伏見の学校のあゆみ
「民間の学校を建て人民に教育せんとするは余輩の積年の志なりしに、 今、京都に来たりて、その実際を見たる日、恰(あたか)も故郷に省りて知己に会うが如し。 およそ世間の人この学校を見て感ぜられるは、報知の心無きと言うべきなり」・・・福沢諭吉
★ 明治維新前 慶長6年(1602年)、徳川家康は、大光明寺御陵の東横辺り(土俗月光)に伏見学校(円光寺)を創設しました。 徳川時代は、士は、概(おおむ)ね藩校で儒学を学び、庶民は、寺子屋で読み書き、算術を学びました。 幕末時の伏見は、文学が氾溢する京都に隣接し相当な影響を受けながら優則学舎以外、藩校に匹敵する ものがなく、庶民で学を習得する者(龍草盧(ろ)、米谷金城等)は、洛中(京都市内)に出向きました。 優則学舎の創設後、私塾寺子屋などが著しく発展し明治維新後の学制発布により国民教育の為、小学校などが、 創設され教育施設が、目覚しく発展しました。ここでは、伏見学校(円光寺)からの学校のあゆみを紹介致します。
伏見学校(円光寺) 月橋禅院の後丘(大光明寺御陵の東北辺り)に地名、土俗月光〔(ガッコウ)学校跡〕と称した所にあり、足利学校の 一部を移転し足利学校9世校主・三要元桔(さんようげんきつ)〔南禅寺僧〕を招聘し円光寺〔伏見学校〕と号しました。 藤原惺窩(せいか)、林羅山らを講師に招き徳川家康の以文守成の策〔文事修成の方針〕に努めました。 戦国以来、散逸する書籍を捜求し木版活字でこれらを印刷しました。これを慶長活字本と言います。 徳川家康もここで聴講し僧俗の入学も許可されていました。天和の頃(1681年〜1683年)(伏見城廃城後)に 洛北の相国寺に移転しました。寛文7年(1667年)に一乗寺に移り現在の円光寺は、伏見学校(円光寺)の後身で、 当時の木版活字(重要文化財)など我国出版文化史上貴重な資料などが、大切に保管されています。 ★ 木版活字・・・朝鮮よりもたらされた銅版活字を真似て約10万字の木版活字を新造し、植字活版印刷で 多くの書籍を製本しました。総括して慶長活字本と言いますが、伏見版とも円光寺版とも言われました。
優則学舎〔伏見奉行所組屋敷郭内〕 安政元年(1854年)、伏見奉行・内藤豊後守は、組下与力・小野三十郎、杉山左右助、組同心・谷源之進らに命じ 組屋敷郭内に学舎を創設しました。組与力、同心の子弟、市中有志の子弟の入学を許可し優則学舎と称し 教科書は、小学、四書、五経、史記、史伝などで毎日、辰刻〔午前8時〕〜授業を始め午後に終業。 講義は、例月12次、要術は、例月6次とし15才以下の生徒は、文武両道を兼修しました。 15才以上は、兼修を要しませんでした。武技は、寒稽古と称し例年、寒の30日間行われ1日も 欠席しなかった者には、金100疋(1疋(ひき)=銭10文)を賞与されました。生徒数は、約60名全て登校しました。
私塾寺子屋 私塾寺子屋は、維新前に庶民の教育機関でした。資料不足で調べ不可能な不詳事項もありますが、全盛は嘉永、 安政以後で明治維新後、学制発布と共に多くは、廃業しましたが、原思軒(奥野塾)、私塾(西岡塾)のように後に 私立小学校になった私塾寺子屋もありました。伏見では、私塾寺子屋などの発展により明治維新前から既に 学問文化や学校創設の機運が高まっていたようです。"明治維新前、後時の私塾寺子屋の主なものをまとめました。
★ 原思軒(奥野塾)は、創設が、古く最も盛んで伏見奉行所役人等も師事し他私塾より一頭抜きに出ていたと言われています。 ★ 明治維新後 小学校創設 京都市は、明治2年(1869年)に柳池小学校(日本初)を筆頭に全国に先駆けて64校の小学校を創設し往時の面目を一新し 隣接している伏見も当然に相当な影響を受けました。明治3年(1870年)12月に京都府は、「学体」を下しました。 "学体"とは、教育網領の主眼で、中学創定時に定められましたが、小学校も適用しなければならなかった通規でした。 