伏見七福神めぐり(廃絶)、伏見五福めぐり

 

夢かよふ 道さへ絶えぬ 呉竹の 伏見の里の 雪の下折れ(したをれ)    有家

 

呉竹の七福神、五福めぐりウォーキング

幻の『伏見七福神めぐり』

七福神(寿老人、弁財天、布袋、毘沙門天、恵比寿、大黒天、福緑寿)

長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神)

室町時代に日本で最初に七福神信仰が京都で興り、全国に拡がりました。七福神(寿老人、弁財天、布袋、毘沙門天、恵比寿、大黒天、福緑寿)は日本、中国、インドの神仏が人々に幸運をもたらすとされています。「恵比寿神」が唯一日本で生まれた七福神の一神とされます。

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は「伏見の弁天祭」と言われています。

法性寺跡(毘沙門天/動じない心、勇気の神)

大黒寺(大黒天/開運・出世の神)

『伏見七福神巡り』は別名を『洛南七福神巡り』とも称され、大正時代には隆盛を極めていたと伝えますが、昭和32年(1957年)頃に廃絶しました。当地に法性寺がありましたが、その後に廃寺となり現在は質素な祠が祀られているだけです。本尊・毘沙門天は、伏見墨染にある墨染寺に移されたと聞いております。

大黒寺の創建は不明ですが真如法親王の開基による名刹で当初は円通山長福寺と号しました。江戸時代の元和元年(1615年)、薩摩藩主・島津義弘が伏見奉行・山口駿河守に懇請し薩摩藩の祈祷所となりました。本尊は五穀豊穣の神で出世開運を授けると云われる大変にありがたい大黒天です。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老・平田靭負(ゆきえ)の墓所があります。

金札宮(恵比寿/商売繁盛の神)

海宝寺(伊達政宗屋敷跡)(布袋/平和の神)

縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝わります。この翁が天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)で天平勝宝2年(750年)に創立し清和天皇の御代、橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命です。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝えます。

豊臣秀吉の伏見城築城時、当地に屋敷をかまえた伊達政宗の屋敷跡で江戸時代中期の享保年間に黄檗宗管長の隠居所として開かれました。本殿脇にある木斛(もっこく)は、政宗の手植えとされ樹齢は約400年と伝わります。今も、桃山正宗という町名や門前の伊達街道など数多く正宗の所縁が残っています。

西福寺(寿老人/健康と長寿の神)

石峰寺(福緑寿/延命・安泰の神)

浄土宗本派の寺で如意山光厳院と号し光厳天皇所縁の寺と伝えます。天皇は南北朝騒乱期の北朝方の天皇として最も辛酸をなめられたが延文2年(1357年)、河内の金剛寺の幽閉所から帰洛され伏見の奥(大亀谷敦賀)に閉居し世俗を一切絶ち禅門に帰依されたと伝わります。「玉くしげ あげてしみれば 今朝よりも 身にも袖にも 涙落として」とは、その頃の詠歌であるとされます。次いで丹波国山国村(北桑田郡京北町)の常照寺に移り貞治3年(1364年)7月7日に崩御されました。光厳院は文禄年間、豊臣秀吉が伏見築城に際し現在地に移転し寺名を西福寺と改名し教誉上人を中興開山とします。本堂に本尊・阿弥陀如来像を安置し、他に光厳天皇画像、位牌を安置した小堂(光厳院)があります。 石峰寺は百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝わります。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって創設されました。江戸中期に創建時は諸堂も有する大寺院でしたが大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火し、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみである。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生から涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現しています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝えます。

☆ 『伏見五福めぐり』

長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神)

大黒寺(大黒天/開運・出世の神)

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は、「伏見の弁天祭」と言われています。

宝形造りの本堂内には秘仏大黒天を納める厨子を中心に両脇に不動明王、毘沙門天を安置しています。大黒天は60年ごとの御開帳でしたが近年は毎年の9月15日に御開帳されています。お像は15cmにもみたない小さいもので小像であればある程に古いとされこの秘仏も平安期の作かと思われます。

御香宮(開運、安産、厄除けの神)

縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。

藤森神社(勝運の神)

乃木神社(勝運、勉学の神)

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。

陸軍大将だった乃木希典(まれすけ)と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をし多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。

 

