戊辰戦争(ぼしんせんそう)

 

【徳川幕府の壊滅〜新政府樹立】

慶應4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いで開戦しました。明治維新は、京の都・伏見〜北の大地・五稜郭(函館)へ

日本史上、国内最大の内戦であった戊辰戦争の戦歴(鳥羽伏見の戦い〜函館戦争)を大まかにまとめてみました。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)

慶應4年(1868年)1月3日〜明治2年(1869年)5月18日、西軍(薩・長・土・他連合軍)と幕府軍との国内最大規模の内戦で鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、函館戦争などの総称をいいます。慶應4年(明治元年・1868年)の干支が戊辰であったので戊辰の役と言います。

鳥羽・伏見の戦い図

飯盛山での白虎隊自刃の図〔会津戦争〕

函館戦争の図

江戸薩摩藩邸焼き討ち⇒戊辰戦争へ

慶応3年(1867年)12月25日、幕府と諸藩兵が薩摩藩の挑発行為に報復し江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしました。江戸は、王政復古の大号令〔小御所会議・慶応3年(1867年)12月9日〕後、辻斬りや強盗等、江戸の治安が乱れました。主犯は西郷隆盛の指示で動いていた益満一派でした。益満一派は幕府を挑発して、幕府を薩摩藩に報復させて、倒幕の大義名分を作ろうと画策しました。幕府は、会津・桑名・庄内藩など4藩の兵を含め約2000名で三田の薩摩藩と支藩である佐土原藩屋敷を焼き討ちにし、多くの浪士を捕らえました。この事件が伝わると共に、大阪城内の幕府兵と佐幕派諸藩兵は薩摩藩を討伐すべく京都へ進軍しました。この事件が引き金となり鳥羽・伏見の戦いへ推移しました。

鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)

慶應4年(1868年)1月3日〜5日。戊辰戦争の開戦となった戦いです。大政奉還(慶応3年(1867年)10月14日)後の小御所会議(王政復古の大号令(慶応3年(1867年)12月9日)で決定された徳川慶喜の辞官、領地返納に反発した大阪在城の幕府軍および会津・桑名の藩兵約1万5000名が、二条城から大阪城に移っていた徳川慶喜を擁して薩摩藩討伐のため京都に進軍しました。これを阻止しようと薩摩藩・長州藩を主力とする西軍4500名とで鳥羽、伏見での戦いをいいます。

北越戦争(ほくえつせんそう)

慶應4年(1868年)4月27日〜7月31日。越後平野で行なわれた西軍(北陸鎮撫総督軍)と奥羽越列藩同盟軍との戦い。4月27日、西軍は小千谷、鯨波を占領し5月2日、長岡藩上席家老・河井継之助は中立を望み北陸鎮撫総督・岩村清一郎と小千谷・慈眼寺で会談するが決裂しました。同盟軍は要所新潟港を押えて武器を補給、河井の指揮下に、長岡を中心に攻防戦を展開します。ガトリング砲などの最新火器(世界で初めて戦場で機関銃が、使用された。)を駆使し、一度西軍に落とされた長岡城を奪い返します。西軍は戊辰戦争中最大の苦戦を強いられたが、7月31日、長岡城を再度攻略して越後を制圧、勝利しました。

江戸城無血開城

慶應4年(1868年)4月11日。前将軍・徳川慶喜追討の西軍に、勝海舟と西郷隆盛の会談〔薩摩藩江戸屋敷〕の末に徳川家が謝罪条件に江戸城を無血で明け渡しました。この日をもって260余年続いた徳川幕府の完全崩壊と同時に武家政治の終焉となりました。

上野戦争(うえのせんそう)

慶應4年(1868年)5月15日。西軍に反抗し、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(幕臣で編成)と、西軍との戦い。西軍は佐賀藩で製造したアームストロング砲などの火力で圧倒し、その日の内に制圧、勝利した事により西軍は関東を掌握、徳川家を駿河に移封し、7月17日、江戸を東京と改めました。

会津戦争(あいづせんそう)

慶應4年(明治元年/1868年)8月23日〜9月22日。会津藩主・松平容保(京都守護職)に対する追討令が出され、薩摩・長州を主力とする西軍が会津若松を攻めた戦い。白虎隊、娘子軍の活躍で名高い会津藩は近隣の30余藩と奥羽越列藩同盟を結びこれに対抗し会津若松城を拠点に激戦を繰り広げました。慶応4年(明治元年・1868年)9月22日、会津藩は降伏しました。後に、明治10年(1877年)の西南戦争では、会津戦争などの遺恨を晴らすべく会津出身の兵は特に奮戦したといわれています。

