桃山界隈

 

大名の 字名(あざな)を桃の 畑かな 正秀

 

230段の石段(明治天皇桃山御陵)

 

桃山

伏見の紹介で外せないのが、伏見桃山界隈です。

伏見桃山界隈は、約400年前(安土・桃山時代)〜歴史の中心になった処でした。

21世紀の現代・・・観光と商業の歴史ある城下町として繁栄しています。

「昭和30年頃の古城山(伏見城跡)の鳥瞰図」

伏見城(伏見桃山城)

文録元年(1592年)8月、指月の森に豊臣秀吉が築城(指月城)しました。慶長元年(1596年)、慶長の大地震によって倒壊し慶長5年(1600年)に現在の明治天皇陵付近に再建(木幡山城)する。この城も関ヶ原の戦いの前哨戦として炎上。覇権を握った徳川家康は、伏見城を修復するが寛永2年(1625年)三代将軍・徳川家光により破却された。伏見城は、3回も建替えられました。

豊臣秀吉が、築城し後に徳川家康の居城となり、朝廷から征夷大将軍の宣下を受け執政していた城

夢幻コラム『伏見城』 夢幻コラム『伏見城』

桃山御陵

桃山丘陵の頂に明治天皇陵、昭憲皇太后陵がある。伏見桃山陵は、明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。当地は、伏見城本丸跡を陵墓としたものと言われ少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后御陵がある。明治天皇陵への230段もある石段ですが、登りきると眺望絶景のポイントです。

230段の大階段

明治天皇陵

昭憲皇太后陵

海宝寺(伊達政宗屋敷跡)

桓武天皇柏原陵

大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)御陵

豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で、江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれた。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えと伝わる。樹齢は約400年とされる。今も、町名の桃山正宗や、門前の伊達街道などに、数多く残されています。

南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索(元禄年間の修陵)では伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。

室町時代初期、この辺りに北朝の御願寺として七堂伽藍を完備した大光明寺がありました。文和年間(1352〜55年)、後伏見天皇の皇后・広義門院藤原寧子(やすこ)の発願で夢窓疎石(むそうそせき)を開山し建立された臨済宗の寺であったが応永8年(1401年)、失火で消失しました。伏見城築城時に相国寺に移転し現在は、光明天皇、崇光天皇の陵墓と崇光天皇の孫の治仁(はるひと)親王の陵が東西に並んでいます。

 

指月(しげつ)

桃山町泰長老一帯を称し桃山丘陵が、宇治川に至って断絶し前方に巨椋池を望み月を観賞するのに絶景地であったので指月と言われました。栄仁(よしひと)親王(後崇光太上天皇)が、大光明時内に建てられた指月庵によるという説、この地から眺める月が、宇治川の州に浮かんで3つ4つとなるので4月ともいう説、空の月、川の月、池の月、杯の月など一度に四つの月を見る事が、できるから指月という諸説が、あります。いずれにしても月の観賞地として間違いは、なかったようです。

乃木神社

明治天皇に殉死した乃木希典大将を祀る。明治天皇桃山御陵の南側に隣接しています。

ス号像

拝殿

アラタマ号像

装甲巡洋艦「吾妻」主錨

慰霊碑

村野山人像

日露戦争の海軍犠牲者の慰霊碑

日露戦争の犠牲者の慰霊碑

乃木神社建立者

日本軍第三軍の司令部

宝物館

乃木希典が少年時代に住んでいた家

日露戦争で、中国の柳樹房から移築 乃木希典に関する資料・遺品展示など

山口・下関から移築した家屋

写真提供:北尾嘉宏氏

 

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