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維新の風

 

幕末維新の風を感じて・・・

慶応4年(1868年)1月3日、下鳥羽・小枝橋辺りと御香宮、伏見奉行所辺りからほぼ同時に

戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽伏見の戦いの火ぶたが、切られました。淀にある千両松慰霊碑文には、

「一瞬の時差により、或る者は、官軍となり、或る者は、幕軍となって士道に殉じたのであります・・・」

という内容が、記されています。多大な犠牲を出した国内史上最大の内戦であった戊辰戦争は、

錦旗〔レプリカ〕の登場により幕府軍の戦意・統率が乱れ、造反などが相次ぎ敗退の一路を辿りました。

「勝てば官軍、負ければ賊軍・・・」という言葉では納得できない、時の勝者による歴史創作の1つだと思います。

「明治維新の戦」というよりも「政治威信の戦」だったのではないでしょうか・・・

 

鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)

慶応4年(1868年)1月2日夕刻、会津藩先発隊約200名の伏見・京橋上陸図

開戦のきっかけとなった押し問答図(下鳥羽小枝橋辺り)

鳥羽伏見の戦い図

伏見町炎上図

慶応3年(1867年)12月16日、新撰組が屯所として布陣したのを始め幕府軍の布陣地・伏見奉行所図

 

「勝てば官軍、負ければ賊軍・・・」

「明治維新の戦」は薩摩、長州と幕府の「政治威信の戦」

朝廷工作など政治戦略と火器装備(軍備)の差で決着しました・・・

錦旗(レプリカ)

15代将軍・徳川慶喜

 京都守護職・松平容保

徳川慶喜による誠の書

徳川幕府最後の15代将軍・徳川慶喜公の書・・・誠心誠意の誠だと言われています。

誠は、言辺に成すと書きます・・・言った事を成す⇒有言実行という意味だと私的に思っています。

誠と言えば新撰組です。残念ながら実物の隊旗は、現存していません。浅黄色の山形模様の羽織も実際は、

着ていた期間が短く現存しないそうです。沖田総司〔そうじ〕は、この羽織を好まずほとんど着なかったと言われています。

浅黄色の山形模様の羽織の意味⇒切腹時に武士が、身につけるのが、浅黄色の衣装です。

山形模様は、仮名手本忠臣蔵の討ち入り時の衣装から引用したと言われています。

以上の事などから"武士道を意識し死を覚悟している"という意味の羽織だったようです。

慶応3年〔1867年〕12月16日、新撰組は、伏見奉行所に布陣しました。

 

幕末の伏見に関わった人達

坂本竜馬 土方歳三 西郷隆盛
薩長同盟締結など 新撰組副長 東征大総督参与

 

鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)と新撰組

「新彫伏見鑑」

伏見奉行所の図

伏見奉行所絵図を掲載した伏見の町案内の書籍で御香宮が、所蔵しています。慶応3年(1867年)12月16日に幕府軍の先鋒として新撰組が、布陣しましたが、伏見の民衆は、戦争に怯え新撰組を歓迎しなかったといいます。

天保増補 泰平俯見御役鑑

伝遠藤蛙斎筆「伏見鳥羽戦争図」

「伏見鳥羽戦争図」の新撰組アップ

慶応4年(1868年)1月4日、伏見奉行所から撤退する新撰組の図

誠の隊旗が描かれ馬上で指揮するのは、土方歳三だといわれています。

史跡 戊辰役(鳥羽伏見の戦い)東軍・西軍激戦の址

鳥羽伏見の戦い時の砲弾飛び込み口(妙教寺)

淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。昔は、写真の様に誠の旗がありましたが、現在はありません。今も花等は絶えずに捧げられています。

淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為、薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡が今も残っています。

