夢幻コラム『伏見城』

 

月見せん 伏見の城の捨郭(すてぐるわ) 去来

 

【京都・伏見と伏見城】

伏見のシンボル・伏見桃山城の前身でもある歴史に残る夢幻城・伏見城の歴史

伏見城絵図(五層の天守閣は豊臣期の伏見城) 昭和に建造された伏見桃山城

現在の伏見城・・・伏見桃山城は平成15年(2003年)1月に閉園され4度目の落城?

現在は、運動公園として京都市によって天守閣などが管理されていますが天守閣への入場は不可です。

今は無き伏見城を映像で訪ねる!(^-^)v

日本の城15「伏見城」

【洛中洛外図屏風に描かれた伏見城】

戦国武将 秀吉の城

桃山御陵(古城山)鳥瞰図

伏見城の本丸、二の丸、四の丸、名護屋丸などがあった桃山御陵(古城山)

御陵階段(伏見城四の丸跡)からの眺め

御陵造営時に地形を利用して作られた230段の大階段

明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡) 昭憲皇太后桃山東陵(伏見城名護屋丸跡)

明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたと事で御陵地となりました。明治天皇陵の後方の小高い所に伏見城本丸が、少し離れた昭憲皇太后御陵の後方の小高い所に名護屋丸跡がありました。また明治天皇陵前の遥拝所の広場には四の丸跡がありました。今は、そこに230段もある石段があり眺望絶景のポイントとなっています。

 

伏見桃山城と伏見城址鳥瞰図

伏見城復原図 ※建設省国土地理院発行 2,500分の一地形図に復原(輪湖俊樹氏作成)

伏見に残る伏見城遺構

伏見城大手門と伝える御香宮表門

伏見城車寄せと伝える御香宮割拝殿

伏見城残石

伏見城外濠を利用した濠川

  

     源空寺の二重山門       家光が寄進した伏見城巽(たつみ)櫓にあった朝日大黒天(左)と即一六躰地蔵尊

栄春寺総門

伏見城土塁跡

鎧武者の亡霊伝説がある伏見城内堀跡の治部池

伏見城内堀跡の北堀公園

 

豊公伏見城ノ図

伏見城址

伏見山(桃山)を中心として東西1km、南北1.1kmにわたる地域を旧跡とする。本丸跡は今の桃山御陵地にあたり、旧城の内堀は御陵内の空堀に利用されています。御陵前の一般遥拝所となっている広場は四丸(増田長盛郭)跡で、そこから南へ下りる石段は旧城の地形をそのまま利用したと伝える。本丸の西には二の丸、三の丸、治部少丸(石田三成郭)があり、桃山東陵の北には名護屋丸、南に山里丸や学問所、お舟いりなどがあった。本丸の北には松の丸、徳善丸(前田玄以郭)、弾生丸(浅野長政郭)、大蔵丸(長束正家郭)などが内郭を囲み、その周囲に二百数十にのぼる大名屋敷があったと伝える。伏見城は、天正の末年、秀吉が桃山の南丘の地に別荘風の邸宅的城郭として築いたのが起こりで、たまたま征韓の役にあたって和議が成立せんと、近く明国施設が来朝する事になり文禄元年(1592年)、新たに伏見山に大規模な城を起工した。25万人の工人を要し4年の年月を費して完成したと伝える。築城資材などの運搬は宇治川の水運を利用した。当時、宇治川は巨椋池に注いでいたが、この時に堤(槇島堤)を築いて池と分断し、川の水量を指月の浜に導いた。また巨椋池の中に小倉堤を築いて大和街道を設け、鴨川の流れを勧進橋から西に切り替えて淀に注がせ伏見の地形を一変させた。慶長元年(1596年)6月に城は竣工し伏見城と称した。五重の天主は雲にそびえ金色の瓦は燦然と伏見山頂に輝きわたり明国使節の度肝を抜くに相応しい威容だったと思われる。しかし、間もなく起こった伏見地震によって城の大切な部分が倒壊したので明使との謁見は城内の御花畠山荘で行われた。翌年早々、震災の復旧工事が行われ慶長3年(1598年)3月に完成したが、その年の8月18日、秀吉は伏見城で没し伏見城に在したのは5年に過ぎなかった。秀吉の没後、秀頼は大坂城に移り伏見城は徳川家康の預かるところになったが慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の前哨戦として西軍に攻められ、守将・鳥居元忠以下多くの徳川勢が戦死した。この時の兵火で本丸以下、主要な建物は焼失したが、間もなく家康が修築し家康の子・秀康を置いて近畿に於ける徳川の本拠とした。同19年(1614年)、豊臣滅亡後は軍事拠点としての伏見城の存在価値がなくなり、加えて豊臣氏の威光を偲ばせる城の存在は徳川にとって好ましくなく元和9年(1623年)7月、家光の三代将軍宣下式、祝賀会を伏見城で行ったの最後として廃城、主だった建造物は京都の社寺などに寄贈され城中の一木一石に至るまで徹底的に取り払われ伏見城は完全に地上から消滅した。廃城後の江戸時代には桃の名所となり、桃山御陵造営によって大半が御陵地となり地形にも大きな変化をみた。今は往時を偲ぶべきものは見られないが、御陵の北、本丸跡を城山、古城山ととも呼び内堀の一部は紅雪堀や治部池、貯水池(北堀公園)として残っている。伏見大手筋は城内大手門に面した道路であったと伝え、伏見には福島太夫、毛利長戸、松平筑前、羽柴長吉、伯耆、景勝、弾正、毛利、正宗などという他に類例をみない珍しい町名や地名があり、いずれも往時の諸大名の屋敷跡にちなんで名付けられた。

