久我、羽束師界隈
道元禅師ゆかりの誕生寺 |
久我(こが/くが)、羽束師(はづかし)
伏見区の町は、エリアによって町の歴史、文化などが、それぞれ違います。
久我(こが)、羽束師(はづかし)界隈は、農業を中心として今に発展してきました。
平安京より早くの長岡京の影響もあり由緒ある社寺や歴史のある界隈です・・・
「昭和30年頃の羽束師・久我界隈の景観図」
久我・羽束師界隈の社寺
妙覚山誕生寺(みょうがくさんたんじょうじ) |
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誕生寺 |
道元禅師の幼少像 |
誕生寺本堂と道元禅師幼少像 |
誕生寺境内は久我家の旧跡と伝えられ、大正6年(1917年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(こが/くが)に建立した寺です。昭和63年(1988年)11月に本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。 |
神川(かみかわ)神社 |
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鳥居 |
割り拝殿 |
本殿 |
神川座住吉神社と称した。
式内社。鴨川村の産土神で元は、住吉神社と云った。文政年間の当社神主古川為猛の『住吉社之略記』によれば、鴨川、桂川の落ち合う瀬の為ため、度々難破船があり、摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされている。 |
久我(こが)神社 |
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鳥居 |
本殿 |
お唐臼(おからうす) |
8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃に、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社であり京都市でも最古の神社の一つである。一説には『山城国風土記』逸文にいう賀茂氏が、「久我の国」に居をすえ、祖神を祀ったのが当社であり、更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも云われる。又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたと云われる。尚、境内には「お唐臼」という石臼が奉られている。これを持ち帰った者に祟り、元に戻したと云われています。 |
菱妻(ひしづま)神社 |
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鳥居 |
本殿 |
旧久我村の産土神です。平安時代初期〔永久元年(1113年)〕、鳥羽天皇に久我家の祖右大臣・源雅実が奈良の春日大明神から藤原氏の祖神、天児屋根命を勧請し、源氏の安護神火止津目大明神として祀られました。広大な神鎮社殿であったが桂川の大洪水で久寿元年には、菱妻大明神と改められ久我の郷の鎮守、学問運筆上達の神として崇拝されています。 |
羽束師(はづかし)神社 |
北向見返(きたむきみかえり)天満宮 |
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羽束師神社 |
拝殿 |
北向見返天満宮 |
羽束師神社は、旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年(701年)以前からの鎮座と云われています。羽束師は、羽束首(はづかしのおびと)の居住地で一族は、土器を作り石灰を焼いたりする泥部〔はつかしべ〕の伴造家であった。羽束氏の祖神を祀った神社と言われています。羽束師は元、乙訓郡に属し古くは羽束師郷とも言いました。 |
延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが北向見返天満宮です。 |
☆ 夢幻コラム\【平安の古道・久我畷の今をゆく・・・】
久我・羽束師界隈は、農業主体ののどかな田園地帯でした。
少し前までは、久我神社の傍に小さな牧場があり牛が、たくさんいました。
ここ最近、伏見の新興住宅地として開発が進み人口増加に伴い学校なども増え変貌しつつあります。
関連サイト |
水閣の里 |
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西国街道「長岡京道」散策Part1 |
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西国街道「長岡京道」散策Part2 |
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