源氏物語ゆかりの華庭

 

花・水・木散策

 

花の香りは 散りにし枝に とまらねど うつらん袖に 浅くしまめや   槿前斎院(あさがおのさきのさいいん)

 

花の枝に いとゞ心を しむるかな 人のとがめん 香りをばつゝめど   源氏

 

源氏物語絵巻

光源氏(右)と蛍兵部卿の宮(ほたるひょうぶきょうのみや:光源氏の弟宮)

昔から槿(あさがお)の君を慕っている光源氏でしたが、姫宮の態度はよそよそしい。そのつれない扱いを嘆きながらも、光源氏の思いは一層募りました。朱雀帝の御世に賀茂神社に奉仕する斎院になり、槿の斎院とも称され、知的で教養の高さを源氏に重んじられ、朝顔の花に事寄せて求愛されるが身をかわします。上図は、槿(あさがお)の君から届いた梅と松が挿された香の入った壺を前にして槿(あさがお)の君と寄りを戻せないか弟宮と思案中の源氏の様ですが、梅と松の位置が左右逆に描かれたそうです。

曲水の宴

平安の庭

貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。

高瀬川

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

市電発祥地の石碑

角倉橋

角倉了以水利記功碑

伏見線は、明治28年(1895年)2月1日、日本で初の京都電気鉄道(七条〜油掛町)として開通しました。後に京都市が、受け継ぎ昭和53年(1978年)9月末、全線廃止になる迄市民の交通手段として活躍しました。

三栖(金井戸)神社

肥後橋の東南、宇治川派流〔濠川〕の畔にあり天武・応神両帝、伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祀る旧村社で通称、三栖神社とよんでいます。元は横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改められた。

であい橋

三栖(金井戸)神社

三栖神社・本殿

伏見港

物事の初めと終わりを意味すると言われる阿吽(あうん)。口を開けた上右の狛犬の「阿(あ)」、口を閉じた下左の狛犬の「吽(うん)」、木製の鳥居と共に木製の狛犬として神社の守り神として鎮座していましたが紛失?し平成14年(2002年)9月に石製の鳥居と共に狛犬も新たに鎮座しています。

文禄3年(1594年)豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。

三栖閘門の今昔

「伏見港広場」のイメージ図

往時の三栖閘門

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

宇治川から見た往時の三栖閘門(左・東高瀬川)

建設中の三栖閘門と閘室(大正11年:1922年〜昭和4年:1929年・3月31日完成)

旧操作室

旧操作盤

平戸樋門

平戸樋門は三栖閘門の約1km上流にあり、宇治川派流(当時は平戸川)が宇治川へ合流する位置にあり、かっての宇治川派流は現在と逆方向となる宇治川から伏見町へ向かって流れ濠川に合流しており観月橋〜三栖迄の築堤後も宇治川〜宇治川派流のへの流れや流水の入れ替えを図り小舟の通行を確保する為に大正15年(1926年)3月に完成しました。

完成当時の平戸樋門

現在の平戸樋門

三栖洗堰

三栖洗堰は濠川が宇治川に合流する位置に三栖閘門と同時期の昭和3年(1928年)3月、完成し年々低下する宇治川の水位に対し航路となっている濠川などの水位や穏やかな流れを維持し濠川の内水を排出、宇治川洪水の逆流を防止する施設として建設されました。

完成当時の三栖洗堰

現在の三栖洗堰

濠川を航行する蒸気船(明治後半〜大正期頃)

宇治川を航行する蒸気船(大正期頃)

京阪・中書島駅(昭和30年頃)

酒蔵と宇治川派流(大正期頃)

前扉室

後扉室

三栖閘門資料館(旧操作室)

三栖閘門資料館(旧操作室)内部

宇治川展望スポット(後扉室)からのパノラマ(左から東:桃山城、北:京都駅方面)

宇治川展望スポット(後扉室)からのパノラマ(左から南:巨椋池跡地、西:天王山、北西:愛宕山方面)

三栖神社

横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。毎年10月に行われる祭礼では、世に炬火〔たいまつ〕祭りといい、直径1m以上もある大炬火1対を作り担ぎ回る慣わしが、あります。これは、天武天皇が、大津行幸にあたり当地を通過された時に村人が、松明を灯して暗夜を照らしたという伝説によります。

鳥居

本殿

弁天社

梅姫塚

塚は東面する方形墳で梅の老木と一体石像地蔵尊を安置する。「山城名跡巡行志」第5巻に掲げる蓮如上人の息女・妙勝尼の塚とはすなわち此処を云ったものですが「山城志」に記す「女郎塚」がこれに該当するかは不詳です。三栖付近に現存している唯一の古墳です。現在、残念ながら梅の木が枯れており元、光現寺・梅本住職が植え替えようか思案中だと言われていました。

