向島界隈

 

観月橋(橋を境に宇治川から澱川に変名する)

 

都名所図会『指月・豊後橋・大池(江戸時代の巨椋池)』

巨椋池の漁業

向島

天正末年、豊臣秀吉は、当地に城向島城を築いたが間もなく伏見山に本格的な城郭(伏見城)築城に伴い、徳川家康の居館となりました。元和6年(1620年)、伏見城と共に破却されました。現在、本丸、二の丸町などの町名だけが名残です。昔は、紀伊郡向島村といい巨椋池畔の水郷地でしたが巨椋池は干拓され水田、工場、住宅地へと大きく変貌しています・・・

昔は、夏の風物詩・・・巨椋池の蓮(ハス)

近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)

平戸樋門と観月橋

明治天皇御駐輦所製工場跡

観月橋を渡り旧大和街道を西へ約100m、向島中島町の北側に「明治天皇御駐輦所製工場址」と記した石碑があります。これは、伏水製作所の事で、明治6年(1873年)、京都市が勧業政策の1つとして設立した鉄工場で伏水鉄具製工場、伏見鉄工所、伏見製鉄所ともいわれた。宇治川を利用し水車動力で農機具、織機、印刷機、蒸気機械などを製作していた当時最新最大の模範工場で明治天皇も親しく行幸された。府の政策転換により明治14年(1881年)に明石博高に譲られたが、明治22年(1889年)頃に経営難により閉鎖されました。

向島といえば・・・今は、幻の巨椋池(おぐらいけ)

豊臣時代の巨椋池(現、向島、槇島、小倉、宇治)

巨椋(おぐら)池の太閤堤(小倉堤)に造成された旧大和街道

 

巨椋(おぐら)池の太閤堤(小倉堤)

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉により槇島堤の造成が、始まり巨椋池に注いでいた宇治川を堤で迂回させ伏見城の御舟入に流れ込ませるのが目的でした。そして槇島堤の上に向島村が造成されました。堤の造成と同時に向島城も築城されると共に向島〜小倉にも太閤堤(小倉堤)が造成され、巨椋池を完全に遮断しました。

「昭和30年頃の観月橋の風景図」

 

観月橋の今昔(明治初期〜現在)

鳥羽伏見の戦で消失し明治6年(1873年)に新設されました。

明治41年(1908年)、鉄橋になった観月橋完成しました。

現在の観月橋は、昭和12年(1937年)に架けられたもので、その上の新観月橋は昭和49年(1974年)に完成。

 

干拓前の巨椋池(おぐらいけ:大正〜昭和初期頃)

巨椋池での漁業「浸木漁」(年代不明)

巨椋池での漁業(年代不明)

伏見の風物詩・蓮見舟(昭和初期)

 

向島の今昔

巨椋池(大正初期)

干拓地にできた向島ニュータウン

宇治川(槇島堤)

観月橋


現在の巨椋池・・・

漁業が盛んで鶴なども舞う野鳥の楽園で蓮見舟も伏見の風物詩でした。水害や水質悪化(マラリアの発生)などの為に干拓事業が、決定しました。昭和9年〜16年の干拓事業により幻の大池になってしまいました。今は、太閤堤(小倉堤)の上を近鉄電車が走り干拓地は水田から住宅地へと変貌し続けて、伏見最大のニュータウンとして発展しています。

小倉堤は巨椋堤、太閤堤とも呼ばれ、豊後橋は宇治川上流にあった宇治橋を曳いて架けたため、宇治川右岸を通り宇治町を貫いたので、それまでの大和街道は断たれることになり、京都と奈良を結ぶ人の流れは伏見城下を通ることになりました。

巨椋(おぐら)池太閤堤(小倉堤)に造成された旧大和街道と近鉄京都線
干拓前の巨椋池は周囲約16km、水域面積約8平方kmで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖でした。
広大な巨椋池は昭和8年(1933年)〜昭和16年(1941年)にかけて行われた大規模な干拓事業によって干拓地(農地)に姿を変えました。
往時のハスの種子などを自宅でハスを育ててきた篤志者により、現在も巨椋池花蓮品種の保存や観蓮会が行われている。

かつて、向島は満々と水を湛える万葉の巨椋池が存在し漁業だけでなくハス見舟など文人墨客で賑わっていましたが

時代の流れに巨椋池や宇治川の姿も変化し向島も伏見のベットタウンとして大きく変貌しました。

 

関連サイト

巨椋池:おぐらいけ

夢幻の巨椋池

伏見、久御山、八幡の洛南名残り桜めぐり

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