『幻の伏見七福神巡めぐり』、『伏見五福めぐり』

『七福神巡り』は室町時代に京都で興り現在では『都七福神』、『京都七福神』、『東山七福神』、『泉涌寺七福神巡り』などが有名です。

三が日に『伏見七福神巡り』をしたいと調べましたら『伏見五福巡り』は現存していますが、一ヶ寺(法性寺)の詳細が判明せず延期していました。

ネットを通してお知り合いになれましたぼちぼちいこかの主宰者・かばのしっぽさんならご存知では?とお尋ねしたところ

昭和32年(1957年)にお父さんと自転車に乗って『伏見七福神巡り』をされた経験がおありでした。場所など詳細を教えて頂き、法性寺(毘沙門天)が

廃寺となっている事が分かりました。廃寺になる少し前の昭和32年(1957年)頃を最後に『伏見七福神巡り』も廃絶したという事も分かりました。

大正時代には隆盛していたそうですが現在は幻の『伏見七福神巡り』になっています。

廃寺となった法性寺跡に質素な祠が祀られている事がわかり古来の『伏見七福神』と『伏見五福』を参加表明されたgodzillaさんと巡りました。

法性寺の本尊・毘沙門天は現在、伏見墨染にある墨染寺に移されたと聞きますが、関連資料が少なく誤りなどがありましたらご教授頂ければ

幸いです。

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西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

油懸地蔵尊本堂

松尾芭蕉の句碑

酒蔵

伏見の七名水・・・「七つ井」

伏見の由来が、伏し水と言われる程に良質な伏流水が、豊富でした。七つ井とは、石井(いわい)、常盤井(ときわい)、春日井(かすがい)、白菊井(しらぎくい)、苔清水(こけしみず)、竹中清水(たけなかしみず)、田中清水(たなかしみず)を言います。伏見の酒の名声もこれら「伏水」のご利益にあります。

長建寺

本堂

松林院陵(舟戸御所(下御所)跡)

中世、この辺り一帯に御宇多上皇が創建した舟戸御所がありました。宇治川に臨んで船着場があった事から舟戸御所、舟津御所とも言いました。桃陵指月の森にあった伏見殿を上御所と呼ぶのに対して舟戸御所を下御所とも言いました。吉野時代の延文元年(1356年)8月、宇治川の氾濫によって舟戸御所は水没しました。祀られているのは御崇光太上天皇で伏見宮貞成親王です。伏見を大変に気に入られていたので康生2年(1465年)、当地に葬られ陵墓となりました・・・伏見宮家の二代目貞成(さだふさ)親王時に皇子彦仁王が後小松天皇の養子になり弥光天皇後、後花園天皇になりました。伏見宮は家格が上り天皇の補佐的な地位に就きました。この時代の伏見は、伏見宮家の貞成親王の「看聞御記」に深草郷との草刈争、炭山(宇治)との境界争、竹田との水争など近隣との紛争などが記されています。伏見の人々は、伏見庄の荘官であり伏見宮家と深い繋がりを持つ小川氏、三木(そうぎ)氏(現・御香宮々司)などの有力士豪の元、御香宮などに結集して事にあたりました。

伏見七名水「白菊水」

法性寺跡(毘沙門天/動じない心、勇気の神)

大黒寺(大黒天/開運・出世の神)

金運清水

平田靱負(ゆきえ)顕彰碑と伏見義民遺髪塔

平田靱負の墓所

文久2年(1862年)4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組(薩摩藩急進派)21名、真木和泉守ら10名、田中河内介ら5名の36名が集結。島津久光の君命を受けた薩摩鎮撫使9名が藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず斬り合いとなりました。鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切 腹)を出し、この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、 遺骸を丁寧に白木綿で包み大黒寺に埋葬した。更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています。

薩摩九烈士の墓所と墓碑(右手前端)

金札宮

天然記念物「クロガネモチ/伏見区民の木」

拝殿、本殿

Pちゃんの通う板橋小学校の「白菊の水」

伏見七名水「竹中清水」

日本名水百選、伏見七名水「石井(いわい:御香水)」

本殿(重要文化財)

神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑

伏見義民一揆(天明義民一揆)

安永7年(1779年)11月、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)は着任後間もなく、その地位を利用して暴政を振舞うになりました。その為に数万もの伏見住民を窮地に陥れる結果となり、こうした町民を救おうと立ち上がったのが町年寄・文珠九助初め焼塩屋權兵衛ら7人の義民でした。彼等は江戸幕府に命がけの直訴に及び悪奉行を失墜させました。奉行罷免後、權兵衛は京都東町奉行所の再吟味による尋問に遭い、遂に天明7年(1788年)11月4日、獄中にて病臥し非業の最後を遂げました。

割り拝殿(京都府指定重要文化財)

神石「白菊石」

伏見義民顕彰碑(勝海舟筆)

大鳥居(大手筋通り)

表門(重要文化財)