「幕末回廊コース」

大手筋〜横大路〜納所〜淀〜三栖〜御香宮〜大手筋バイコロジー探訪

前回の王朝ロマンコースの続編的コースです。淀界隈の史跡などは、多少見つけづらい場所もあります。

行かれる時は、詳細な地図や地元の方に尋ねないと以外に時間が、かかったりします。

自転車での〜んびりと季節や歴史の風を感じながら周って約4時間30分コースです。

風呂屋町⇒草津の湊〔羽束師の仮橋跡〕⇒〔桂川堤散策・鳥羽方面幕府軍敗退経路〕⇒戊辰役東軍戦死者埋骨地〔愛宕茶屋碑〕⇒妙教寺⇒

戊辰役戦場跡碑〔元・愛宕茶屋碑〕⇒唐人雁木跡石碑⇒旧淀城薬師堂跡碑⇒旧淀城跡〔納所北城堀界隈〕⇒淀城跡⇒与杼〔淀〕神社⇒円通寺⇒

文相寺⇒大専寺⇒伊勢向神社⇒淀小橋旧跡⇒淀競馬場⇒千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」⇒〔淀堤・伏見方面幕府軍敗退経路〕⇒

三栖閘門⇒三栖〔金井戸〕神社⇒寺田屋⇒長建寺⇒四辻の四つ当り⇒伏見奉行所跡石碑⇒御香宮⇒大手筋

 

大激戦地となった桂川堤(草津の湊・仮橋跡)

桂川堤(宮前橋界隈)桑名藩砲兵隊布陣地

戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋碑)

慶応4年〔1868年〕1月3日、夕刻。東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたが切られました幕府軍の形勢が不利になり体制を整えるべくこの堤で激戦しながら淀城を目指しました。淀・宮前橋界隈には、桑名藩々兵や大砲隊が陣取っていたのでこの界隈も相当な激戦地となりました。

桂川堤防沿いにあった愛宕茶屋は、当時戊辰戦争の激戦地でした。桂川堤防下にある銀杏の木の下に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。

妙教寺(右・淀古城跡碑)

鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(妙教寺)

戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑)

近世の淀城址から北東に500m程行った所に納所(のうそ)という所に妙教寺があります。この付近が淀古城です。鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為、薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。

元、愛宕茶屋付近の南堤防上にあったと伝わります。

唐人雁木(がんぎ)跡石碑

淀古城薬師堂跡碑

淀古城跡(納所北城堀・南城堀・妙教寺界隈)

雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から幕府へ派遣した朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。道路舗装にあたって撤されました。

元は、細川氏綱の居城で、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が「淀君」の為に修築を行った「淀城」です。混同をさける為「淀古城」とも呼ばれています。築城時期は、はっきりしませんが、「細川両家記」などに、永正元年(1504)摂津の守護代薬師寺元一が管領・細川政元に反抗して「淀之城」に篭城し攻め落とされたとあります。元亀3年(1572年)三好三人衆の一人である岩成友通が淀城にあって、足利義昭と呼応して織田信長に対抗したが信長の武将・細川幽斎に攻略されました。淀城は一時小野木重次があずかり、天正17年(1589年)、秀吉は側室・茶々(淀殿)の出産の為、弟の秀長に修築させました。伏見城建設とともに文禄3年(1594年)破却された。往事の城の規模は、定かではないが、邸宅的城郭と推察されている。

淀城跡(天守台跡)

Pちゃんのランチタイム〜 \(^o^)/

稲葉神社

元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。享保8年(1723年)5月、春日の局の子孫である稲葉丹後守正知が城主となってから明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。

濠に淀(ハス)が咲いています

与杼(淀)神社

円通寺

徳川氏が伏見城の遺材を移し増築し松平定綱を封じた。明治維新後に破却されました。

豊玉姫命、高皇産霊(たかみむすび)神、速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年〜63年)、僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝える。

文相寺

大専寺

伊勢向神社

墓地入り口に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。

慶応4年(1868年)、正月3日夕方、鳥羽伏見の戦が開戦,次第に戦場を淀方面に移した。5日、敗走した幕府軍は、淀城で官軍を防ごうとしたが、淀城は門を閉ざした為、淀の町に火を放ち八幡方面に敗走。東軍(幕府軍)戦死者埋骨地があります。

天照大神を祀る旧村社。元宇治川の中島にあったが淀川の改修工事で現在地に移転。因みに伊勢は五十瀬(いつせ)の意味で祭神は、水神と言われる。

淀小橋旧跡石碑

たこたこや

淀競馬場・乗馬センター

昔、淀小橋辺りは、宇治川が流れていて淀城に入る橋がありました。鳥羽伏見の戦いで東軍(幕府軍)は、この橋に火をかけて敗走しました。

かき氷くださいな〜!あ〜Pちゃんの煩悩には勝てませぬ?!暑い中でのかき氷はサイコ〜!とは、Pちゃん談?! (^o^;ゞ (爆)