学校開校式、式日に入学者に必ず読み知らせる制度で管内の教育振興を図りました。翌4年に文部省が、創設され 同年に京都の教育状況を視察した福沢諭吉は、「民間の学校を建て人民に教育せんとするは余輩の積年の志なりしに、 今、京都に来たりて、その実際を見たる日、恰(あたか)も故郷に省りて知己に会うが如し。 およそ世間の人この学校を見て感ぜられるは、報知の心無きと言うべきなり・・・」と言ったそうです。 伏見町誌に「施設巳に学制頒布以前において見るべきものありき・・・」という一説が記されています。 貴重な記録などから伏見の民間で学問文化や学校創設の機運が着々と高まっていた事を裏付けています。
伏見の小学校沿革のあらまし
明治5年10月20日、伏水第一小学校(下町、山村小学校とも称す)、同年11月5日、伏水第ニ小学校(板橋2丁目、尾張藩邸跡)、 同年11月26日、伏水第三小学校(南浜、土佐藩邸跡)に相次ぎ開校。同年11月17日、伏水第三小学校の分校を六地蔵に 開校。当時の本府の教則によれば小学校を上、下に二等分、各八級とし学則に句読、算術、習字の三科、 教室は、寺子屋、私塾らと同程度でした。明治8年7月、改正に基き、教室、他の施設を改め、 4名掛けの長卓椅子(ターセル)を用い立教式となる。同年9月、伏水第三分校(六地蔵)を独立し、第四校と称しました。 明治9年2月、学校区名称を第三大学第六中学区板橋又は、南浜と定める。明治12年、教育令発布と共に制度が 一変し大学区を廃し学制の条規で漢書、習字、算術、地理、歴史、修身、物理、博物の大意を授ける。 明治14年3月、定期休校日を1日、15日を廃し日曜日を定期休校日と定める。明治14年7月、教則改正に基き小学科を 初等科目を6級〜1級、中等科目を6級〜1級、高等科目を4級〜1級に三等分。高等科は更に化学、生物、幾何、経済を 課す。教科書は多く初歩の漢本、洋書直訳の小学読本等で当時府下一般の学事は他府県に比して大変異彩を放っていた。 教育施設は、学制発布以前に行われ監督官庁の監督奨励が良いとし長官等の学事視察が頻繁に行われ巡視官自ら 試問を試し、教育を督励し学童の奨励に力を注いだ。明治22年7月1日、前年発布の小学校令に基き尋常小学校を 二等分し各4ヵ年で終了。修業1ヵ年で1学級進む。第一小学校(下町)、第四小学校(六地蔵)は、本町所属各町分離時に 所属村落に移転。この組合区域は、伏見町外九ヶ村に対し紀伊郡高等小学校と称し所属村落の児童を収容し 学齢に達した児童の保護者は学齢が終了する迄必ず尋常小学校に就学させる義務を規定。 尋常科は、修身、読書、作文、習字、算術、体操を必須、高等科は、地理、歴史、図画、唱歌、英語、商業科目を加える。 教育法は中央官署の命に従い気質養成、兵式訓練を用い、高等小学校はランドセルを背負い、木銃を肩に通学した。 明治25年6月、紀伊郡高等小学校に属する柳原、吉祥院、上鳥羽、東九条の一町三ヶ村は分離し、新たに一校を建て、 同校学区は伏見、竹田、下鳥羽、堀内、向島、横大路、納所となり、紀伊郡伏見町七ヶ村組合高等小学校と改称。 明治27年7月1日、紀伊郡彰徳高等小学校と改称。大正6年3月、桃山の地に本府女子師範学校、桃山高等女学校設置。 大正5年4月1日、伏見町外六ヶ村組合彰徳高等小学校を本町に買収し大正7年4月1日、府立女子師範付属小学校、 幼稚園を第三尋常小学校に開校。第一、ニ、三尋常小学校に高等科を併置。大正9年、第三尋常小学校々舎を増築。 同年4月1日、同校に高等科を移転し第一、ニ尋常小学校の高等科を廃し大正11年、字越前町に第三尋常高等小学校 分教場を設置。大正15年3月31日、同校を廃し同年4月1日、分教場を拡張し第四尋常小学校として開校・・・
