Tourist attractions of Fushimi by Pちゃんズ
平安王朝の雅を探訪
平安王朝ロマンを求めて・・・ 伏見界隈は、京都市最大の行政区です。ぶら〜りと伏見界隈を歩くのも良いですが、 広域の為、一気に周るのは、大変です。そこで便利なのがチャリンコ(自転車)での散策です。 今回は、私設秘書?のPちゃん(小2)と親子2人で体力アップ、自転車運転上達と 学習(貴族文化など)を兼ねてチャリンコ2台で王朝文化エリアを疾走してきました。☆⌒(*^∇゜)v 懐かしい駄菓子屋さんや老舗の和菓子屋さんも発見・・・ガソリン補給ならぬ栄養補給ばかり。。。(^^ゞ あ〜人間の煩悩のなせる業・・・記念すべきPちゃんズ第一弾の王朝ロマンの散策を無事に満腹?(爆)満喫しました。 大手筋西部〜竹田、下鳥羽〜横大路、三栖〜大手筋西部チャリンコ散策 自転車での〜んびりと季節や歴史の風を感じながら周らしゃれて約2時間コースでおじゃります・・・ 風呂屋町⇒宝福寺⇒(高瀬川堤防散策)⇒近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)⇒安楽寿院⇒鳥羽天皇陵⇒ 北向き不動院⇒白河天皇陵⇒城南宮⇒名物・おせき餅⇒小枝橋(鳥羽伏見の戦碑)⇒鳥羽離宮跡(秋の山)⇒ 恋塚寺⇒今出川菊亭右大臣鳥羽宮跡(常高寺)⇒酒蔵(月の桂)⇒鴨川堤防散策⇒田中神社お旅所⇒ 法伝寺⇒一念寺⇒魚市場址石碑⇒田中神社⇒三栖神社(下三栖)⇒一切神社(上三栖〕)⇒大手筋 |
風呂屋町を出発!☆⌒(*^∇゜)v |
宝福寺 |
宝福寺境内 |
宝福寺は久祥山と号する曹洞宗永平寺派の寺で慶長4年(1599年)、薩摩国宝福寺の住職・日考芳旭(ほうきょく)和尚が、中興となって宝福寺と改めた。秀吉と淀殿ゆかりの子授け陰陽石(跨げ石)や道元禅師慕古の旅発願の寺として顕彰碑が建っています。座禅堂では座禅が無料体験できます。 |
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高瀬川堤防(疎水放水路合流地点) |
高瀬川堤防(七瀬川合流地点) |
近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) |
近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)・・・近衛天皇は、3歳で即位し在位14年。久寿2年(1155年)、近衛殿にて17歳で崩御。長寛元年(1163年)、この地に埋葬されました。天皇陵に多宝塔が 建つのは珍しいです。御陵建物は応仁の乱などの戦火で数度焼失しました。慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が、再建しました。 |
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安楽寿院 |
安楽寿院・書院(明治天皇御休憩所) |
鳥羽離宮殿イメージ図碑 |
鳥羽離宮殿は往時を偲ぶ形跡もない鳥羽離宮跡の中で、辛うじて 往時をしのべるのが安楽寿院。鳥羽上皇が 東殿の境内に建立した御堂です。元は鳥羽離宮の東殿だった訳ですが、平安時代後期、保延3年(1137年)に覚行法親王が寺に改めた事に始まります。 |
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安楽寿院・鐘楼 |
安楽寿院・本堂 |
三尊石仏(左・薬師三尊石像、釈迦三尊石像) |
本尊は鳥羽上皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来座像(重要文化財)で、本堂、諸塔などは後世の再建ですが、この本尊だけは台座の修理銘により平安時代後期、造営当時の本尊だと云われます。鳥羽伏見の戦い では官軍の本営となりました。 |
釈迦三尊石像と薬師三尊石像は質素な |
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鳥羽天皇陵 |
北向き不動院 |
北向き不動院境内 |
籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇。 |
鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝える。 |
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本堂 |
白河天皇陵 |
城南宮 |
応仁の乱で焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作・不動明王坐像が、安置されている。 |
鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬した。 |
神功皇后が、朝鮮半島出兵時の勝利の御旗を奉斎したのが、この神社の由来。 |
真幡寸〔まはたぎ〕神社 |
芹川神社 |
城南宮 |
城南宮は桓武天皇が、平安遷都にさいし王城の南の守護神とし、さらに後、この地に鳥羽離宮が造営されると離宮に組み込まれました。応仁の乱(1467〜1477年)で離宮は荒廃し城南宮のみが現在に至る。方除(ほうよけ)の神として信仰されている。 |
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名物・おせき餅 |
小枝橋(鳥羽・伏見の戦い碑など) |
鳥羽離宮公園(鳥羽伏見の戦い碑) |
小枝橋(鳥羽・伏見の戦い碑など)は、慶応4年(1868年)1月3日夕刻、東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたが切られました。 |
鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇が造営した離宮です。広大な敷地に鳥羽殿と云われた南殿、 北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造られた と云います。その光景は広大な池を有する 庭園、舟が行き交う遊園の地、浄土の地とも云われました。 |
