稲荷お滝行場散策

 

いなり山  多くの年ぞ 超えにけり 祈るしるしの 杉をたのみて 蜻蛉かげろう日記

 

伏見稲荷お山めぐりMap

 

稲荷山には、一般参道からの「お山詣で」とは別に参道を外れてあまり知られていない幽想的な「お滝行場」があります。一般参道を外れる為に結構険しい山道もあります。稲荷山には全部で21ヶ所の「お滝行場」があります。

鳴滝(鳴滝ノ社)

お気に入りの狐の手水(眼力社)

清滝(清滝ノ社)

大蛇の口から水が落ちる白滝(白滝ノ社)

下から見た白滝(白滝ノ社)

御壺滝(御壺ノ滝社)

五社滝(五社ノ滝社)

権太夫滝(権太夫ノ滝社)

藤森神社〜稲荷大社境内〜竹の下道〜お滝行場

藤森神社

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました

藤森神社にとうちゃこ〜ヾ(* ̄▽ ̄*)

蒙古塚(七塚)

紫陽花苑

蒙古塚(七塚)、かえし石(力石)

「蒙古塚」は一に「七塚」とも呼び蒙古の将兵の首を埋めた所と云われ神功皇后が兵器を埋納した所とも伝わります。「かえし石」は別に「力石」とも呼ばれ、大・中・小の三つの餅型の石が積まれています。江戸時代より藤森祭の京都所司代巡検時に当社の神人が拝殿より鳥居迄この石を転がす行事があったとか祭りに集まった力自慢が力試しに石を抱き上げたとも伝わります。

紫陽花苑

かえし石(力石)

不二の水井(伏見七名水)

旗塚

旗塚の上に”いちいの木”があり今は枯れた株となっているだけですが、 かっては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛などの治癒にご利益があり新撰組局長・近藤勇も 「いちの木さん」を信仰し、足しげく通っていたと伝わります。 旗塚の「旗」は 「秦」につながると云う説もあります。 平安遷都以前に当地を治めていたのは 紀氏一族で産土神(うぶずながみ)として深草山々頂に雷神を祀ていたのが最初で、やがて新羅系渡来人の秦氏の勢力が大きくなり守護神として真幡寸(まはたき) 神社と称するようになり神護景雲年間(767〜769年)頃の事で社地も現在地に定まりました。「旗塚」、纛旗(とうき)の埋納説などは秦氏に因んでの伝説です。

神兜像

旗塚

本殿

ランプ小屋〔JR・稲荷駅〕

明治12年(1879年)8月18日、京都・稲荷・山科(歓修寺)・大谷間13.1kmが仮営業され、JR稲荷駅の歴史が始まる。翌13年6月28日には逢坂山トンネルが開通し、京都・大津間が、開通。大正10年(1923年)、東山トンネルができ現路線に至るまで東海道線の路線でした。鉄道史の名残が赤煉瓦造りのランプ小屋である。

ランプ小屋(JR稲荷駅)

伏見稲荷大社にとうちゃこ〜ヾ(* ̄▽ ̄*)

伏見稲荷大社境内

楼門(重要文化財:桃山期

天正17年(1589年)、豊臣秀吉の造営とされています。秀吉の母・大政所の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加すると記した"大病平癒の願文"が伝来し神社の楼門規模としては最も大きいものに属します。昭和49年(1974年)12月14日に解体修理されました。

伏見稲荷大社楼門(重文:桃山期)

拝殿 内拝殿

本殿(重要文化財:室町期)

応仁2年(1468年)、応仁の乱により、境内の殿舎堂塔の全てが焼亡し、やがて仮殿の復興があったようですが、その後諸国へ勧進が行われ明応8年(1499年)に再建されました。社殿建築としては大型に属し、装飾、特に"懸魚"の金覆輪や"垂木鼻”の飾金具、それと前拝に付けられた"蟇股"等の意匠に安土桃山時代の気風、豪放にして優華な趣があります。

権殿

本殿(重文:室町期)

玉山社

白狐社

稲荷社の眷属神(けんぞくしん:神の一族)として命婦(みょうぶ:白狐)社が祀られるようになり稲荷山で狐に使える祈祷師や巫女が活躍しました。

上ノ殿

命婦社(みょうぶしゃ:白狐社)

ニャ〜と鳴く狐さん?(^_^;)(命婦社

奥の院奉拝所へ

千本鳥居

一般参道を外れて、おかげ塚にとうちゃこ〜ヾ(* ̄▽ ̄*)

