古城山、指月の森・丘散策

 

桃山の由来

深草山に南接する丘陵で古くは伏見山、東は木幡に面するので木幡山ともよばれました。

寛永2年(1625年)、三代将軍・徳川家光により伏見城が破却され20年後、城跡に桃の木が多数植えられた所縁で

桃山と称されました。江戸時代に桃の名所となりましたが、明治初年に桃山西北部地に桓武天皇柏原陵が造営され

次いで南部地に明治天皇桃山御陵が造営された為に殆どの桃、梅の木々が取り去られました。

伏見のシンボル「桃山城」

平成15年(2003年)1月、閉園。城郭などは、公的に保存され運動公園になる予定です。

明治天皇桃山御陵

昭憲皇太后桃山御陵

明治天皇が、生前からこの地(古城山)を大変気に入られ天皇の意思で御陵地となりました。

古城山

文禄3年(1594年)8月に豊臣秀吉が、伏見城に入城して以来、伏見は城下町として現代に至っています。

桃山町泰長老一帯を称し指月(桃山)丘陵が、宇治川に至って断絶し前方に巨椋池を望み月を観賞するのに絶景地

であったので指月と称されました。栄仁親王(よしひとしんのう:後崇光太上天皇)が、大光明寺内に建てられた指月庵

によるという説、この地から眺める月が、宇治川の州に浮かんで3つ4つとなるので四(指)月ともいう説、

空の月、川の月、池の月、杯の月など一度に4つの月を見る事が、できるから指月という諸説が、あります。

慶長6年(1602年)、徳川家康によって伏見学校(円光寺)が、この指月の丘(月橋禅院の後丘北東辺り)に創設されました。

約400年以上も前から、伏見は、王朝(貴族)、桃山(武家)、儒学(仏教)、町衆(商人)文化の混在が成されています。

 

伏見城(指月城、木幡城)

文禄元年(1592年)8月、指月の森で、伏見城の工事が、開始されました。伏見城は、3回も建替えられました。まさに波乱万城(丈)?!

指月城

木幡城

文禄3年(1594年)8月、豊臣秀吉入城。慶長元年(1596年)潤7月、慶長の大地震て倒壊しました。

慶長2年(1597年)5月、秀吉入城。3年(1598年)8月、秀吉没。5年(1600年)8月、関が原の戦いの前哨戦で炎上しました。

 

大手筋〜酒蔵〜指月の森・丘〜古城山〜墨染界隈〜大手筋ママチャリ散策コース

丘陵の為、大変にアップダウンの激しいコースです。体力的に辛いですが、森の中は、涼しくて空気が、美味しいです。

高台から伏見の町を一望した時に何とも言えない爽快感があります・・・ママチャリだと結構きついコースです。

 

古城山コース・・・自転車でえっちら、おっちらと周って約2時間30分コース

大手筋⇒油掛繁栄会(日本初電車開通記念碑)⇒西岸寺(油掛地蔵)⇒伏見御坊(四辻の四つ当たり)⇒

酒蔵⇒松林院⇒松林御陵(後崇高太上天皇陵)⇒伏見奉行所跡⇒常盤井跡⇒西運寺(狸寺)⇒月橋禅院⇒

大光明寺御陵(大光明寺跡)⇒乃木神社⇒明治天皇、昭憲皇太后桃山御陵⇒桃山城⇒桓武天皇柏原御陵⇒

清涼院(尾張大納言義直公生家)⇒古御香宮神社⇒櫻町大神宮⇒海宝寺(伊達政宗公屋敷跡)⇒

墨染インクライン(墨染水力発電所)⇒墨染桜寺⇒欣浄寺⇒撞木町遊郭跡⇒明寿院(伏見の庚申堂)⇒

常盤井(キンシ正宗酒造)⇒白菊井(板橋小学校々内)⇒大黒寺⇒金札宮⇒西方寺⇒大手筋

油掛繁栄会(左下、電車開通記念碑)

西岸寺(油懸地蔵尊)

伏見御坊(四辻の四つ当たり)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

伏見別院(伏見幼児園)の門前で東西南北のいずれからも突き当たりになっています。昔の攻防兵学上からの町割りによるものと伝えます。

酒蔵

松林院

松林院境内

伏見は名水処として酒造りが地場産業となっています。昔に比べ酒蔵も減りましたがこの界隈は往時を偲ぶ事ができます。

寺伝によれば当時、後崇光太上天皇にかしづいていた一女官が、尼となりお墓をお守りしていた所で後に上鳥羽(南区)にあった松林院を移転し仏堂としたと伝える。本堂には、後崇光帝の念持仏と伝える阿弥陀如来像を安置し傍らに同帝の尊牒を泰安しています。

南浜小学校(元・伏水第3小学校)

松林院御陵

伏見奉行所跡石碑

明治5年(1872年)11月26日、旧土佐藩邸に伏水第3校として創設。別に分校を六地蔵(堀内村)に創設。

中世この辺りは舟戸御所があり創建は御宇多上皇です。祀られているのは御崇光太上天皇で伏見宮貞成親王の事です。伏見を大変に気に入られていたので康生2年8月、当地に葬られ御陵となりました。

