枝橋〔鳥羽・伏見の戦い碑〕

鳥羽伏見戦跡碑〔秋の山〕は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年〔1912年〕2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。

慶応4年〔1868年〕1月3日、夕刻。幕府軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたが切られました

 

鳥羽の戦い

慶応4年(1686年)1月3日、鳥羽・伏見両街道を幕府軍が北上を始めました。幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)上洛の

幕府軍先発隊を 率いる大目付・滝川具拳(ともあき)と、薩摩軍指揮官・ 椎原小弥太の押し問答から戦いは始まりました。

薩長軍も鳥羽街道口の東寺・四ッ塚に薩摩軍、伏見街道口の大仏廻りに長州軍が布陣、幕府軍を迎え討つ態勢を整えました。

薩摩軍は幕府軍の進軍を確認し午後4時頃、アームストロング砲を発砲しました。幕府軍は佐々木只三郎率いる見廻組が先陣をきり、

桑名、大垣藩兵が続き参戦しました。『中村武雄筆記』には、「薩摩藩より銃先揃へて不意に打ち出せり。見廻組は銃を持たず。

歩兵も銃を込め居かず。右往左往に立ち騒ぎ、矢庭に死する者もあり。手負は固より数を知らず。」と混乱状況が記されています。

下鳥羽の法伝寺所蔵の戦記には、「堤上、死骸粉粉、路を塞ぎ、行くべからざるなり」と当時の貴重な記録が残されています。

 

伏見奉行所図

伏見奉行所は慶応3年(1867年)12月16日、新撰組が屯所として布陣したのを始め幕府軍の本営(布陣地)となりました。

伏見の戦い

伏見では、御香宮神社に薩摩軍が陣取りました。同神社には幕府軍が陣取っていましたが、三木(そうぎ)宮司が退去させました。

仕方なく幕府軍はすぐ南側の伏見奉行所に入りました。御香宮と伏見奉行所の攻防戦は伏見戦のなかでも最も激戦となりました。

3日早朝、薩摩、長州、土佐の各藩兵が御香宮に入り大砲四門を設置、薩摩軍は伏見奉行所が見下ろせる龍運寺にも大砲を据えた。

 

フランス式四斤山砲

薩摩・長州軍の砲兵隊

前装、人力牽引で射程距離1000m。蛤御門の変の前年、薩英戦争で英艦にアームストロング砲が装備され、その破壊力を見せつけらていた。アームストロング砲を幕府35門、薩長15門、英商会グラバーに発注したが鳥羽・伏見の戦いには、間に合わなかったと伝わる。因みにアームストロング砲は、爆発力が大きく、射程距離が3000mと言われる。

砲弾は破裂弾が多く幕府軍に甚大な被害を出しました。

 

幕府軍は伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められました。

夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられました。幕府軍の会津藩兵、新撰組は

奮闘しましたが、長州軍の援軍を得た薩摩軍と最新の銃や大砲などの兵器に撃破され体制を整えるべく淀城を目指して退却しました。

 

伏見鳥羽戦争図(伝遠藤蛙斎筆)

鳥羽伏見戦争図(瓦版原本)

慶応4年(1868年)1月4日、伏見奉行所から撤退する新撰組の図で誠の隊旗が描かれ馬上で指揮するのは、土方歳三だといわれています。

鳥羽伏見の激戦の様子が描かれている瓦版の原本で魚三楼所存されています。

両軍伏見市街戦概要図

慶応4年(1686年)1月3日午後4時に開戦した伏見戦での新撰組、会津藩や薩長軍が進軍、退却を記した貴重な地図です。焼失区域も記されています。

鳥羽・伏見の戦いを伝える当時の貴重なかわら版

鳥羽・伏見戦〜淀、橋本、樟葉、枚方方面の戦況を伝えている当時の貴重なかわら版

 

伏見〜淀城へ退却

伏見奉行所を撃破された幕府軍は、総崩れとなって伏見の地を追われ淀へ敗退しました。伏見奉行所は薩軍の砲火によって焼け、

伏見の薩摩藩邸は幕府軍によって放火され伏見の町の南半分もほとんど焼けました。伏見の住民は、深草の大亀谷や宇治川、

巨椋池の中州などに、御香宮・三木宮司も古御香宮に避難したと伝わります。3日、鳥羽・伏見両方面で新政府軍が勝利しました。

 

伏見戦の銃弾跡

鳥羽伏見の戦いでは、この界隈は御香宮(薩摩軍本営)と伏見奉行所(幕府軍本営)に近く大変な激戦地でした。表の窓格子に銃弾跡が残っています。 両軍伏見市街戦概要図()では、この京町通りの南側に新撰組が布陣している事になります。新撰組と薩長軍の激戦を物語る銃弾跡かもしれません。この戦いで伏見町の南半分が焼け野原化しましたが、魚三楼は焼失を免れました。薩摩軍への炊き出しをしていたからという説もあります。

