淀界隈

 

淀城跡公園

 

淀界隈

淀城(元、二条城天守閣:與杼(よど)神社文書より)

三川合流付近(左から桂川、宇治川、木津川)

享保8年(1723年)5月、春日の局の子孫である稲葉丹後守正知が城主となってから明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。文禄4年(1595年)、秀吉は淀城を廃して築城中の伏見城へ建物を移し元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。

左から桂川、宇治川、木津川の3川が順次合流し淀川(澱川)となる。淀城の城下町、港町として栄えてきた町が淀(桂川と宇治川の間の界隈)です。

三十石船&くらわんか舟

三十石船&淀川瀬水車(淀城)

慶長8年(1603年)、徳川家康は過書船に対し朱印状を与え営業許可を再確認し、運上料と運賃を規定しました。「過書」とは関所を通過する免状で、これを備えた船を過書船と言います。過書船は、三十石船とも呼ばれ近世を通じて独占的に物資と旅人の輸送にあたりました。便数は朝晩二便で、伏見〜大阪を上下しました。下りは半日で大阪の八軒家に到着、流れに逆行する上りは一日かかって京都・豊後橋に到着しました。乗船場は伏見が京橋、蓬莱橋、阿波橋、平戸橋の4カ所でした。大阪が八軒家、道頓堀、東横堀、淀屋橋の4カ所でした。

JRA京都競馬場

京都競馬場(JRA:日本中央競馬協会)は、淀競馬場あるいは、淀とも呼ばれます。淀と言えば競馬場を連想してしまうほど全国的に有名なお馬さんのレース場です。σ(^◇^;) どもども

淀城跡石垣

淀川(左から桂川と宇治川の合流地)

唐人雁木旧跡碑

雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から幕府へ派遣した

朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。道路舗装にあたって撤去されました。

淀〜巨椋池の今昔(大正初期〜現在)

干拓前の巨椋池(大正初期頃)

淀の町〜巨椋池(写真上部)

淀の町〜3川合流界隈(現在)

 夢幻コラムY【巨椋池:おぐらいけ】 夢幻コラムY【巨椋池:おぐらいけ】

京阪・淀駅前

京阪・淀駅界隈

協同組合淀丸の内センター

淀本町商店街

淀は第2外環状線などの道路整備、京阪電車・淀駅高架化、淀城跡公園再整備など大きく変動する地域です。

 

淀界隈の歴史跡

宇治、木津、桂川の三川に臨む水郷地帯でしたが現在、昔の面影は見られません。元は、久世郡に属していましたが昭和32年(1957年)4月に京都市に編入され伏見区淀町となっています。古くは与杼、与度、与渡と記され平安末期頃に淀と記されたと云われています。水が、よどんで流が停滞している様から淀の文字を当てはめたとも云われています。宇治、山崎、京都に入る陸路交通の要所でもあり早くから関門が設けられ「淀の津」と云われ、ここで徴収した貨物などを納め置く倉庫のある所が「納所:のうそ」となった。元和9年(1623年)、徳川氏が始めてここに淀城を築城し今日の城下町となりました。江戸時代には、淀30石船の主要港として昔に勝る繁栄を見せたが明治初期頃の鉄道開通により衰退しました。近年、都市近郊の住宅地になっています。

京阪淀駅

与杼(淀)神社

淀城跡公園内の稲葉神社と稲荷社

天正16年(1588年)豊臣秀吉が、淀城を修築しその妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれた為に淀は、一躍有名になったとか・・・往事の城の規模は、定かではないが邸宅的城郭と推察されている。後に徳川氏が、伏見城の遺材を移し増築し松平定綱を封じた。明治維新後に破却されました。城内北にある与杼(淀)神社が掲げている江戸時代の「淀城図」には、二重三重に濠がめぐらされていた様子が描かれています。城の西と北の二ヶ所に城内用水に使われていた水車がありました。又、城内には稲葉神社があります。

淀の千両松、淀堤界隈は「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)」の激戦地

天守台石垣 淀城跡碑

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑)

淀小橋旧跡

昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だったことから「千両松」と呼ばれていた。千両松の激戦で敗れた幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。

妙教寺(史跡淀古城跡、「戊辰役東軍戦死者之碑」〔榎本武揚書・妙教寺〕

東軍戦死者埋骨地(光明寺跡)

淀川瀬水車跡碑

大専寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地)

文相寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地)

長円寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地の碑)

長円寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地)・・当寺には埋骨地が二ヶ所ある。

東運(戊辰役東軍戦死者埋骨地)

東運寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地)

淀美豆町(旧木津川河川左岸堤防)にある船に荷の上げ下ろしに使った浜納屋と石段

慶応4年(1868年)1月5日、土方歳三率いる新選組ら東軍(幕府軍)と鳥羽方面から攻めてくる西軍(薩長軍)で淀堤上は大激戦となった。最初は、新撰組などの活躍で優勢だったが、砲兵隊や騎兵隊などの援軍で西軍が、盛り返し東軍は、敗退。同盟であった淀城への入城も拒まれた為に淀堤の戦いで東軍は、多大な戦死者が続出。新選組幹部・井上源三郎、戦死。副長助勤・山崎烝も重傷を負った。(慶応4年(1868年)1月10日、幕府軍々艦・富士山丸で江戸へ向かう途中、死去。和歌山沖で水葬。)・・・千両松には、激戦で戦死した新選組の隊士と幕臣の慰霊碑が、建てられていました。が、競馬場拡張工事のため小さな碑が削られました。それから事故が、多発し毎晩、誠の旗を持った新選組隊士の幽霊が「元に戻せ!」と現れる・・・工事関係者は、慰霊碑の管理寺・妙教寺に依頼し盛大に供養を行った。そして工事終了後、元の場所に碑を戻し、墓を整備した。以来、幽霊は出没しなくなった・・・淀では、有名な?幽霊話とか・・・当時、西軍の戦死者は、手厚く埋葬されたが、東軍の戦死者は、野ざらし状態だったとか。地元のお寺や村人達が、鳥羽伏見の戦いで廃墟と化した住居の廃材などで東軍の戦死者達を火葬し手厚く埋葬したそうです。下鳥羽・淀界隈の寺院などに慰霊碑・塚・墓・記録文書などが、多数ある由縁です。新選組隊士達始め旧幕府の威信〔東軍〕と倒幕し国家維新〔西軍〕の為に戦った戦死者達のご冥福を心よりお祈り致します。

淀といえば・・・競馬場?!

平安時代より交通路として発達していた淀川沿岸の船着場は、非常に繁栄しました。

特に淀は、諸国より到来した商品の陸揚場として交通や商業の中心地となりました。

当時活躍した大山崎の油商人たちも船運を利用し、いわゆる過書船として淀川を往来しました。

鳥羽伏見の戦いにおいても淀堤の戦いの激戦地となり淀界隈の寺などに慰霊碑、埋骨地や墓地が多数あります。

特に千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」は、新撰組隊士ゆかりの慰霊碑です。

近年は、競馬場のある町として全国的に有名になり田畑は宅地に雑木林などは工場地に変貌しています。

 

関連サイト

幕末回廊 幕末回廊

淀の三川昔風景を歩く

宇治川、桂川、木津川の旧河川道を淀に訪ね歩く

 

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