 

指月城

木幡城

文禄3年(1594年)8月、豊臣秀吉入城。慶長元年(1596年)潤7月、慶長の大地震て倒壊しました。

慶長2年(1597年)5月、秀吉入城。3年(1598年)8月、秀吉没。5年(1600年)8月、関が原の戦いの前哨戦で炎上しました。

 

伏見城は天下の覇権と共に豊臣から徳川へ
豊臣秀吉 徳川家康

農民から関白太政大臣、天下人(太閤)になった戦国武将。織田信長の五軍団(柴田勝家、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉)の1人。天正10年(1582年)6月13日、「天王山の戦い」で明智光秀を破り、天正18年(1590年)8月9日、天下統一を成し遂げた。戦後は織田信孝、柴田勝家との後継者争いとなり、天正11年(1583年)、柴田勝家を滅ぼし実質的な後継者となる。天正11年(1583年)、小牧・長久手の戦いで織田信雄、徳川家康と戦うが、勝てずに講和。その後、四国、九州を平定し、小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一した。天正13年(1585年)、関白。天正14年(1586年)、太政大臣に任ぜられるなど位人臣を窮め、関白を養子・秀次に譲った後、太閤と称した。太閤検地・刀狩りなどを行うなど、荘園制を廃してその後の幕藩体制の基礎を作りました。文禄3年(1594年)、伏見城築城。慶長3年(1598年)3月、醍醐で花見を行う。

天文11年(1542年)、松平広忠の長男として誕生。永禄5年(1562年)、信長と清洲で同盟。慶長2年(1597年)、秀忠の長女・千姫、伏見で誕生。慶長5年(1600年)関ヶ原で西軍と戦い大勝(関ヶ原の戦い)。九男・義直(尾張藩々祖)、伏見で誕生。慶長6年(1601年)、伏見に銀座を設置。慶長7年(1602年)、十男・頼宣(紀伊藩々祖)、伏見で誕生。慶長8年(1603年)、家康、伏見城で征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。十一男・頼房(水戸藩々祖)、伏見で誕生。慶長18年(1613年)、公家諸法度五カ条制定。慶長19年(1614年)、豊臣氏征伐を決定し、諸大名に出陣を命ずる(大坂冬の陣)。元和元年(1615年)、豊臣氏との講和決裂。諸大名に出陣を命ずる(大坂夏の陣)。大坂城炎上、豊臣秀頼・淀殿母子、大坂城中で自害。豊臣氏滅亡(元和偃武)。武家諸法度制定。元和2年(1616年)家康、駿府城にて没する。享年75歳。久能山に葬られる。元和3年(1617年)、家康に東照大権現の神号が贈られる。

