稲荷神道散策
稲荷山 みねの神杉 神さびつ いくよの人の折 かざしけん 村田晴海
稲荷大社〜千本鳥居〜竹の下道〜お滝行場〜皇嘉門院陵〜仲恭天皇陵〜御幸奉拝所〜田中社神蹟(荒神峰)〜大八嶋社
|
伏見稲荷お山めぐりMap |
赤線は今回散策したアバウトな散策コースです。黄線はデジカメのバッテリーが×になり、清滝社〜三ツ辻迄の茶店を数件当って乾電池or撮りっきりカメラをゲットする為に往復した行程です。因みに稲荷山には21ヶ所ものお滝場があるそうです。 |
稲荷山は、いわゆる「東山三十六峰」の、最南端に位置する霊峰(海抜239.3m)で、古くから三ケ峰と称されてきたように三つの峰が西から東へと段々に高く連なり、これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地にふさわしい山容をそなえています。 |
稲荷大社境内 |
千本鳥居 |
薬力の滝(薬力社) |
清明滝(清明社) |
伏見稲荷大社 |
||
欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。 |
||
三十石船 |
京阪中書島駅 |
京阪伏見稲荷駅 |
楼門(重要文化財:桃山期) |
||
天正17年(1589年)、豊臣秀吉の造営とされています。秀吉の母・大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加すると記した"大病平癒の願文"が伝来し神社の楼門規模としては最も大きいものに属します。昭和49年(1974年)12月14日に解体修理されました。 |
||
伏見稲荷大社神幸道(裏参道) |
伏見稲荷大社表参道 |
伏見稲荷大社境内 |
東丸神社 |
||
稲荷社祠官・羽倉家に生まれた荷田春満(東丸)を祀っています。荷田春満は、大石内蔵助らに吉良邸の屋敷図を手渡し討ち入りの手助けをしました。僧契沖に始まる近世国学を発展させて「万葉集」、「古事記」、「日本書紀」研究の基礎を作りました。学業向上、受験合格などのご利益があります。 |
||
伏見稲荷大社楼門 |
拝殿 |
東丸神社 |
本殿(重要文化財:室町期) |
||
応仁2年(1468年)、応仁の乱により、境内の殿舎堂塔の全てが焼亡し、やがて仮殿の復興があったようですが、その後諸国へ勧進が行われ明応8年(1499年)に再建されました。社殿建築としては大型に属し、装飾、特に懸魚の金覆輪や垂木鼻の飾金具、それと前拝に付けられた蟇股等の意匠に安土桃山時代の気風、豪放にして優華な趣があります。 |
||
|
||
お茶屋 |
内拝殿 |
神楽殿 |
御茶屋(重要文化財:江戸期) |
||
入母屋造、桟瓦葺、腰廻りを檜皮葺きとし七畳の主室には床、附書院、違棚を設けた書院造風の茶室で柱や竿縁天井には面皮材を用い欄間や建具に数奇屋好みの意匠が施されています。元は仙洞御所にあったものを後水尾天皇から下賜されたと伝わり邸内には他に端芳軒、残香亭などの茶室があります。 |
||
石灯篭 |
本殿 | 鳥居 |
石灯篭(鎌倉期) |
||
鎌倉時代特有の重厚感がある石灯篭で火袋から上は近年の復元補作です。境内にはその他多数の石灯篭が奉納されていますが、いずれも新しく古い石灯篭はこれだけです。 |
||
|
|
|
玉山社 |
御供所 |
狛狐?と狛犬 |
白狐社 |
||
稲荷社の眷属神(けんぞくしん:神の一族)として命婦(みょうぶ:白狐)社が祀られるようになり稲荷山で狐に使える祈祷師や巫女が活躍しました。 |
||
|
|
|
狐像と狛犬 |
命婦社(みょうぶしゃ:白狐社) |
|
上ノ殿 |
奥の院奉拝所へ |
狐像 |
参道 |
||
命婦社(みょうぶしゃ:奥の院奉拝所) |
||
本殿の東方、千本鳥居を抜けたお山への上り口、通称「命婦谷」にあり一に「奥の院」の名で知られています。この奥の院奉拝所はお山を遥拝する所で、稲荷山三ケ峰はちょうどこの社殿の背後に位置しています。参道は左右二本あってその両側には鳥居が林立し、あたかもトンネルの有様で「千本鳥居」と称され稲荷大社の名勝となっています。 |
