稲荷山お滝行場完結散策
伏見稲荷大社は、お稲荷さんの愛称で京都では馴染み深い有名な大社の一つです。 商売繁盛・五穀豊穣・開運の守護神として古くから庶民の信仰を集め、全国約4万近くある稲荷神社の総本社です。 稲荷山には、一般参道からの「お山詣で」とは別に参道を外れてあまり知られていない幽想的な「お滝行場」があります。 一般参道を外れる為に結構険しい山道もあります。今回は、以前から探索していた21ヶ所の「お滝行場」がようやく完結しました。
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熊鷹滝 |
荒木滝 |
清メ滝 |
矢島滝 |
命婦滝 |
弘法の滝 |
竹の下道 |
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拝殿と本殿 |
楼門 |
藤森神社〜稲荷大社境内〜竹の下道〜お滝行場完結編
藤森神社 |
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神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝えます。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。 |
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南参道の鳥居 |
本殿 |
不二の水井(伏見七名水) |
旗塚 |
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旗塚の上に”いちいの木”があり今は枯れた株となっているだけですが、 かっては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛などの治癒にご利益があり新撰組局長・近藤勇も 「いちの木さん」を信仰し、足しげく通っていたと伝わります。 旗塚の「旗」は 「秦」につながると云う説もあります。 平安遷都以前に当地を治めていたのは 紀氏一族で産土神(うぶずながみ)として深草山々頂に雷神を祀ていたのが最初で、やがて新羅系渡来人の秦氏の勢力が大きくなり守護神として真幡寸(まはたき) 神社と称するようになり神護景雲年間(767〜769年)頃の事で社地も現在地に定まりました。「旗塚」、纛旗(とうき)の埋納説などは秦氏に因んでの伝説です。 |
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旗塚 |
茶碗子の水 |
熊鷹滝社 |
熊鷹滝神蹟 |
熊鷹滝 |
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伏見稲荷裏参道 |
伏見稲荷大社境内 |
荒木滝社 |
荒木滝 |
荒木滝神蹟 | お産婆稲荷 |
お産婆稲荷 |
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昔、狐がここでよくお産をしたといわれ狐は稲荷神の神使いとされお産も大変に軽く狐の安産にあやかるべく安産を願う者は、社前の燃え残りのローソクを持ち帰ると陣痛がローソクの短さで済むと言われています。 |
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お産婆稲荷 |
稲荷参道 |
神苑 |
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神石 |
千本鳥居 |
奥社奉拝所(命婦社)を南下から見ています。 |
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清メ滝社 |
清メ滝 |
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稲荷大神 |
滝神 |
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厄除け社 |
矢島大神(矢島滝) |
矢島滝 |
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呼声大神(命婦滝) |
命婦滝 |
竹の下道 |
水が峠超え?(@_@;) |
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新池というのは北方300m余にある古池に対しての新池で慶長8年(1603年)、農業用水源として修築されました。水は谷間を流れおさんば池(八嶋池)が貯水ダムとなり祓川〜田畑に引水されました。砂川の水源にもなり砂川として弘法滝方面に流れるには水が峠を超えねばならないですが古老伝承、弘法滝付近に水路が残っていて否定できないミステリーとなっています。杖の池が水路の跡かと私的には思っています。この池は今も水を湧き出しています。 |
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弘法ノ滝社 |
杖の池 |
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弘法ノ滝社 |
竹の下道 |
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竹の下道 |
稲荷参道と合流(奥の院の上辺り) |
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膝松さん(根上りの松) |
神石 |
おもかる石 |
ぬば玉の歌碑 |
奥社奉拝所(命婦社) |
千本鳥居 |
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千本鳥居 |
珍しい和合?狐像 |
神馬舎と灯台のような大灯籠 |
東丸神社、荷田春満(東丸)旧宅 |
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稲荷社祠官・羽倉家に生まれた荷田春満(東丸:1669年〜1736年)を祀っています。荷田春満は、大石内蔵助らに吉良邸の屋敷図を手渡し討ち入りの手助けをしました。僧契沖に始まる近世国学を発展させて「万葉集」「古事記」「日本書紀」研究の基礎を作りました。学業向上、受験合格などのご利益があります。 |
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灯台のような大灯籠 |
東丸神社 |
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楼門(重要文化財:桃山期) |
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天正17年(1589年)、豊臣秀吉の造営とされています。秀吉の母・大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加すると記した"大病平癒の願文"が伝来し神社の楼門規模としては最も大きいものに属します。昭和49年(1974年)12月14日に解体修理されました。 |
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荷田春満(東丸)旧宅 |
楼門 |
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Tourist 2004..08.18(Wed) |