伏見の山水散策

 

伏見港〜三栖閘門〜墨染インクライン跡(墨染発電所)〜西岸寺〜浄蓮華(じょうれんげ)院〜真宗(しんじゅ)院

 

「伏見百景」で有名な高瀬川堤防と酒蔵

宇治川

 

伏見港

伏見港は豊臣秀吉の伏見城築城に際し開港され、江戸時代には、三十石船、二十石船、十五石船、高瀬船など2千隻もの船舶が往来し港町として賑わいました。これらの船は幕府公認の通航証を持った過書船(かしょぶね)と言います。慶長16年(1611年)角倉了以が、二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を開削し、更に水路を南浜迄延ばしました。伏見港は水上交通の要となり大小の船が集中するようになり発展しました。京橋付近が伏見港の中心地で参勤交代の西国大名の本陣や脇本陣が置かれ、宿場町としても多くの旅人で賑わいました。

角倉了以水利記功碑(であい橋)

三栖神社の杜

宇治川派流

伏見港

三栖閘門

三栖閘門

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

三栖閘門

整備された宇治川への放水路からの眺め

宇治川

高瀬川

菜の花と酒蔵

菜の花と酒蔵

高瀬川と疎水放水路の合流地点

疎水放水路

奈良鉄道跡(近鉄京都線)

明治29年(1896年)4月18日、奈良鉄道(七条〜奈良)が開通。明治41年(1908年)、国有化され、国鉄(JR)本線は、大正10年(1921年)に東山トンネルが開通するまで、山科から大岩街道沿いの路線で稲荷駅から京都駅に入ってました。東山トンネルが開通後、国鉄本線は現在のJR東海道線の路線となりました。残った国鉄の線路と奈良鉄道の線路(稲荷駅〜桃山駅間は新設)を繋いで国鉄奈良線(現・JR奈良線)として開業されました。残った奈良鉄道の、京都駅〜伏見駅間の線路は後に奈良電鉄(現・近鉄京都線)に払い下げさられました。奈良電鉄は当初、西大寺〜宇治の路線計画でしたが旧奈良鉄道が払い下げられた為に京都駅迄の路線に変更し昭和3年(1928年)11月15日、全線開通します。現在は近鉄京都線になっています。近鉄の鉄橋下のレンガ部分は奈良鉄道の鉄橋橋脚跡です。

疎水放水路

濠川と疎水放水路の分岐地点

旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分)

墨染インクライン跡(墨染発電所)

豊臣秀吉が伏見城の築城時に外堀として開削した濠川と、疎水の水運に役立てる為に明治27年(1894年)、インクライン(傾斜鉄道)で両川を連結しました。完成した当時、1日に100隻もの船を上げ下げしたそうです。しかし、戦後使用されなくなり、昭和34年(1959年)、レールも撤去されました。一方では、疎水と濠川の落差を利用した発電を目的に墨染発電所ができました。その電気を、日本最初の「チンチン電車」として伏見〜京都間を走った電車に供給しました。現在も発電されており伏見界隈などに送電されています。

撞木町遊郭跡

墨染インクライン跡(墨染発電所)

墨染インクライン跡(墨染発電所)

墨染インクライン跡(墨染発電所)

琵琶湖疎水

直違(すじかい)橋

文禄年間に豊臣秀吉が伏見築城に際し開通させた伏見街道の七瀬川に架かる橋を言います。川が道路を斜めに切っている為に橋も斜めに架けられた事から直違橋という名前になり、南〜北へ直違橋1丁目〜11丁目迄ある町名にもなっています。今の橋は明治初期に架けられ「伏見街道第四橋」と橋柱に刻まれています。

琵琶湖疎水

直違橋

西岸寺

真宗大谷派の寺院で小御堂とも称します。鎌倉時代の文永5年(1268年)、九条兼実の臣・田村采女正(うねめのしょう)光隆は親鸞上人に帰依し出家して有阿弥(ゆあみ)と称し九条家より小御堂の寄進を受け深草山の西麓に建立したのが当寺の起こりで文永年間に現在地に移ったと伝わります。一説に親鸞上人の御台所・玉日姫(兼実女)は上人が北国へ左還された後も当地で教養を守り、後に屋敷を家臣の田村采女正(うねめのしょう)に譲り、往生したとも伝わります。これに因み本堂には姫の自作と伝える上人の「越前国有乳山越の像:草鞋(わらじ)がけの像」、兼実、姫の像を安置され、境内には姫の墓所があります。