梅姫塚

五輪さん

鎌倉時代の五輪石塔で昔の武人を葬った場所というだけで単に五輪さんと称する。近年、篤信者が神体化し「山城三好竜神」なる木札を建てて崇拝している。永禄年間当地に津田城を築いた三好左京太夫義継に因果があるかと思われますが不詳です。

五輪さん

善福寺(上三栖の薬師堂)

善福寺は通称を上三栖の薬師堂と称され、このお堂の前身は黄檗山万福寺派に属する医王山善福寺という禅寺で「山城名勝誌」には行基の開基による真言宗の名刹でお堂は唐様の堂々としたものであったと伝わる。本尊の薬師如来像も行基の作と伝わるが真偽は定かではないが、「医王山」と記された扁額の裏に万福寺の開山隠元の署名と再建の文字が刻まれている事から少なくとも江戸時代初期に真言宗から黄檗禅宗に移り寺も再建されたが現在に至り何故にかくも凋落してしまったのかは不詳です。

楽水苑(城南宮神苑)

社殿を取り巻く約1万坪(33,000u)の社苑は、春の山(本殿西側)、平安の庭(本殿東側)、室町、桃山、城南離宮の庭(本殿南側)と繋がり、総称して楽水苑(らくすいえん)と称します。

芹川(せりかわ)神社と絵馬舎の紅白梅

鳥居

楽水苑(春の山)入り口

三、四、五、六月に咲く楽水苑の花暦

枝垂れ梅(3月初旬:春の山)

紅枝垂れ桜(4月上旬:室町・桃山の庭)

山吹(4月中旬:平安の庭)

藤(4月下旬〜5月上旬:室町の庭)

つつじ(5月初〜中旬:室町の庭)

ささゆり(6月初中旬:春の山)

春の山

椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が次々と景色を彩るのが春の山です。6月末、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われます。白河上皇は城南離宮を築く際に、「源氏物語」に描かれた光源氏の四季の庭を備えた六條院をモデルにしたと伝わり、「春の山」と対を成す「秋の山」が国道1号線を隔てた西側にあり、史蹟公園になっています。

枝垂れ梅(春の山)

枝垂れ梅(春の山)

有楽(椿:春の山)

蝦夷錦(椿:春の山)

神木(大杉社)

白梅(平安の庭)

平安の庭

貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊に認め、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。

歌碑(平安の庭)

平安の庭

 遣水(やりみず):平安の庭

室町の庭

茶道、生花、能楽など日本文化が大成されたのが室町時代でした。作庭技術も画期を迎えます。池泉廻遊式の静寂な庭で、茶室〜楽水軒の前には礼拝石、池中央の蓬莱島の奥には三尊石と、峻厳で風格のある石組みが配されています。入口に雌滝、奥まった所に雄滝があり、その横の舟付き場の藤の花、色とりどりのツツジなどが楽しめます。

雌滝

室町の庭

室町の庭

室町の庭

雄滝

桃山の庭

枯山水様式で、大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、桃山時代の豪壮な気風を反映しています。城南宮から見晴るかす洛南の景色を表しているとも、あるいは、刈り込みが紀州の山並み、広々とした芝生が太平洋、点在する岩が小島を表しているとも称され、見る人によりその姿を変えます。紅枝垂れ桜が咲くと、一際華やかさを増し「桃山の庭」の奥の高台にある水石亭では、折々に城南宮や鳥羽・伏見の地に関わりのある特別展が催され、現在は「幕末の城南宮:孝明天皇と和宮親子内親王」が3/18迄、催されています。

桃山の庭

城南離宮の庭

城南の地が最も華やかであった離宮時代を表す枯山水庭園です。玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚(ひげ)が覆う部分が陸地を、そして岩組みが殿舎を表現しています。

城南離宮の庭

城南離宮の庭

Tourist  2004.03.01(M)

参考資料:城南宮、三栖閘門資料館パンフなど

城南宮の名庭園・楽水苑の「椿」や「梅」などの名花木も見物しようと「春の山」〜「城南離宮の庭」を散策しました・・・見事でした。源氏物語所縁の庭園と称する「春の山」、「平安の庭」などは雅な庭園で枝垂れ梅や珍しい椿など多種類の草木が楽しめます。「室町の庭」、「桃山の庭」は池を取り入れたり、豪快な枯山水などの庭園様式で茶室から眺め枝垂れ桜がおススメとの事です。「平安の庭」、「室町の庭」、「桃山の庭」、「城南離宮の庭」などの枝垂れ桜、ツツジ、藤の花などの季節も楽しめます。

 

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