実業学校 教育の向上に伴い中学校入学志願者数が、激増し受け入れ態勢が困難となりましたが、府立桃山中学校(堀内村・ 現、桃山高校)の創設で状況が、緩和されました。これより先に公益社団法人伏見十六会の同会定義に示された 公益事業の一施設とし大正4年9月に私立伏見実業補習学校を上南部町(元、南部図書館)に創設。同5年に私立伏見商業 学校も同町に開校し多大な貢献をしました。大正12年、商業学校は、施設を完成させ甲種程度(修業5ヵ年)となり同時に 実業補習学校を廃し新たに私立伏見商業夜間学校(修業4ヵ年)を創設。徴兵令改正に伴い、私立青年訓練所を創設し 大正15年3月8日、伏見商業学校は、陸軍・文部大臣から徴兵令第13条第1項第2号により中学校同等以上の認定校と なりました。同行の生徒数は、約250名で、入学試験の志願者数は、常に3倍という狭き門だった為に拡張を計画し 御大典記念事業とし堀内村字水野左近(現、桃山中学校)に敷地を下し完成を目指したと伏見町誌に記されています。
補習学校 明治9年(1876年)、南浜校内に夜間教育を始め、伏見に於ける補習教育の先駆けとなりましたが、いつしか廃絶となりました。 明治34(1901年)年5月1日、不就学者救済の目的で板橋第1小学校、南浜第2小学校内に修業年限6ヵ年の夜間学校を付設し貧困、 事故などの為に就学が、難しい人達を就学させ義務教育を施し卒業後も毎夜2時間の小学校に準ずる程度を殆ど 個人授業で行い両校共、盛時に各78名を教育しました。明治36年(1903年)、実業補習教育奨励の結果補習学校制度に 改める事となり6月中に夜学を廃し府費の補助で第1尋常小学校(板橋)に町立補助小学校を設立。後、稍(やや)不振となり 生徒減退、町財政緊縮などで町会は、補習学校の予算を削除し自然廃校となりました。 大正3年秋、第2尋常小学校(南浜)の篤志、実業家などが、資材を提供し簡易夜学校を設立し同年12月1日、 第2尋常小学校内に私立南浜夜学校を開校し乙種実業補習学校程度を徒弟を主として教育しました。
図書館 明治5年(1872年)10月、三木善成(そうぎよしなり)、大島尚長、仲庄三郎ら7人によって大阪町に伏見集書会社を創設。 各自の蔵書や二条城京都府書庫などから蔵書を借受、公衆に閲覧に供する傍ら図書の供給をしました。 閲覧料は、1ヶ月20銭でした。後に新町4丁目に移転し淀にも分館しましたが、開館から約5年後に閉館されました。 明治38年(1905年)9月16日、伏見十六会が、日露戦役大捷記念事業として伏見集書会社を接収し伏見文庫を創設しました。 次第に拡充され大正4年(1915年)、南部町(現、南部公園)に洋館の図書館を創設し伏見図書館として長年、当地で公衆に 利用されました。現在、伏見図書館は、今町に移転され京都市伏見中央図書館として公衆に利用されています。
伏見十六会 明治28年(1895年)、伏見の産業、商業振興の為、公益社団法人として伏見十六会が発足されました。 発足当時、上南部町で貯金事業を開始。趣旨は、二宮尊徳の報徳の教えで伏見の経済の安定、道徳の向上、 文化の発展に寄与しようとするものでした。十六会という名称は、発起人の16人が、月例を16日に行った所以からで 毎月、多くの会員商店などからの積立金をこれらの目的の為の基金としました。次第に実績を高めて貯金部の他に 教育部、救済部が、併設されました。貯金部は、資金を融資し伏見の商工業の振興に寄与し、明治38年(1905年)、 伏見信用金庫を設立しました。教育部は、学校や図書館などを創設し伏見の教育、文化の発展に努めました。 救済部は、済生園(さいせいえん)を設けて貧困者などの無料診断などを行いました。他に文化会館として、十六会館を建設。 十六会報を発刊しました昭和9年(1934年)3月、伏見十六会が解散し同年9月、台風により十六会館が倒壊。 伏見十六会が、設立した伏見信用金庫は、国内十指に入る信用金庫にまで成長しましたが、平成5年(1993年)11月1日、 西陣信用金庫と合併、みやこ信用金庫と改称しましが、平成12年(2000年)1月14日に債務超過により破綻しました。
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