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秋の山(鳥羽離宮庭園の築山跡) |
恋塚寺 |
恋塚石碑 |
鳥羽伏見戦跡碑(秋の山)は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年〔1912年〕2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。 |
遠藤武者盛遠(文覚上人)が、上西門院(後白河法皇の姉)に北面の武士(上皇の院御所を守衛する武士〕)として仕えた。同僚の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫・渡辺左衛門尉源渡を殺そうと侵入したが、身代わりとなった袈裟御前を切ってしまった。袈裟御前の首を、付近の池で洗った時、池の水が、まっ赤になったので「赤池」と呼ばれるようになった・・・僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのがこの寺の興りと伝えます。 |
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火の見櫓 |
今出川菊亭右大臣鳥羽宮跡(常高寺) |
酒蔵(月の桂) |
最近は、滅多に見れない火の見櫓ですが木製でなく鉄製なのが惜しい気がします。 |
菊亭晴季は,家名を今出川といい、琵琶を家職とし豊臣秀吉と親密で、秀吉の為に朝廷内の周旋に努めました。文禄4年(1595年)、女婿にあたる秀次(1568〜95年)追放に連坐して越後に流罪となるが、翌年赦免され,慶長3年(1598年)、右大臣に還任された。晴季夫人は、当地に隠居所を持ち、それがのちに寺となり日蓮宗・常高寺と称した。 |
延宝3年(1675年)から創業300年、酒ひとすじ に打ち込む者のひたすらな矜持(きょうじ)として、日本酒本来の伝統的な酒づくりに拘っているそうです。 |
酒蔵(月の桂)と愛宕山常夜灯 |
酒蔵裏の鴨川堤防より愛宕山方面 |
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この常夜灯は、愛宕山詣でへ行く為の道標として、古くからこの場所にある。現在も月の桂さんの方によって毎晩、蝋燭が点けられている現役の常夜灯です。 |
月の桂の酒蔵の裏手、嵐山へ繋がるサイクリングロードから愛宕山が見えます。 |
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久我〜西山方面 |
羽束師〜男山方面 |
田中神社お旅所 |
慶応4年(1868年)1月3日、小枝橋辺りから戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたが切られました。この付近は東西両軍の激戦地となり、「堤上、死骸粉粉、路を塞ぎ、行くべからざるなり」と当時の記録があります。 |
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法伝寺 |
鳥羽伏見の戦い慰霊碑 |
鳥羽伏見の戦い慰霊碑 |
薬師堂にある薬師如来坐像・阿弥陀如来立像・四天王立像は何れも平安中期のもので、鳥羽離宮の鳥羽殿にあったものと伝わる。山門の北側に鳥羽伏見の戦(慶応4年1月3日)の東軍戦死者の慰霊塔がある。法伝寺は、行基の開基と云われるが、元真言宗の寺で延文5年〔1360年〕、知恩院61世の円智上人が、法伝寺に移ってから浄土宗に改宗されたと伝えます。 |
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一念寺 |
魚市場遺跡碑 |
平七屋老舗 |
本尊・丈六阿弥陀如来は、古くから「鳥羽の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれ親しまれてきました。東大寺の念仏堂より移されたものと伝えられています。 |
魚市場遺跡碑は京都より西国へ向かう人達の港で「草津の湊」と呼ばれていた。魚市場跡碑は、大正8年(1919年)4月に大橋家が、的場正三郎の撰文により建てたものです。 |
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田中神社 |
三栖神社(下三栖) |
一切神社(上三栖) |
下鳥羽、横大路の産土神として、冶暦年間(1065年)、八坂神社より、牛頭天王を勧請し、当初は、上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591年)、この地に移転したと伝えます。 |
横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。 |
上三栖の産土神で大国主命を祭神としています。俗に人切宮〔ひときりのみや〕と云われるのは、一切をヒトキリと読み誤った事からで、これに因んで昔は社前を通る者に危害を加えられるとの伝説が生じました。 |
高瀬川と酒蔵 |
濠川と酒蔵 |
大手筋へ無事帰還! |
松本酒造の酒蔵と高瀬川堤。この界隈は、春には菜の花が咲き乱れる名所です。 |
濠川は、元、伏見城の外堀として作られました。現在は疎水から濠川が繋がり伏見港に流れ込んでいます。 |
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Tourist 2003.7.21(M) |
約1200年の歴史時間を約2時間で周りました。☆⌒(*^∇゜)v チャリンコで平安王朝ロマンを探訪しました・・・自転車だからこその機動力は、伏見の町にピッタリ! 自分時間、気分など思いのまま・・・今迄知らなかったり、気付かなかった歴史の雅なロマンに出会えます。 ここに掲載している名所・旧跡などは、下鳥羽界隈などで詳細に紹介しています。 |