おかげ塚

参道に合流

熊鷹社神蹟

熊鷹社神蹟

熊鷹社(新池)

山道

山道

竹の下道に合流

弘法ノ滝社(竹の下道)

水が峠超え?(@_@;)

新池というのは北方300m余にある古池に対しての新池で慶長8年(1603年)、農業用水源として修築されました。水は谷間を流れおさんば池(八嶋池)が貯水ダムとなり祓川〜田畑に引水されました。砂川の水源にもなり砂川として弘法滝方面に流れるには水が峠を超えねばならないですが古老伝承、弘法滝付近に水路が残っていて否定できないミステリーとなっています。杖の池が水路の跡かと私的には思っています。この池は今も水を湧き出しています。

弘法ノ滝社(竹の下道)

杖の池

嵯峨野のような竹の下道

青木ヶ滝社

竹の下道

桃山城遠望!(。・_・。)ノ竹の下道

七面ノ滝社、鳴滝ノ社

鳴滝ノ

鳴滝(鳴滝ノ

鳴滝(鳴滝ノ

白菊ノ滝社

御剱ノ滝社

分かれ道(左へ進みます。)

末広ノ滝社

上がってきた山道

山頂付近の白滝神塚など

稲荷山三等三角点(頂上:239.3m:山科区)

上がってきた山道と稲荷参道合流地点

一ノ峰(上之社神蹟)

稲荷山の山頂に鎮座する一ノ峰(上之社神蹟)は末広大神としても崇拝されている。

向島、宇治方面の景色(一ノ峰)

二ノ峰(中之社神蹟)

奴祢鳥居(ぬねとりい:間ノ峰(荷田社神蹟)

伊勢大神と崇められています。神域入り口に建つ石鳥居は、奴祢鳥居(ぬねとりい)と称し、額束の両側に合掌状の破風扠首束(さすつか)をはめた特異な形をしています。

間ノ峰(荷田社神蹟)

三ノ峰(下之社神蹟)

三ノ峰(下之社神蹟)

市内の絶景(四つ辻) \(^o^)/ やっほ〜

四つ辻〜清滝ノ社へ

お山で大人気な狐の手水(眼力社)

御膳谷奉拝所

清滝ノ社

清滝(清滝ノ社)

清滝(清滝ノ社)

清滝川(東福寺通天橋:三の橋川)沿いの山道

白滝ノ社への山道

白滝ノ社への山道を上ります!(^_^;)

 白滝ノ社神蹟

白滝(白滝ノ社)は大蛇の滝!ビックリッぽんや!(◎◎;)

御壺ノ滝社・・・一部ネットで洞窟が人食い鬼の羅刹の棲家にされてますが×情報。。。(;-_-;)

御壺滝(御壺ノ滝社)

御壺ノ滝社

五社ノ滝社

五社(五社ノ滝社

五社ノ滝社

五社ノ滝社

五社ノ滝社〜四つ辻へ東山トレイルを上ります。

御幸みゆき奉拝所

昭和38年(1963年)に開かれた場所で、この神域に当社への崇敬篤かった横山大観画伯の筆塚があります。この尾根は、古く平安の頃より御幸辺(みゆきべ)と呼ばれ、お山参詣の重要な経路でありました。

結構きつい上り坂です。下りなら楽です!(^_^;)

横山大観画伯の筆塚(御幸奉拝所)

御幸奉拝所

再び、上ってきた四つ辻からの市内の絶景!(^_^;)大汗(左から男山、西山、愛宕山方面)

権太夫ノ滝社

権太夫滝(権太夫ノ滝)

権太夫滝(権太夫ノ滝)

権太夫ノ滝社〜お産婆稲荷へ

お産婆稲荷

昔、狐がここでよくお産をしたといわれ狐は稲荷神の神使いとされお産も大変に軽く狐の安産にあやかるべく安産を願う者は、社前の燃え残りのローソクを持ち帰ると陣痛がローソクの短さで済むと言われています。

お産婆稲荷

大八嶋社

大八嶋社

元々、山上の荒神峰(田中社神蹟)にあったものを、中世になってここへ移したと伝わります。社殿が無く大八嶋大神石碑があるだけです。

大八嶋社

伏見稲荷大社境内

懐かしの京都市電車両(町内集会所)

Tourist  2004..07.05(M)

 

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