山門

境内

本堂

藤森古天王(皇)社

塚本社が藤森に移された所で古来は小天皇真幡寸(まはたぎ)神社と称されましたが応仁の乱で焼滅しました。文明2年(1470年:一説に永享10年)に現在の藤森神社に合祀されました。現在、お旅所とは、名ばかりで廃滅寸前の小祠があるだけです。

深草十ニ帝陵、真宗院への標石

藤森古天王(皇)社

沓塚(くつづか)陵墓参考地

この塚は一堆の円墳からなり墳上に松の木を植え文化5年(1808年)春、醍醐寺の侍臣・桜井忠亮の書になる「理源大師沓塚」と記した石碑がある。理源大師聖宝は初め、貞観寺の僧正・真雅の弟子となり後に子院・普明寺に院栖し、延喜9年(909年)7月6日、78歳で入寂しました。当地は普明寺の旧跡と伝わり塚は、理源大師聖宝の墓とされ深草地方に散在する沓塚、行者塚、松塚の1つで現在は陵墓参考地となっています。一説には、理源大師聖宝の遺体が天空に飛んで消え残された沓を身代わりに埋葬して墓所とした為に沓塚と称するとの伝説もあります。

沓塚

善福寺

真宗大谷派・霞谷山と号し境内に旧嘉祥寺の礎石が残っており旧嘉祥寺の一部でその跡地に辻堂が建てられたと伝えます。この一帯は伏見城築城以来の瓦の生産地で知られ瓦師は姫路よりの移住者で熱心な真宗門徒であったが為に承応元年(1652年)、辻堂跡に本堂を立て善福寺と号しました。天明年間(1781〜1788年)、伏見奉行・小堀政方(まさみち)の悪政を幕府に直訴した文殊九助らの中に焼塩屋権兵衛がおり善福寺は彼の宿坊でもあり当時の住職・良周は彼らを支援し本堂の客僧部屋は彼らの集会場所でもありました。

深草十ニ帝陵

善福寺山門

境内

浄蓮華(じょうれんげ)院

天台宗妙法院末寺院で洋風建築の本堂には阿弥陀如来像を安置しています。境内の後に俗に谷口古墳と称する一堆の円墳があり江戸時代の頃、桓武天皇御陵と言われていました。文政4年(1821年)、比叡山の僧・尭覚は有栖川韻仁(つなひと)親王を奉戴して一宇を草創し浄蓮華院と号しました。万延元年(1860年)、その弟子・尭雄は御影殿を建てて天皇の菩提を弔ったが明治になり種々検討された結果、御陵は単なる伝説に過ぎないと判定されましたが未だに桓武天皇御陵地には諸説がありミステリーとされています。又、当院は幕末期に勤皇派の飯田忠彦が隠栖し「野史」291巻を執筆した所であり彼が参考資料を移しとり書きとどめた手記などが当寺に保管されています。

浄蓮華(じょうれんげ)院

山門

モダンな本堂

真宗(しんじゅ)院

浄土宗西山深草派・根本山と号し、後深草天皇の発願により宝治年間(1247〜1249年)に円空立信によって建立されました。当時の寺領は後の深草北陵も含み後嵯峨上皇から山門、経蔵などが寄進され後深草天皇が亡くなられると境内の法華堂に納骨され深草北陵(十二帝陵)の始まりとなりました。安政7年(1778年)、伏見義民では文殊九助ら36人が真宗院に集まり将軍(幕府)への直訴が決議されました。裏山の墓地には日本初の人体解剖を行い、その成果を「蔵志」として著した山脇東洋の墓所があります。

山門

参道

本堂

東方薬師如来像

方丈

 鐘楼堂

円空上人廟への参道

参道からの眺め

日観亭旧跡

近世の解剖学者・山脇東洋の墓所

御堂

開山・円空上人廟

石仏群

真宗院鎮守社

かすみ地蔵菩薩祠

百度石

矢島大神(矢島滝)

矢島大神(矢島滝)

矢島滝

呼声大神(命婦滝:みょうぶたき)

Tourist  2004.4.12(M)

 

Pちゃんと映画の約束があり限られた時間でしたが、いつものトラッキー号ではなく、Oちゃんのバケラッタ号で散策に出かけました。以前に周れなかった稲荷大社のお滝行場コースを周る予定でしたが・・・なななんと、その途中でコンタクトを遺失するアクシデント!(≧▽≦;)アチャー Pちゃんとの映画の約束の時間が迫りつつ、次の青木滝へも・・・仕方なく、中途帰還となりました。(T▽T) 又のチャンスにチャレンジします。

 

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