絢爛の華道

 

我衣(わがきぬ)に ふしみの桃の しづくせよ  芭蕉

 

西岸寺(油懸地蔵尊)〜城南宮〜嵐山サイクリングロード〜淀〜石清水八幡宮

 

西岸寺(油懸地蔵尊)〜楽水苑(城南宮神苑)〜妙教寺〜神応寺〜石清水八幡宮(男山)〜飛行神社〜黄桜・お酒の資料館

繚乱の枝垂れ梅と禊(みそぎ)川(楽水苑:春の山)

鎌倉時代の流鏑馬(やぶさめ)

梅、椿など美しい花々が咲き乱れている雅の杜・城南宮から「鳥羽・伏見の戦い」の激戦コース(嵐山サイクリングロード)の小枝橋界隈〜淀〜絢爛の山・岩清水八幡宮(男山:八幡市)迄を途中の史跡にも立ち寄りながらチャリチャリしました・・・☆⌒(*^∇゜)v

西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

松尾芭蕉句碑

油懸地蔵尊本堂

油懸地蔵尊

楽水苑(城南宮神苑)

社殿を取り巻く約1万坪(33,000u)の社苑は、春の山(本殿西側)、平安の庭(本殿東側)、室町、桃山、城南離宮の庭(本殿南側)と繋がり、総称して楽水苑(らくすいえん)と称します。

白梅(芹川神社)

紅梅(芹川神社、絵馬堂)

春の山

椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が次々と景色を彩るのが春の山です。6月末、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われます。白河上皇は城南離宮を築く際に、「源氏物語」に描かれた光源氏の四季の庭を備えた六條院をモデルにしたと伝わり、「春の山」と対を成す「秋の山」が国道1号線を隔てた西側にあり、史蹟公園になっています。

加茂本阿弥(椿:春の山)

枝垂れ梅(春の山)

枝垂れ梅(春の山)

枝垂れ梅(春の山)

平安の庭

貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。

有楽(椿:春の山)

紅梅(平安の庭)

白梅(平安の庭)

平安の庭

平安の庭

室町・桃山の庭

室町・桃山の庭

枯山水(室町・桃山の庭)

枯山水(城南の庭)

鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)

鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇が造営した離宮です。広大な敷地に鳥羽殿と云われた南殿、 北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造られた と云います。その光景は広大な池を有する 庭園、舟が行き交う遊園の地、浄土の地とも云われました。

鳥羽離宮南殿イメージ図 (画:山本眞嗣〔ただし〕)

鳥羽・伏見方面戦闘図

鳥羽・伏見の戦い(小枝橋、鳥羽離宮跡公園:秋の山)

慶応4年〔1868年〕1月3日夕刻、東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。小枝橋界隈から戊辰戦争の開戦となった「鳥羽・伏見の戦い」の火ぶたが切られました

鳥羽・伏見の戦い碑〔小枝橋〕

鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)

秋の山

鳥羽・伏見の戦い碑〔鳥羽離宮跡公園〕

鳥羽・伏見戦跡碑〔秋の山〕

嵐山サイクリングロード(淀方面)

赤井河原

桂川の西側(羽束師:はづかし)を称し古くは赤日崎、赤江ノ崎とも記され広漠とした河州であった。保元の乱後、朱雀野で処刑された六条判官為義の夫人は赤江の淵に身を投じたとされ新宮十郎行家も当河原にて斬られました。元弘3年(1333年)、千種頭(ちぐさのとう)中将忠顕(ただあき)の率いる500余騎の軍勢が当河原に布陣するなど中世には淀、八幡を結ぶ戦略上の要点としてその名は史上にしばしば登場し山城盆地を一眼に納めた景観はすこぶる雄大であったと伝わります。

鳥羽・伏見の戦い慰霊碑(法伝寺)

赤井河原(羽束師方面)

魚市場遺跡碑

戊辰役東軍戦死者埋骨地〔愛宕茶屋碑〕

戊辰役戦場跡碑〔元・愛宕茶屋碑〕

唐人雁木跡碑

妙教寺

近世の淀城址から北東に500m程行った所に納所(のうそ)という所に妙教寺があります。この付近が淀古城です。鳥羽・伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為、薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。

山門

本殿

淀古城跡碑

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。綺麗に手入れされ、花なども毎日取り替えられている様子です。又、この埋骨地には幽霊伝説があります・・・千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と旧幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。

鳥羽・伏見の戦いの慰霊碑(妙教寺)

淀小橋旧跡碑

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

淀城跡〔天守台跡〕

 嵐山サイクリングロード(淀〜八幡方面)

山門(神応寺)

神応寺

当地に八幡宮を勧請した奈良・大安寺の行教(ぎょうきょう)律師が開創しました。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、岩清水八幡宮にて戦勝祈願し、水先案内人の協力を神社に依頼したが拒否され秀吉は立腹したが、その取り成しをしたのが当寺の住職で以来、秀吉から寺領200石を賜ったと伝わり、本堂には衣冠束帯姿の豊臣秀吉の坐像が安置されています。

境内

鐘楼堂

本堂

石清水八幡宮(男山)

平安時代初期、貞観元年(859年)、奈良・大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に篭られた時、八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安した事に始まります。この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権・允橘良基は、当地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営し、翌年貞観2年(860年)4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座されました。

