竹田、下鳥羽界隈

 

城南宮

 

草津の湊(鴨川〔右〕と桂川〔左〕合流地点)

下鳥羽は、古くは草津と言い、木津、今津とも言われた。船で西国に赴く人達の乗船地であった。

「平家物語」によれば崇徳上皇が、讃岐国〔香川県〕へ流されし時、高倉上皇も厳島神社へ行幸されし時もこの地より乗船されたと云われる。

道路交通上重要な遺跡地です。

「昭和30年頃の久我・下鳥羽界隈の景観図」

古の平安時代・・・下鳥羽界隈は、鴨川と桂川に挟まれた水郷地帯でした・・・・

応徳3年(1086年)、白河天皇が、鳥羽離宮を造営し平安貴族たちの別荘地などとして繁栄しました。

慶応4年(1868年)1月3日、戊辰戦争の開戦となる鳥羽伏見の戦いの火ぶたが、小枝橋辺りで切られ

東軍(旧幕府軍)、西軍(薩長連合軍)共に多大な戦死者を出した激戦地でもありました。

今は、安楽寿院・城南宮界隈で平安貴族文化の栄華が、偲ばれる歴史ある界隈です。

竹田、下鳥羽界隈

安楽寿院

近衛天皇陵(安楽寿院南陵)

鳥羽天皇陵(安楽寿院陵)

保延3年(1137年)、鳥羽上皇が、鳥羽離宮の東殿の御堂を仏刹に改め上皇自筆の法華経を石函に納めて安置されたのが、起こりで傍らに3層の宝塔を建てて本御塔とし崩後遺骨を納める所とされた。中世の戦火で多くの建物を消失しました。鳥羽伏見の戦い時に官軍の大本営となったが、幸い兵火は免れました。

近衛天皇は、3歳で即位し在位14年。久寿2年(1155年)、近衛殿にて17歳で崩御。長寛元年(1163年)、この地に埋葬されました。御陵建物は応仁の乱などの戦火で数度焼失しました。1606年に豊臣秀頼が、再建しました。

籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿において崩御されました。

法伝寺

薬師堂にある薬師如来坐像・阿弥陀如来立像・四天王立像は何れも平安中期のもので、鳥羽離宮の鳥羽殿にあったものと伝わる。山門の北側に鳥羽伏見の戦(慶応4年1月3日、開戦)の東軍戦死者の慰霊塔がある。この付近は東西両軍の激戦地となり、「堤上、死骸粉粉、路を塞ぎ、行くべからざるなり」と当時の記録がある。この寺には、東軍が使用した短銃や砲弾、太刀、槍の穂先などが残されている。また東軍戦死者名簿もある。法伝寺は、行基の開基と云われるが、元真言宗の寺で延文5年(1360年)、知恩院61世の円智上人が、法伝寺に移ってから浄土宗に改宗されたと云われています。

 

法伝寺

恋塚寺

遠藤武者盛遠(文覚上人)が、上西門院(後白河法皇の姉)に北面の武士(上皇の院御所を守衛する武士の事)として仕えた。同僚の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫・渡辺左衛門尉源渡を殺そうと侵入したが、身代わりとなった袈裟御前を切ってしまった。袈裟御前の首を、付近の池で洗った時、池の水が、まっ赤になったので「赤池」と呼ばれるようになった・・・僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのがこの寺の興りと云われています。「女には遠藤武者とあきらめる(古川柳)」(遠藤=縁遠いの意味)

恋塚碑

縁起石碑

袈裟御前首塚(恋塚)

鳥羽恋塚碑銘版木

文覚が、袈裟御前の菩提を弔うために建立したとされています。境内には、宝筐院塔〔袈裟御前の首塚〕があり「恋塚」と呼ばれています。六字名号碑、寺の縁起を表示した「縁起石碑」が、あります。寺院の山門横には、明治42年(1909年)に建立された「重修恋塚碑」が、あり恋塚と寺の由来が表記されています。

鳥羽離宮跡(公園)

公園北側に小山がある。鳥羽離宮にあった庭園の四季が、表現された築山の一つで「秋の山」と云われ、現在も地名として残っています。

鳥羽離宮の全貌イメージ

鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡)

鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡・秋の山)

この水郷地界隈に貴族達の別荘が、建てられ、応徳3年(1086年)、白河天皇がこの地に鳥羽離宮を造営しました。都の正南にあり城南(せいなん)離宮ともいい鳥羽殿、城南離宮ともいわれた。堀河天皇に譲位後、白河上皇は、鳥羽離宮に仙洞され南殿・馬場殿に加え北殿が増築された。鳥羽離宮は、寝殿と仏殿が、混在し"南北8丁、東西6丁、水深8尺"と広大な苑池畔に造営されたと云われています。・・・鳥羽伏見戦跡碑(秋の山)は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年(1912年)2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。

草津の湊・魚市場跡碑

白河天皇稜(成菩提院陵)

田中神社

下鳥羽は、古くは草津と呼ばれ中世は木津、今津とも云われた。京都より西国へ向かう人達の港で「草津の湊」と呼ばれていた。魚市場跡碑は、大正8年(1919年)4月、大橋家が的場正三郎の撰文により建てたものです。

鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬した。

下鳥羽、横大路の産土神として、冶暦年間(1065年)、八坂神社より、牛頭天王を勧請し、当初は、上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591年)、この地に大洪水が発生し、現在地に神社の本殿のみが、無傷のまま流れ着き村人達は、この奇跡に驚きお祀りしたと伝えられている。

鳥羽伏見の戦い碑(小枝橋)

北向き不動尊

城南宮

慶応4年(1868年)1月3日、東軍(旧幕府軍)は「小枝橋」に陣取る西軍(薩摩軍)に通行を迫るが通さない。その場で朝廷工作の成果報告を待つが、使者は、戻らない。夕刻、東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたが切られました

鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作の不動明王坐像が、安置されている。

神功皇后が、朝鮮半島出兵時の勝利の御旗を奉斎したのが、この神社の由来。後に桓武天皇が、平安遷都にさいし王城の南の守護神とし、さらに後、この地に鳥羽離宮が造営されると離宮に組み込まれました。応仁の乱(1467〜1477年)で離宮は荒廃し城南宮のみが、現在に至る。方除(ほうよけ)の神として信仰されている。

 

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