慶長5年(1600年)に設置された徳川幕府の出先機関で伏見町の民政・宇治川の船舶の監督、京都御所や西国大名の監視にあたった。幕末の動乱下では、徳川方の根拠地となり慶応3年(1867年)12月に新撰組が移り翌、慶応4年・1月の鳥羽伏見の戦いに薩長軍と激戦を交わしたが、薩摩軍の砲撃により奉行所は焼滅しました。

常盤井跡(桃山常盤町)

西運寺(狸寺)

月橋禅院

常盤井は、元々伏見区桃山常盤町にありました。昭和32年(1957年)、国道24号線の拡張工事時に破却され井戸の井筒は、御香宮・弁天社前の池の石橋になっています。伏見七井の1つとされた名水で水が、清く不変なので常盤と云われました。

松風山西運寺と称し、慶長元年(1596年)に雲海和尚が向島橋詰町に創建し、貞享3年(1686年)に上総屋敷跡に移転した。江戸末期頃、冠道和尚が裏山にいた雌狸に餌付けをして馴らした。裏に出て「八」と呼んで手を叩くと裏山から下りてきて、飼い犬のように馴れ親しんで、いつしか「狸寺」と呼ばれるようになった。

伏見宮家初代・栄仁(ひでひと)親王は、ここに大通院指月庵を建て隠棲していました。孫にあたる後土御門(ごつちみかど)天皇は父の後花園天皇の菩提を弔う為、文明12年(1480年)、西山の三鈷(さんこ)寺より専篤(せんとく)上人善空を招き開山しました。

月橋禅院本堂

大光明寺御陵参道

光明・崇高天皇、冶仁親王〔大光明寺〕御陵

秀吉が伏見城築城後、越前武生の金剛院から亀州宗鶴(きしゅうそうかく)禅師を招き曹洞宗の寺となり月橋禅院と改称しました。

室町時代初期、この辺りに北朝の御願寺として七堂伽藍を完備した大光明寺がありました。文和年間(1352〜55年)、後伏見天皇の皇后・広義門院藤原寧子(やすこ)の発願で夢窓疎石(むそうそせき)を開山し建立された臨済宗の寺であったが応永8年(1401年)、失火で消失。伏見城築城時に相国寺に移転し現在は、光明天皇、崇光天皇の陵墓と崇光天皇の孫の治仁(はるひと)親王の陵が東西に並んでいます。

桃山小学校〔元・堀内村一か村小学校〕

乃木神社

230段の石階段

明治15年(1882)10月、堀内村一か村小学校として創設。

陸軍大将だった乃木希典と妻・静子を祀る神社。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をしたが、多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年(1907年)に学習院院長に任命され、明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。

桃山丘陵の頂に明治天皇陵、昭憲皇太后陵がある。この付近が木幡山伏見城の本丸や天守閣があったとされている。明治天皇陵への230段もある石段ですが、登りきると眺望絶景のポイントです。

明治天皇御陵

昭憲皇太后御陵

桃山城

伏見桃山陵は、明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。当地は、伏見城本丸跡を陵墓としたものと言われ少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后御陵がある。

伏見城は,豊臣秀吉によって文録元年(1592年)に築城されました。慶長元年(1596年)、慶長の大地震によって倒壊し、慶長5年(1600年)現在の明治天皇陵付近に再建する。この城も関ヶ原の戦いの前哨戦として炎上。覇権を握った徳川家康は、伏見城を修復するが寛永2年(1625年)三代将軍・徳川家光により破却された。

桓武天皇柏原御陵

清涼院〔尾張大納言義直公生家〕

清涼院本堂

桓武天皇は,長岡京を経て延暦13年(794年)に平安京へ遷都した。御陵は、秀吉の伏見城築城の際に破却されたなど伝えられているが、現在地は明治時代に治定されたもので諸説もありミステリーな御陵です。

徳川御三家筆頭の尾張徳川藩祖の徳川義直は、幼名を五郎太丸といい、生母お亀の方が住いしたのが清涼院です。お亀の方は、石清水八幡宮神官・志水宗清の娘で家康に見初められ側室となり、この地で五郎太丸を生みました。現在も五郎太町の地名が残る。

古御香宮神社

古御香宮神社々殿

櫻町大神宮

文禄年間、豊臣秀吉が、伏見築城に際し御香宮神社を移築し伏見城の鬼門除けとして祀りました。神社は、伏見城の廃棄後に徳川家康によって現在の御香宮に遷されました。参道は結構な上り坂で大きな石(伏見城石)がゴロゴロとあります。当社辺りが、桓武天皇陵だという説もあり御陵参考地に指定されています。

宮社記によれば承安年中、藤原中納言重範は桜を愛し多くの名花を植え天照大神を厚く祈誓し落花の遅い事を祈願し神明はその願いを叶え花齢を37日に延ばし落花を遅くし故にこの郷を桜町中納言と称し祀られた。重範卿、神徳を慰さんが為夢により当地に社殿を建立したと伝わる。