||
|
|
|
千本鳥居 |
命婦社(奥の院奉拝所) |
|
おもかる石 |
||
灯篭の前で願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする一種の神占石です。 |
||
|
|
|
大神石 |
ぬば玉の歌碑 |
おもかる石 |
膝松さん(根上りの松) |
||
枯れた松の根で左右2股になっていてこの木股をくぐると神経痛、腰痛、肩のコリなどが治ると言われ奇妙大明神とも言います。 |
||
|
|
|
稲荷参道の鳥居(三つ辻方面) |
膝松さん(根上りの松) |
神宝社〜弘法の滝への道(竹の下道) |
|
||
竹の下道(左)と奥の院への参道 |
神宝社(かぐや姫愛染裨) |
|
竹の下道 |
||
竹の下道とは、今の伏見街道(直違橋通り)より東側の稲荷山麓を経て深草に通じるといわれる所以から多分、大和街道であると思われます。 「深草や竹の下道わけすぎて伏見にかかる雪の明けぼの・・・(続千載) 前関白太政大臣」 |
||
嵯峨野のような竹林風情がある竹の下道 |
||
竹の下道 |
弘法の滝社 |
|
弘法の滝社 |
杖の池 |
|
|
|
|
弘法の滝社 |
竹の下道 |
|
|
|
|
青木ヶ滝社 |
||
|
|
|
青木ヶ滝社 |
竹の下道 |
|
|
|
|
道標 |
天之天心大神 |
|
|
|
|
七面ノ滝社 |
||
|
|
|
七面ノ滝社 |
白菊ノ滝社 |
|
|
|
|
白菊ノ滝社 |
||
|
||
御剱ノ滝社 |
分かれ道(今回は左へ進みます。) |
|
|
||
末広ノ滝社 |
||
|
||
稲荷社境界石 |
上がってきた山道と稲荷参道合流地点 |
|
二百段の石段 |
||
清少納言が、枕草子で大変に苦しい思いをしたと書いている急勾配な石段で釼石(長者社神蹟)〜一ノ峰(上之社神蹟)迄を一気に約200段の石段を登りますが、今回は、逆に一気に下ります。 |
||
|
||
稲荷参道 |
御釼社(長者社神蹟) |
|
御釼社(長者社神蹟) |
||
謡曲「小鍛治」の舞台とされ三条小鍛冶宗近が勅命を受け御剣を打つが、その努力精進が神に通じ稲荷明神が狐の化身となって現れ、宗近の相い打ちをつとめ見事な宝剣を完成させるという話で、その時の名剣を鍛えるのに用いたのが、御身体の岩だと伝えられる。力鍛冶、刃物業者の信仰が篤い社です。この社は、狛犬で狐ではありません。一対の狛犬は、石造で文久3年(1863年)とあり山中現存の石造で最古と言われています。別名を長者社と言い加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祭神とします。神殿の後に大きな岩石があり、この岩(釼石)がご神体です。 |
||
御釼社(長者社神蹟) |
釼石(御釼社) |
|
道標石 |
||
左、山科の里 大石良雄旧跡(大石神社)と記されていますが、何かの都合で左右反対に建てられ元に戻されていないようですが上から右と書き直されています。 |
||
|
|
|
釼石(御釼社) |
参道の鳥居 |
道標石(おせき社) |
おせき社 |
||
風邪、咳にご利益があると言われ葉書にしたためた祈願文が山積みになっています。セキは関所を意味し山頂の一の峰と山科に通じる山道の分岐点にある所から"お関稲荷"と言われたのが関を風邪、咳に附会した信仰になったそうです。 |
||
|
||
おせき社 |
薬力の滝社 |
|
薬力の滝(薬力社) |
||
この滝は、稲荷山で一番奥の行場でここからの流は、清明滝の下流で御膳谷からの流と合流し清滝となり白滝からの流を合流し御壺滝、五社滝となり最後に東福寺通天橋の下を流れる三の橋川となります。 |
||
|
|
|
薬力の滝社 |
参道の鳥居 |
|
|