乃木神社

装甲巡洋艦「吾妻」主錨と日露戦争慰霊碑

学習院々長時代の乃木希典(まれすけ)胸像

拝殿

桓武天皇と桓武天皇柏原陵

光仁天皇の皇子で初め宝山部親王(やまのべしんのう)と称しました。亀元年(770年)、称徳天皇が逝去し壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え、新たに天皇に即位したのは、天智天皇の孫にあたる光仁天皇でした。新天皇体制も、皇太子が天皇に早く即位したい為、皇后と共に「呪い」をかけた事件から一変し直ちに二人を幽閉、その地位も剥奪されました。新たに皇太子に擁立されたのが、山部親王、後の桓武天皇です。父は光仁天皇、母の高野新笠は渡来系氏族であった為に当初、山部親王の天皇即位には多くの反対がありましたが、時の実力者であった藤原百川らの推挙で皇太子に擁立され、天応元年(781年)、第50代天皇に即位しました。柏原天皇という別称があります。

本殿(一間社春日造り)

桃山城

桓武天皇柏原陵

桓武天皇は、平城京から長岡京を経て延暦13年(794年)に平安京へ遷都しました。御陵は豊臣秀吉の伏見城築城の際に破却されたなど伝えられているが、現在地は明治時代に治定されたもので御陵地には諸説があるミステリーな御陵です。桓武天皇陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野辺り)に定められましたが、凶事が相次ぎ、山陵が賀茂神社に近い為の祟りだと天皇陵は山城国紀伊郡(京都市伏見区)柏原山陵に改葬されましたが、南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索では、元禄年間の修陵で、伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。

海宝寺(伊達政宗屋敷跡)

本堂

伊達政宗、手植えの名木・無二の木斛(もっこく)

境内

藤森神社

伏見義民の焼塩屋権兵衛顕彰碑

本殿(重要文化財)

伏見七名水「不二水」

藤森七福神

田中常憲(つねのり)歌碑

田中常憲(つねのり)は明治6年(1873年)、鹿児島に生まれ16才で教壇に立ち、福知山、桃山中学校長などを歴任した教育者ですが歌を落合直文に師事し歌人としても知られました。晩年は当寺の畔に閑居し昭和35年(1960年)に88才で没しました。歌碑には「ふかくさの 野辺の雲雀(ひばり)よ 春たたば わが墳の上の 雲にきてなけ」と刻まれています

北朝所縁の西福寺

田中常憲歌碑

本堂

即成就院跡(そくじょうずいんあと)

平安時代後期、関白・藤原頼道の子・橘俊綱が桃山丘陵に豪壮な山荘を構えました。俊綱没後、山荘内の持仏堂を伏見寺とし、後に即成就院と称しました。「伏見山寺宮近廻地図大概」には中世にはこの辺り一帯を即成就院村と称し伏見殿、大光明寺、蔵光庵などの寺院が描かれており付近には庶民の家屋も点在していました。伏見山荘は後に白河天皇に寄進され皇室領となりやがて伏見宮家に伝領されこの間にも即成就院も何度か建替えられましたが、応仁の乱で完全に荒廃し文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見山荘跡地辺りに伏見城を築城する事となり当地に移転する事となり明治5年(1872年)迄あった即成就院跡です。現在、即成就院は方安寺と共に泉涌寺(せんにゅうじ)に遷され、その名跡を残しています即成就院(そくじょうずいん)跡地には那須与一の墓所と称する方墳や与一誕生井と称する古井戸がありますが、これは下野国の那須荘をこの寺領として寄進した事による付会した伝説です。

即成就院跡

那須与一の墓所

伏見義民所縁の真宗院(しんじゅいん)

那須与一・・・寿永4年(1185年)2月、讃岐・屋島へ落ち逃れた平家を追って、源義経は海路で阿波に上陸し陸路で屋島に迫り、背後から平家を急襲した。驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返された。日没、両軍が兵を引きかけている時、沖の平家軍から年若い美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。美女は、紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで船べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをしている。これを見た、義経は、弓の名手・那須与一宗高に扇を射抜くよう命令した。与一は、馬を海に乗り入れたが、的の扇まで約40間(約70m)、そして的の扇は小舟と共に揺れている。与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢は見事に扇に命中し扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちました。この様子を見守っていた源平両軍は、歓声を上げて与一を褒め讃えたと伝わります。

瑞光寺(元政庵)山門

茅葺の本堂

嗚呼孝子元政之墓碑

瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

当地は極楽寺の薬師堂跡と伝わり、元政(1623〜68年)は、彦根藩士でしたが出家、詩人として有名になりました。明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号しました。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われます。

元政の墓所

宝塔寺

石峰寺

元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものです。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努められた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

赤門(竜宮造り)

本堂

茶碗子の水井

都のある茶人が使用人の失敗により大変気に入った水に出会えました。それ以降、茶の湯に使用した井戸水で石峰寺門前近くにありますが、現在は、使用されていません。この下方に農家の野菜置き場か洗い場があると思われます。

Tourist  2005.01.17(M)

 

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