 

伏見城沿革

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉は今の明治天皇の伏見桃山御陵を中心とする一帯(古城山)に本格的な城郭を建設。秀吉は既に天下統一を成し遂げ、10年前に天下統一の拠点として築城した大坂城とは、構想が違っていた。第一に明からの文禄の役の和睦使節団との謁見場所とすること。第二に隠居所として既に指月の森に建設していた伏見屋敷を整備拡張して城にすることでした。同時に秀吉は、織田信長の安土城に倣って湖水に麗姿を映す演出を考えていたと推察される。慶長元年(1596年)、明使がやってきたが同年7月12日の夜半に大地震が起こり城門・天守閣・殿舎などことごとく倒壊した為、明使との和睦会見は9月1日に延期され急遽城内の御花畠山荘とも大坂城で行われたとも伝える。伏見城の沿革は下の3期に分けられる。伏見城は、文禄3年に秀吉によって竣工された。一期目は淀城、聚楽第から天守閣などを移築→慶長の大地震で倒壊→二期目は新築→関ヶ原の戦・前哨戦で焼失→三期目は大和郡山城から天守閣などを移築→元和5年、二条城へ天守閣などが移築され寛永元年に一木一石残さず跡形もなく廃城。豊臣秀吉、徳川家康によって、それぞれ再建され日本の政治の中心となり歴史に翻弄され消え去った夢幻城になりました。その後、京都守護の為に新淀城が再建され、伏見支配の為に伏見奉行所が設置された。そして、昭和になって民間によって模擬天主ではあるが伏見桃山城が伏見城御花畠山荘跡に復活し現在に至ります。伏見城は、豊臣・徳川政権下で3度建て替えられたが約30年の短命でした。昭和に民間によって建てられた伏見桃山城は、キャッスルランドの閉園時に民意によって取り壊しは免れ伏見城より長寿ですが、やはり波乱万城(丈)です。この先どんな運命が待っているのでしょうか・・・

3回建替えられた伏見城

城主 場所 年  代 内  容
豊臣秀吉

指月山

★ 文禄元年(1592年) 8月 指月の森に隠居所として伏見屋敷の工事開始
文禄3年(1594年) 2月 伏見築城工事開始※淀城から移築
8月 豊臣秀吉、入城
★ 慶長元年(1596年)潤7月 大地震により城倒壊

木幡山

★ 慶長元年(1596年)潤7月 木幡山で天守閣の築城開始
2年(1597年) 5月 天守閣など完成、秀吉入城
3年(1598年) 8月 豊臣秀吉、伏見城にて没
★ 慶長5年(1600年) 8月 関ケ原の戦の前哨戦により城炎上
徳川家康 ★ 慶長5年(1600年) 8月 徳川家康が伏見入城、仮屋建築
7年(1602年) 6月 天守閣の築城開始※大和郡山城から移築
11年(1606年)    天守閣など一応完成
徳川秀忠
徳川家光
元和5年(1619年) 8月 廃城、解体を決定
8年(1622年) 8月 松の丸櫓、鉄門を福山城に移築
9年(1623年) 5月 家光将軍宣下のため、一部修築
8月 解体工事本格化※天守閣を二条城、淀城、大坂城などに移築
★ 寛永元年(1624年) 10月 一木、一石残さずに解体工事完了・・・廃城
古地図に見る伏見城天守閣(若林春和堂所蔵/三層の天守閣は徳川期の伏見城)

廃城となった古城山には伏見の人たちによって、桃の木が植えられ元禄時代には桃の名所として名を知られた。桃山という地名としては、案外新しいです。昭和38年3月、近畿日本鉄道が遊園地キャッスルランドを開園し大天守閣と小天守閣の連結式の伏見桃山城を旧二の丸北方の御花畠山荘跡に建造。大天守閣は姫路城を参考に名古屋城と同じ大きさに小天守閣は彦根城を模して建てられたと伝える。外観も位置も当時の伏見城とは全く異なるが下町から桃陵の丘に立つ城姿を見ると豊太閤の見果てぬ夢と往時が偲ばれます。