京都守護職・第9代会津藩主・松平容保(かたもり)

砲弾跡が残る当時の鶴ヶ城<若松城(福島県会津若松市)>

美濃高須藩主・松平義建の第六子として誕生。弘化3年(1846年)、12歳で会津8代藩主・松平容敬(かたたか)の養嗣子となり(容敬も高須松平家から養子に入っており、容保の叔父にあたる)、嘉永5年(1852年)2月、容敬の病死により9代藩主に18歳で就任した。動乱の幕末時に京都守護職を勤め、朝廷に至誠を尽くすが、朝敵の汚名を着せられ、明治維新の人柱とされた。戊辰戦後、明治13年(1880年)2月2日、第5代・東照宮宮司に就任しました。

明治と改元されて間もない9月22日鶴ヶ城(若松城)は、総攻撃されました。天守閣に残る多数の弾痕跡が激戦を物語っています。この時の有名な逸話として、「幕末のジャンヌ・ダルク」、「ハンサム・ウーマン」と称えられた川崎八重(のちの 新島 にいじま 八重)が勇戦奮闘空しく会津藩が降伏した夜、下弦の月を眺めながら若松城内の雑物蔵の外壁に簪かんざしで刻書したと伝えるあすの夜は 何国 いづこ たれ かながむらむ なれし御城に 残す月かげ悲痛な一首の和歌として万感の思いの籠った絶唱といえる。

函館戦争(はこだてせんそう)

明治元年年(1868年)10月20日〜1869年(明治2年)5月18日。西軍などの幕府に対する措置を不満とし、慶応4年(1868年)8月19日、榎本武揚を中心とした幕府軍2000名が「開陽丸」を旗艦とする幕府艦隊8隻で江戸を脱出。10月20日に鷲の木(森町)へ上陸し、10月26日に函館・五稜郭を占拠し函館府知事を追放、松前城・江差を奪取して蝦夷地を手中にし、共和国を建国し西軍に抵抗した戦争。西軍はアメリカから幕府が発注していた鋼鉄艦を加えて攻撃し函館周辺で激戦を繰り広げ5月11日に西軍による総攻撃が始まります。函館山裏手から山を越えて奇襲するという作戦で函館周辺を制圧しました。土方歳三ら多数の戦死者を出しました。5月17日、榎本武揚らは黒田清隆らの降伏勧告を受け入れ降伏します。 5月18日、 五稜郭が明け渡され函館戦争を最後に戊辰戦争は終結しました。

函館戦争図

遊撃隊起終南蝦夷戦争記

函館姓名録

新政府軍の軍艦に対峙する旧幕府軍の軍艦が描かれ函館総攻撃時の様子。

五稜郭から一本気、弁天岬台場など戦地函館が描かれています。

明治元年(1686年)12月15日、蝦夷地領有宣言を行った旧幕府軍は蝦夷地仮政権の人事を士官以上の投票(日本初の選挙)で決めた。

開陽丸〔江差町・開陽丸青少年センター〕

幕府海軍総裁・榎本武揚

一本木の関門〔土方歳三・最後の地〕

開陽丸は、外国の侵略に対抗する為に幕府がオランダに発注し文久3年(1863年)8月、オランダのヒップス・エン・ゾーネン造船所で建造されました。慶応3年(1867年)4月に日本に帰港しました。慶応3年(1867年)10月14日に徳川幕府は大政を奉還し王政復古の大号令(小御所会議)で西軍と対立。開陽丸は徳川家直轄の兵庫港(現神戸港)の警備に就きました。入港していた薩摩藩・軍艦「春日丸」と輸送船「翔鳳丸」が停船命令を無視して逃走したので追撃し翔鳳丸を自沈させました。これを日本初の近代海戦・阿波沖海戦と言います。開陽丸は当時、日本最強を誇った木造の機帆走軍艦(フリゲート艦級)でした。慶応4年(1868年)8月19日、蝦夷共和国建国を目指す幕府海軍総裁・榎本武揚ら幕府軍2000名を乗せて蝦夷へ脱出しました。明治元年(1868年)11月15日、暴風雪のため江差沖に座礁し建造から僅か3年あまりで沈没しました。幕府軍には大きな戦力ダウンとなりました。