淀競馬城(場)

淀維新の風?京阪新淀駅の建設(競馬場前)

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

大正13年(1924年)、9月に船井郡須知町から移設され翌年の秋に竣工しました。敷地面積は585,000u、スタンドは鉄筋コンクリートの5階建てで規模の大きさは日本最大と言われています。

淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。

千両松を表示する京阪の信号標識

大激戦地となった淀堤(千両松)淀方面

淀堤(千両松)桃山方面

淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だったことから、「千両松」と呼ばれていた。千両松の激戦で敗れた幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。

新撰組の幽霊?!・・・2年1組でっす! (^o^;

淀堤と三栖閘門と桃山城と鉄橋(近鉄)

高瀬川と宇治川の合流

三栖閘門(みすこうもん)

閘門巻き上げ機(動力)のモニュメント

金井戸(三栖)神社

伏見を水害から守るため、大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との4.5メートルほどの水位差を一定にして船を行き来させるようにした。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していた。しかし昭和30年代に入り、陸上運輸の発達で貨物船による輸送が減少していき、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなりました。昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

肥後橋の東南、宇治川派流(濠川)の畔にあり天武・応神両帝、伊弉諾(いざなぎ)命を祀る旧村社で通称、三栖神社とよんでいます。元は、横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改められた。

寺田屋

長建寺

閼伽(あか)水(長建寺)

文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」や坂本龍馬の定宿としても有名です。

紅柄塗りの唐模様山門で知られ、真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。

酒蔵

四辻の四つ当り

伏見奉行所跡石碑(幕府軍陣地)

創業360余年の月桂冠(株)が発祥の地、近くに酒蔵を活用して開いた資料館があり酒造りの道具などを保存展示しています。

伏見別院(伏見幼児園)の門前で東西南北のいずれからも突き当たりになっています。昔の攻防兵学上からの町割りによるものと云われています。伏見別院は、慶応4年(1868年)1月2日、伏見の京橋に上陸した会津藩兵役200名が寄宿し、1月3日の午後4時過ぎ、薩摩藩との談判中に鳥羽方面から砲声が聞こえ伏見の戦いも開戦したと伝える。

慶長5年(1600年)に設置された徳川幕府の出先機関で伏見町の民政、宇治川の船舶の監督、京都御所や西国大名の監視にあたった。幕末の動乱下では、徳川方の根拠地となり慶応3年(1867年)12月に新撰組が移り翌、慶応4年・1月3日、鳥羽伏見の戦いに薩長軍と激戦を交わしたが、薩摩軍の砲撃により奉行所は焼滅した。

御香宮大手門(水戸藩々祖・徳川頼房寄進)

拝殿(紀州藩祖・徳川頼宣公寄進)

鳥羽伏見の戦いの石碑

御香宮は、伏見九郷(旧伏見町)の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。縁起には、諸説がありますが、筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、真説だと言われています。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の本陣して伏見奉行所に陣取る新撰組などと激戦となりました。

Tourist 2003.7.28(M)

 

淀の川瀬の水車(みずぐるま)誰を待つやらくるくると

栄華を誇ったように咲き続ける淀姫〔ハス〕の花

 

維新の風を追ってのんびりと約4時間30分で周れます・・・

維新の風を体験しました・・・淀城跡の濠には、淀姫と言われるハスが、今も栄華を誇ったように咲いています。

朽ちた史跡にある立派な大木などを見ていると人の世の無情を感じます・・・

淀界隈には、寺院を始めあちらこちらに祠や慰霊碑があり鳥羽伏見の戦いの激戦が、偲ばれます。

自転車でも結構大変なのに当時、武装し傷付いての行軍は、相当なものだったと推察します・・・

ここに掲載している名所・旧跡などは、大手筋・淀界隈などで詳細に紹介しています。

 

関連サイト

戊辰戦争 戊辰戦争とは 伏見とゆかりのある人達

伏見とゆかりのある人達

淀界隈 淀界隈 大手筋界隈 大手筋界隈

 

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