伏見城お舟入り常夜灯

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が伏見城で逝去した後、新しい城主に徳川家康が就いた。元和5年(1619年)、二代将軍・秀忠によって伏見城廃城が決定され同9年(1623年)に家光が三代将軍の宣下をこの城で受けた後、寛永2年(1625年)三代将軍・徳川家光により一木一石余すことなく破壊された。建築物は天守閣などは二条城、福山城、広台寺などに移され絢爛豪華な桃山風建築を今に伝えています。秀吉時代の本丸天守は今の伏見桃山御陵のやや北側(※伏見城復原図参照)にあった。伏見城に堀を掘る事は困難だったが北条氏の遺臣・岡紅雪の尽力によって地下水を巧みに汲み上げることで完成したと伝える。今、古城山に伏見城遺構を訪ねれば紅雪堀など一部の堀しか見当たらない。また、京阪宇治線・桃山南口駅から古城山麓までお舟入りがあって、その上に学問所と呼ばれる一帯があった。現在は埋め立てられて新興住宅地になっているが、当時は山科川の水が城内まで引き込まれ舟で出入りができた。家康によって再建された天守閣は大和郡山城が移されたと伝える。

 

【伏見城 古淀城 北野天満宮 醍醐寺】

 

伏見城と因果関係が深い淀城

元は、細川氏綱の居城で、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が「淀君」の為に修築を行った「淀城」です。混同をさける為「淀古城」とも呼ばれています。築城時期は、不詳ですが「細川両家記」などに、永正元年(1504)摂津の守護代・薬師寺元一が管領・細川政元に反抗して「淀之城」に篭城し攻め落とされたとあります。元亀3年(1572年)三好三人衆の一人である岩成友通が淀城にあって、足利義昭と呼応して織田信長に対抗したが信長の武将・細川幽斎に攻略されました。淀城は一時、小野木重次が預かり、天正17年(1589年)、秀吉は側室・茶々(淀殿)の出産の為、弟の秀長に修築させました。伏見城建設と共に文禄3年(1594年)に破却された。文禄4年(1595年)、秀吉は淀城を廃して築城中の伏見城へ建物を移しました。

豊臣秀吉が修築した淀古城跡(妙教寺)

淀古城跡碑

 巨椋池(おぐらいけ)や宇治川、桂川、木津川の三川合流地の川中島に再建された新淀城

淀城下と八幡、橋本と淀川

宇治川と桂川が合流する辺りに淀川水車があり淀大橋が架かる木津川と合流して淀川となる。対岸に八幡、橋本の町並みが京街道筋に描かれる。

クリックしていただくと絵図が拡大して見やすくなります。

江戸時代の新淀城絵図

現在、淀に城跡が残る新淀城の絵図です。当時は巨椋池や宇治川、桂川、木津川の三川合流地の川中島に築城されていた水城だとわかります。

絵図左下の宇治川に淀小橋が架かり、城の外堀すぐそばに淀川水車が二基あり城内へ水を汲み上げていました。

この淀川水車の軸木に注ぐ油は毎朝1升を要し、水車下で獲れる鯉の味は格別美味であったと伝える。

城右に木津川に架かる淀大橋、道筋(京街道)に八幡(男山)、橋本、渡し場などが描かれている・・・と私的に理解しています。

クリックしていただくと絵図が拡大して見やすくなります。

京都守護の目的で徳川によって再建された新淀城

江戸時代の淀城天守閣(元、二条城天守閣:與杼(よど)神社文書より)

元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。

淀城跡 天守台跡 淀城跡碑

享保8年(1723年)5月、春日の局の子孫である稲葉丹後守正知が城主となってから明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。

淀城公園整備計画

往時の淀城絵図

天守閣の再建を目指している淀城公園整備計画の完成イメージ図

当初、伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられた為に、珍しい城郭構成になったようです。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。現在、天守閣の再建を目指している淀城公園整備計画があるようですが・・・

 

関連サイト

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