慶応4年(1868年)8月19日、西軍への軍艦引き渡しを拒否し8隻の軍艦で品川沖から幕府軍2000名と共に脱走しました。当時の榎本武揚の考えは、幕臣達の救済の為にも蝦夷地開拓に向かうという事でした。蝦夷共和国設立の為の組織編成に、日本で初めて選挙制度を導入した人です。戊申戦争後、投獄されましたが、明治5年(1872年)に赦免され、開拓調査などに携わり明治7年(1874年)、海軍中将・特命全権公使となり明治8年〔1875年〕に樺太・千島交換条約を締結、シベリアを馬車で横断し明治11年(1878年)に帰国しました。その後も、海軍卿のほか逓信相・文相・外相・農商務相など新政府で要職に就きました。

明治2年(1869年)5月11日、函館周辺は既に西軍に陥落され、五稜郭への総攻撃が開始されます。土方歳三は函館奪回を目指し約50名の兵と共に五稜郭を出陣し函館に向かいました。函館と亀田村の境界にあった一本木の関門辺りで馬に乗り敵陣に切り込んだ時に銃弾を腹部に受け戦死しました。享年34歳でした。死を覚悟していた土方歳三は「たとひ(よしや)身は蝦夷の島根(島辺)に朽ちるとも魂は東(吾妻)の君やまもらん(守らむ)」という辞世の句を残しています。京都で鬼の新撰組副長と恐れられた土方歳三は幕臣としての大儀、士道を最後迄貫き戦死した所です。函館戦争で戦死した幕府軍幹部は、土方歳三たった一人でした。

薩長連合軍は、官軍、新政府軍ではなく西軍と称し旧幕府軍または幕府軍と称しています。

戊辰戦争と15代将軍・徳川慶喜

徳川15代将軍時代の徳川慶喜

馬上の洋式軍服姿の徳川慶喜

大政奉還を決めた二条城大広間

徳川幕府約300年の歴史の幕を引く為に就任したような役回りでした。

小栗忠順らの献策でフランス皇帝の援助を受け幕府軍の近代化を急いだ。

慶応3年(1867年)武力倒幕を推進する薩長の機先を制し土佐藩などの建白を受け入れた会議で700年近く続いた武士の時代に終わりを告げました。

戊辰戦争と新撰組

錦絵・甲州勝沼役に於いて近藤勇驍優(ぎょうゆう)の図

錦絵・函館大戦争の図

中央で抜刀しているのが近藤勇だと言われています。

右下の抜刀(切りかかっている)しているのが土方歳三です。

中島登筆「戦友姿絵」 近藤勇

中島登筆「戦友姿絵」 土方歳三

土方歳三の旧生家

新撰組隊士中島登が函館降伏後の明治3年頃迄に描いた全29名の姿絵

平成2年に新築され邸内に資料館がある。

土方歳三

土方歳三の鎖帷子、籠手

土方歳三の京土産の小碗

土方歳三の写真は、函館で撮影され市村鉄之助が、明治2年(1869年)7月に佐藤家に届けました。裏面に土方の戦死を追悼して詠んだ大沼枕山の漢詩が記されています。

土方家に伝わる土方歳三の鉄兜、鎖帷子、籠手。出動に際し着衣の下に着込む鎖帷子は刀の切りあい時に絶大の効果を発揮したと伝えます。

土方歳三が東帰した時佐藤彦五郎への土産として持っていった景徳鎮窯(中国・清時代後半)の煎茶碗。

新撰組の袖章 近藤勇の硯(糟谷滋家所蔵) 土方歳三の愛刀 銘和泉守兼定(重要文化財)

新撰組・島田魁が、保存していた隊士の袖章で白木綿の平織りで赤色の誠と山形模様がデザインされています。新撰組隊旗は、現存しませんが、デザインを想像する事ができる。

近藤勇が愛用していた硯です。箱の蓋書きは、糟谷良循(土方歳三の3番目の兄)によるものです。

土方歳三の刀は1口ではなかったが、ニ尺八寸(約84cm)の長刀です。

土方歳三の愛刀 銘和泉守兼定拵え(重要文化財)

土方歳三の愛刀で刀銘・和泉守兼定(重要文化財)です。土方家の土方歳三記念館が所蔵しています。

 

関連サイト

江戸幕府の壊滅〜明治維新「鳥羽・伏見の戦」

江戸幕府の壊滅〜明治維新「鳥羽・伏見の戦」

新撰組

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土方歳三資料館

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