||
傘杉社、清滝への参道 |
傘杉社 |
|
|
||
三本杉大神 |
天龍大神 |
|
清明滝(せいめいだき:清明社) |
||
稲荷山には大小21ヶ所ものお滝があります。お滝は修行場などとして利用されています。傘杉社を過ぎて清滝社への参道途中にある清明滝は21ヶ所中、最大のお滝場だと思います。 |
||
|
||
清明滝 |
||
|
||
天竜橋 |
清滝への参道 |
|
清滝社 |
||
|
||
御壺滝社 |
||
皇嘉門院陵(月輪南陵:つきのわのみなみのみささぎ) |
||
皇嘉門院は藤原忠道の娘で名は聖子(せいし)、十歳で崇徳天皇の中宮になりました。崇徳天皇が藤原頼道と結んだ保元の乱に敗れ讃岐に配流されると出家しました。稲荷山経塚は聖子の兄・九条兼実が妹の為に建立したと伝わります。 |
||
|
||
皇嘉門院陵(月輪南陵) |
御陵(月輪南陵、九条陵)参道からの景色 |
|
仲恭天皇陵(九条陵:くじょうのみささぎ) |
||
順徳天皇の皇子で懐成親王という皇太子でした。順徳天皇は父・後鳥羽上皇と共に倒幕計画を進め、承久3年(1221年)4月20日、懐成親王に譲位し5月に挙兵しました。承久の乱といい、敗れた順徳上皇らは配流され、4歳の新天皇は即位式もなく承久3年(1221年)7月9日、鎌倉幕府に退位させられ九条殿に移されました。世に九条廃帝と言われています。明治22年(1889年)、御陵地が定まり仲恭天皇とおくり名されました。在位70余日という歴代最短の天皇でした。 |
||
|
||
九条家墳墓所? |
仲恭天皇陵(九条陵) |
|
長州藩兵の墓所 |
||
仲恭天皇陵(九条陵)の上にあるのが慶應4年(1868年)1月3日、戊辰戦争の開戦となった鳥羽伏見の戦いで戦死した長州藩兵の墓所で毎年1月4日、退耕庵により供養が執り行われています。墓所敷地内には鳥羽伏見戦百周年記念式典で故・佐藤栄作総理大臣が植樹された樹木や慰霊碑があります。閑散としていて時代が流れた事を感じました。 |
||
長州藩兵の墓所(鳥羽伏見の戦い) |
鳥羽伏見戦百周年記念植樹 |
|
帰り坂(式部の道) |
||
帰り坂とは、四つ辻〜御幸奉拝所(御幸辺)の方向に、そして西斜面をよぎるように西北方向に下りやがて大きく西に進路を変えて出口は田中社(伏見街道)のやや東北の東福寺南門のすぐ南辺りに至るコースです。四つ辻〜東山トレイル〜仲恭天皇陵(九条陵)の尾根伝いに下る道です。今回は逆に仲恭天皇陵(九条陵)〜御幸奉拝所〜四つ辻へ上がりました。稲荷保勝会は三つ辻から北に向かう山道も念頭に置き、この帰り坂の道を和泉式部に因んで「式部の道」と命名されています。 |
||
|
||
長州藩兵の墓所(鳥羽伏見の戦い) |
御幸奉拝所 |
|
御幸奉拝所 |
||
昭和38年(1963年)に開かれた場所で、この神域に当社への崇敬篤かった横山大観画伯の筆塚があり、周りには黒竹が植えられています。この尾根は、古く平安の頃より御幸辺(みゆきべ)と呼ばれ、お山参詣の重要な経路でありました。 |
||
|
||
御幸奉拝所 |
田中社神蹟(荒神峰) |
|
田中社神蹟(荒神峰) |
||
権太夫大神と崇められています。この神蹟の後方にまわると景観が開けます。ここでは四ツ辻で見えなかった京都市内中心部〜以北の絶景を拝む事ができます。 |
||
|
||
田中社神蹟(荒神峰) |
四つ辻 |
|
大八嶋社 |
||
元々、山上の田中社神蹟(荒神峰)にあったものを、中世になってここへ移したと伝わります。社殿が無く大八嶋大神石碑があるだけです。 |
||
|
||
大八嶋社 |
伏見稲荷大社境内 |
|
Tourist 2004..06.07(M) |
今回、デジカメ以外で撮影した写真が今一なのと時々の雨で説明記述できなかった不詳の場所もあり、お滝場完全網羅と再度の撮影などリベンジします。それまで、ご了承下さい。当コラムで幻想的な稲荷参りの参考になれば幸いと思います。 |