石清水八幡宮上院のイメージ図

祭神は、本殿中央に八幡大神(誉田別尊:ほんだわけのみこと、第15代応神天皇:おうじんほんちょうこくぼたまよりひめのみことてんのう)を、西に比淘蜷_(ひめおおかみ:宗像三女神、一説に仲津姫命、或るいは本朝国母玉依姫命:ほんちょうこくぼたまよりひめのみこと)、東に神功(じんぐう)皇后(息長帯比賣命:おきながたらしひめのみこと)が祀られています。本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神と言います。

石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)

日本最大(高さ6m)の五輪石塔(鎌倉時代作)で重要文化財に指定されています。石塔部分は下から地・水・火・風・空の五大要素を表しています。摂津・尼崎の商人が宋(中国)との貿易の帰途、岩清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いる為に建立されたと伝わり航海の安全を祈って参拝され「航海記念塔」とも称されています。一説には、石清水八幡宮を創祀した行教律師の墓とも伝える。

岩清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)

一の鳥居

頓宮北門

頓宮(お旅所)

「徒然草」に、仁和寺の法師が岩清水詣でにやって来て、この頓宮を本社と間違えて「さすが八幡様は立派であったが、参拝者がぞろぞろと山へ登っていくのには合点がいかぬ・・・」と言って笑い者になったいう一説があります。「あらまほしきは先達(案内人)也」と話を結んでいますが、頓宮だけでも満足できる事は事実です。

放生池

頓宮殿

頓宮南門

高良神社

二の鳥居

豊蔵坊跡碑

男山合戦

岩清水八幡宮の歴史中で特筆すべきは、「男山合戦」といわれる南北朝時代最大の決戦が男山を中心に60日間もあった事で、この戦いを契機に南朝は急速に勢力を失いました。正平7年(1352年)春、南朝の後村上天皇は楠正義らと男山に立てこもり、対して足利尊氏の嫡子・義詮(よしあき)は東寺を本陣とし男山を四方から取り巻きました。戦いは激烈を極めたが楠正義の守備する洞ヶ(ほらが)峠が落ちると、後村上天皇はここを見限り大和大路を東大寺へと落ち、足利(室町)幕府は始めて基礎固めができたと伝えます。

神馬舎(神馬・五代目の彌桜号)

三の鳥居

320余基の灯籠が並ぶ参道

尺八都山流々祖顕影碑

鳩峯庵(茶室)

エジソン記念碑

涌峯(ゆうほう)塔:シンボルタワー

御羽車舎

書院

手水舎

供御所竈神殿(御本殿西門外にあった)

南総門

神楽殿

南総門

神木

拝殿・本殿

現在の社殿は、徳川三代将軍・家光によって寛永11年(1639年)に造営されました。桧皮葺きの本殿は前後二棟から成る“八幡造り”という建築様式で、その前には幣殿・舞殿・楼門と続き、周囲を180mに及ぶ回廊が囲んでいます。本殿を始め建物すべてが丹漆塗りで、随所に当時の名匠による極彩色の彫刻が刻まれている実に壮麗な社殿で、国の重要文化財に指定されています。本殿の棟の間に架けられている“黄金の樋”は、天正8年(1580年)、織田信長により寄進されました。

摂社・若宮社

末社・氣比社(左)、摂社・水若宮社

末社・貴船社、龍田社(右)

 

末社・一童社

摂社・住吉社

校倉

末社・廣田社(左)、生田社、長田社(右)

参道

神木

展望台からのパノラマ

展望台からのパノラマ

谷崎潤一郎の歌碑

展望台

男山ケーブル

京阪・八幡市駅〜岩清水八幡宮山頂付近迄を結んでいます。車窓から見える景色は綺麗で夜景なども楽しめると思います。車内で岩清水八幡宮の縁起などの説明が流れています。片道\200(大人)ですが、岩清水詣でをされる時は行きは頓宮を越えて参道を歩いて登られ、帰りにケーブルを利用される事をおススメします。

エジソン記念碑(岩清水八幡宮上院)、銅像(駅前:エジソン通り)

トーマス・エジソンは、白熱電球と電気システムが最大の発明だと答えています。明治13年(1880年)、エジソンの助手・ウイリアム・ムーアーが来日し、首相・伊藤博文、外務大臣・山県有朋と会い「竹なら京都」とアドバイスを受けました。ムーアは、初代京都府知事・槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野が良い。」と言われました。そして、八幡の竹を炭化してフィラメントを作り、炭素線電球が約2450時間も灯りました。八幡の竹は明治27年(1894年)迄、エジソン電灯会社に輸出され、白熱(フィラメント)電球が作られました。

エジソンの銅像

歌碑

安居橋(あんごばし:通称「たいこ橋」)

飛行神社

縁起碑によると明治24年(1891年)4月29日、世界に誇るゴム動力飛行器の飛行実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者を祀る為に建立された日本初の航空関係神社で海外旅行をする人や航空関係者などが参拝するとの事。「飛行機発明」に情熱を傾けた二宮忠八に関する品々を集めた資料館もあります。

参道と飛行機資料館

縁起碑

拝殿・本殿

別社・常盤稲荷社

ゼロ戦のプロペラとエンジン

ジェット戦闘機のエンジン

天王山方面

男山方面

嵐山サイクリングロード(淀方面)

新酒と杉玉(世界鷹)

寺田屋

黄桜・お酒の資料館

伏水井

資料館内部

 Tourist  2004.03.08(M)

 

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