豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で、江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれた。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えと伝わる。樹齢は約400年とされる。今も、町名の桃山正宗や、門前の伊達街道などに、数多く残されています。
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南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索(元禄年間の修陵)では伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。
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室町時代初期、この辺りに北朝の御願寺として七堂伽藍を完備した大光明寺がありました。文和年間(1352〜55年)、後伏見天皇の皇后・広義門院藤原寧子(やすこ)の発願で夢窓疎石(むそうそせき)を開山し建立された臨済宗の寺であったが応永8年(1401年)、失火で消失しました。伏見城築城時に相国寺に移転し現在は、光明天皇、崇光天皇の陵墓と崇光天皇の孫の治仁(はるひと)親王の陵が東西に並んでいます。
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