伏見七福神めぐり(廃絶)、伏見五福めぐり
夢かよふ 道さへ絶えぬ 呉竹の 伏見の里の 雪の下折れ(したをれ) 有家
呉竹の七福神、五福めぐりウォーキング
☆ 幻の『伏見七福神めぐり』 |
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七福神(寿老人、弁財天、布袋、毘沙門天、恵比寿、大黒天、福緑寿) |
長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神) |
室町時代に日本で最初に七福神信仰が京都で興り、全国に拡がりました。七福神(寿老人、弁財天、布袋、毘沙門天、恵比寿、大黒天、福緑寿)は日本、中国、インドの神仏が人々に幸運をもたらすとされています。「恵比寿神」が唯一日本で生まれた七福神の一神とされます。 |
真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は「伏見の弁天祭」と言われています。 |
法性寺跡(毘沙門天/動じない心、勇気の神) |
大黒寺(大黒天/開運・出世の神) |
『伏見七福神巡り』は別名を『洛南七福神巡り』とも称され、大正時代には隆盛を極めていたと伝えますが、昭和32年(1957年)頃に廃絶しました。当地に法性寺がありましたが、その後に廃寺となり現在は質素な祠が祀られているだけです。本尊・毘沙門天は、伏見墨染にある墨染寺に移されたと聞いております。 |
大黒寺の創建は不明ですが真如法親王の開基による名刹で当初は円通山長福寺と号しました。江戸時代の元和元年(1615年)、薩摩藩主・島津義弘が伏見奉行・山口駿河守に懇請し薩摩藩の祈祷所となりました。本尊は五穀豊穣の神で出世開運を授けると云われる大変にありがたい大黒天です。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負(ゆきえ)の墓所があります。 |
金札宮(恵比寿/商売繁盛の神) |
海宝寺(伊達政宗屋敷跡)(布袋/平和の神) |
縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝わります。この翁が天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)で天平勝宝2年(750年)に創立し清和天皇の御代、橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命です。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝えます。 |
豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれました。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えとされ樹齢は約400年と伝わります。今も、桃山正宗という町名や門前の伊達街道など数多く正宗の所縁が残っています。 |
西福寺(寿老人/健康と長寿の神) |
石峰寺(福緑寿/延命・安泰の神) |
浄土宗本派の寺で如意山光厳院と号し光厳天皇所縁の寺と伝えます。天皇は南北朝騒乱期の北朝方の天皇として最も辛酸をなめられたが延文2年(1357年)、河内の金剛寺の幽閉所から帰洛され伏見の奥(大亀谷敦賀)に閉居し世俗を一切絶ち禅門に帰依されたと伝わります。「玉くしげ あげてしみれば 今朝よりも 身にも袖にも 涙落として」とは、その頃の詠歌であるとされます。次いで丹波国山国村(北桑田郡京北町)の常照寺に移り貞治3年(1364年)7月7日に崩御されました。光厳院は文禄年間、豊臣秀吉が伏見築城に際し現在地に移転し寺名を西福寺と改名し教誉上人を中興開山とします。本堂に本尊・阿弥陀如来像を安置し、他に光厳天皇画像、位牌を安置した小堂(光厳院)があります。 | 石峰寺は百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝わります。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって創設されました。江戸中期に創建時は諸堂も有する大寺院でしたが大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火し、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみである。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生から涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現しています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝えます。 |
☆ 『伏見五福めぐり』 |
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長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神) |
大黒寺(大黒天/開運・出世の神) |
真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は、「伏見の弁天祭」と言われています。 |
宝形造りの本堂内には秘仏大黒天を納める厨子を中心に両脇に不動明王、毘沙門天を安置しています。大黒天は60年ごとの御開帳でしたが近年は毎年の9月15日に御開帳されています。お像は15cmにもみたない小さいもので小像であればある程に古いとされこの秘仏も平安期の作かと思われます。 |
御香宮(開運、安産、厄除けの神) |
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縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。 |
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藤森神社(勝運の神) |
乃木神社(勝運、勉学の神) |
神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。 |
陸軍大将だった乃木希典(まれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をし多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。 |
『幻の伏見七福神巡めぐり』、『伏見五福めぐり』
『七福神巡り』は、室町時代に京都で興り現在では『都七福神』、『京都七福神』、『東山七福神』、『泉涌寺七福神巡り』などが有名です。三が日に『伏見七福神巡り』をしたいと調べたら『伏見五福巡り』は現存しているが、一ヶ寺(法性寺)の詳細が判明せず延期していました。ネットを通して知り合いになった『ぼちぼちいこか』の主宰者・かばのしっぽさんならご存知では?と尋ねたところ昭和32年(1957年)にお父さんと自転車に乗って『伏見七福神巡り』をされた経験がおありでした。場所など詳細を教えて頂き、法性寺(毘沙門天)が廃寺となっている事が分かりました。廃寺になる少し前の昭和32年(1957年)頃を最後に『伏見七福神巡り』も廃絶したという事も分かりました。大正時代には隆盛していたそうですが、現在は幻の『伏見七福神巡り』になっています。廃寺となった法性寺跡に質素な祠が祀られている事が、わかり古来の『伏見七福神』と『伏見五福』を巡りました。★ 法性寺の本尊・毘沙門天は現在、伏見墨染にある墨染寺に移されたと聞きますが、関連資料が少なく誤りがありましたら、ご容赦願います。 |
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