 

淀千両松、富の森の戦い・・・5日、急拵えの「錦の御旗」の登場

4日、明治天皇は仁和寺宮嘉彰に「錦の御旗」と節刀を賜り、征討大将軍に任じました。この威力は絶大なものとなりました。

「錦の御旗」は、慶応3年10月14日、大久保利通、品川弥二郎が洛北岩倉村で蟄居中の岩倉具視を訪ね、王政復古の作戦を

練った際、岩倉が国学者・玉松操の発案による錦旗の意匠を二人に示し、多数作るように依頼されて作られたレプリカ(贋作)です。

 

本物だったのか?錦の御旗・・・朝廷の旗印は、すっかりと忘れられていた!!!

錦の御旗は、朝敵征伐に向かう官軍としてのシンボルでした。武家支配が長く続き「錦の御旗」は、忘れ去られていました。実物は無くどんな旗なのかも分からずじまいでした。岩倉具視は国学者・玉松操に依頼し、慶応3年10月に急拵えの「錦の御旗」は完成させました。幕府方に悟られないよう偽装の為に西陣織の帯地を用い、「日月章(じつげつしょう)の錦旗を各2流、菊花章の紅白旗を各10流製作した。」と伝わります。慶応4年(1648年)1月3日〜の鳥羽伏見の戦いでは、1月4日、仁和寺宮嘉彰親王が征夷大将軍に任じられ間に合わず手近にあった布で製作したというお粗末な話も伝わります。しかし、この策略は絶大な効果を発揮し徳川慶喜が朝敵になったと戦意喪失し、戦中にも関わらず軍兵を置き去りにして東帰しました。幕府軍にも薩長軍に寝返る藩も出て幕府軍は敗退します。

錦之御旗(城南宮所蔵)

仁和寺宮嘉彰親王の出陣の様子が描かれています。色々な「錦の御旗」も描かれています。本当は、どんな旗印なのか誰も知りませんでした。

政治的な勝利・・・錦の御旗

「錦の御旗」は、薩長軍について「官軍」となるか、幕府軍につき「賊軍」となるか、という決断を諸藩に迫る政治的策略だったのです。

5日、「錦の御旗」を見ると、当初幕府軍についていた諸藩も動揺しました。幕府軍は、体勢を立て直す為、淀城に入ろうとしました。

当主の稲葉正邦は、老中として江戸にいましたが、淀藩は、尾張藩・徳川慶勝の進言により中立をとり幕府軍の入城を拒否しました。

戊辰役東軍戦死者埋骨地〔愛宕茶屋碑〕

大激戦地となった淀堤〔千両松〕

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地

桂川堤防沿いにあった愛宕茶屋は、当時戊辰戦争の激戦地(富の森の戦い)でした。桂川堤防下にある銀杏の木の下に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。

淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だったことから、「千両松」と呼ばれていた。千両松の激戦で敗れた幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。映画「壬生義士伝」の新撰組隊士・吉村貫一郎(本名・嘉村権太郎)もこの戦いで銃弾に倒れたとされています。かなりの剣客だったそうです。

淀千両松堤の戦いで戦死した幕府軍軍(新撰組隊士など多数)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。この埋骨地には新撰組隊士の幽霊伝説があります。

旧幕府軍敗退

6日、山崎を守っていた旧幕府軍の藤堂藩が寝返り、淀川対岸の橋本に陣取る幕府軍に向けて砲撃を浴びせかけました。

旧幕府軍も、「錦の御旗」を見ると戦意を失い退却しました。賊軍とされた為、徳川慶喜は失意のあまり東帰してしまいました。

「たとえ千騎が一騎になっても戦う!」と宣言しておきながら、戦中の慶喜の東帰に残された旧幕府軍は大いに意気消沈しました。

こうして鳥羽伏見の戦いは、伏見の町を壊滅状態にして旧幕府軍が大阪城に退却して薩長軍の圧勝に終わりました。

伏見の町中には、慰霊碑や戦碑が多々と残され当時の戦いの凄まじさを彷彿させてくれます。「勝てば 官軍、負ければ賊軍」・・・

旧幕府軍、薩長軍双方の立場上の主義、 主張が違っただけで、勝った方が「官軍」となり  「正義」になったと思いますが、

もし明治維新戦争がなかったとしたら、日本の近代化は1世紀は遅れただろうと故・佐藤栄作内閣総理大臣も言われました。

「鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)」、「新撰組」コラムでは、近代国家の礎となった戦いの英霊に対して、官軍、賊軍などの表現を

使っていません。又、「選、撰」の意味合いから新選組=新撰組として紹介しています事もご了承ください。

 

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