海宝寺(伊達政宗公屋敷跡)

海宝寺の名木・無二の木斛(もっこく)

桃山中学校(元・府立桃山女学校)

豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で、江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれた。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えと伝わる。樹齢は約400年とされる。今も、町名の桃山正宗や門前の伊達街道などに数多く残されています。

昭和22年(1947年)5月5日、学制改革の為に京都市立第三商業学校内に京都市立堀内中学校として併置開校。

墨染インクライン(墨染水力発電所)

墨染桜寺

欣浄寺

明治27年(1894年)、伏見城の外堀として造った濠川と、疎水の水運に役立たせる為、インクライン(傾斜鉄道)で川を繋ぎ1日に約100隻の船を上下しましたが戦後使用されなくなり、昭和34年にはレールも取り去られました。

貞観16年(874年)、清和天皇の勅創により、豊臣秀吉は当寺に信心厚く、姉瑞竜尼も帰依され、整備されました。平安時代、藤原基経の死を悲しんだ歌人・上野峯雄が歌を献じたところ、桜が薄墨色になったとの伝説により墨染桜寺と名付けられました。

深草少将の屋敷跡に欣浄寺(ごんじょうじ)はあり、今は清涼山と号する曹洞宗の寺院ですが寺伝によれば応仁の乱(1467年)迄、真言宗の寺院だったと伝わります。

撞木町遊郭跡 大石良雄(内蔵助)遊興の地記念碑

撞木町遊郭遊郭之碑

慶長9年(1604年)、渡辺掃部・前原八右衛門の両名により開設された。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704年)全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)が敵の目を欺く為、この地で遊興した事で知られる。

住吉小学校(元・府立女子師範付属小学校)

住吉児童公園(元・伏水第4尋常小学校跡)

明寿院(伏見の庚申堂)

大正7年(1918年)4月1日、府立女子師範付属小学校として創設。

大正12年(1923年)9月、第3尋常小学校分教場として創設。

無病息災のご利益もある庚申堂。

明寿院本堂

庚申堂(明寿院)

常盤井(キンシ正宗酒造)

庚申堂のいわれは、庚申堂の開祖である浄蔵貴所が、父の病の治癒祈願にコンニャクを捧げ、見事に治ったという言い伝え一年間の無病息災を祈る。

酒蔵に湧き出す井戸で常に変わらず不変の水量を湛える井戸水という意味を込めて昭和49年(1974年)に常盤井水と命名されました。

板橋小学校(元・伏水第2小学校)

白菊井(某小学校内)

金札宮

明治5年(1916年)11月5日、旧尾張藩邸に伏水第2校として創設。

天太玉命が、老翁と化し白菊を植え楽しんでいました。ある時旱害で稲が、枯れた時に白菊の露を注がんと白菊を振るとたちまちに清水が、湧き出したと伝える名水です。

天平勝宝2年(750年)の創立、清和天皇の御代橘良基によって阿波国(徳島県)より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命(あめのふとだま)(白菊明神)です。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝えます。

大黒寺

西方寺

風呂屋町

江戸時代は薩摩藩の祈祷所、本尊は五穀豊穣の神、大黒天。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老平田靭負の墓があります。

旧久米村の金札宮境内にあったが、元亨2年(1322年)、金松弥三郎(北条継貞従族)が、覚如上人に帰依して出家剃髪し久米寺を再興して存覚上人に寄進した事から真宗となり光明山西方寺と改められた。因んで金松御坊と言います。文禄年中伏見築城にあたり久米町に移り慶長初年に現在の風呂屋町に移りました。

Tourist  2003.9.1(M)

 

古城山、指月の森・丘の風を体験しました・・・丘陵地帯なので、結構きつい修行?コースです。

上り坂の時は、大変ですが、古の時代からの木々が鬱蒼と茂る御陵などの森林の−イオンや風が心地よく

又、山から見える伏見、京都の町や遠く、天王山〜西山〜愛宕山などの景色を満喫しました。

ママチャリだと小栗栖、六地蔵方面に抜ける道の上り坂の頂きになる八科峠近くにある古御香宮の坂が一番きつかったです。

この界隈にある桓武天皇柏原御陵には、ミステリーな伝説もあります・・・

最初、葛野(かどの)郡・宇太野(うたの)に御陵地がありましたが、都に異変が続き改めて

紀伊郡・柏原の地に葬られましたが、当時の御陵地の場所も諸説があり定かになっていません。

現在、古御香神社のある辺りが、当時の桓武天皇柏原御陵だったという説が、最有力のようです。

桓武天皇柏原御陵の規模は、応神、仁徳天皇御陵の比でない程の広大な御陵だったようです。

豊臣秀吉が、伏見城築城時に広大な御陵をかなり縮小したとも破壊したとも言われ今に至っています。

ここに掲載している名所・旧跡などは、下記のコラムなどで詳細に紹介していますので参考にして下さい。

 

関連サイト

桃山界隈 桃山界隈 桃山城の歴史

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