大手筋界隈

坂本龍馬ゆかりの寺田屋

 

大手筋界隈

伏見大手筋界隈は、豊臣秀吉の伏見城築城に伴い約400年以上の歴史をもつ城下町として発展しました。

伏水の由来通り、豊富な桃山丘陵の伏流水や河川の地理的条件が良く酒造り・水運などが、発展しました。

伏見大手筋界隈は、桃山文化で繁栄し鳥羽伏見の戦いで壊滅的な打撃を受け、近代文化に転じました。

日本初の銀座、路面電車、ソーラードーム(大手筋商店街アーケード)や日本唯一の内陸港(伏見港)など・・・

21世紀の現代は、商店街・地元企業・観光協会などが、協賛し伏見夢工房を設立し伏見の活性に努力しています。

商業、観光などの伏見情報を全国、世界に発信しています。今後の大手筋界隈の発展にご期待下さい・・・。

 

伏見港の今昔(昭和初期頃〜現在)

宇治川派流と酒蔵(大正期〜昭和初期頃@蓬莱橋東側) 干拓前の伏見港(年代不詳)

現在の伏見港と十石舟

宇治川から見た往時の三栖閘門(左・東高瀬川)

往時の三栖閘門

伏見を水害から守る為、大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

伏見港、宇治川派流(濠川)を航行する外輪の蒸気船(明治後半〜大正期頃)

淀川を航行する外輪の蒸気船(昭和初期頃)

京阪・中書島駅(昭和30年頃)

明治3年(1870年)、淀川〜宇治川航路に外輪の蒸気船が就航し、汽船運航時代を迎えました。明治9年(1876年)、大阪〜京都間が鉄道で結ばれ貨客が大幅に減少しましたが、明治の中頃まで、大阪湾〜京都の伏見港を往来する船運は、主要な輸送手段でした。

明治〜大正時代の伏見大手筋界隈

大手筋通り(京阪・桃山停留所)

京橋界隈(寺田屋浜)

工兵第16大隊(伏見奉行所跡)

大手筋界隈

日本で最初の銀座・・・電気鉄道(チンチン電車)・・・大手筋商店街ソーラードーム

銀座発祥地の石碑

電気鉄道発祥地の石碑〔竹田街道、油掛通交差点〕

明治28年(1895年)頃の伏見線勧進橋辺り

慶長6年(1601年)、徳川家康は、日本初の銀座を伏見に作り、堺より職人を集めて通用銀を作らせました。

日本初の電気鉄道(チンチン電車)は、明治28年〔1895年〕に伏見(油掛通)〜京都七条間が開通しました。

鳥羽伏見の戦い石碑

伏見の戦跡石碑〔御香宮神社〕

伏見の戦跡碑(御香宮神社)

伏見奉行所跡

慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦い時、薩摩藩は、御香宮神社に陣取り、ここら辺りから目鼻の距離で新撰組ら旧幕府軍が、陣取る伏見奉行所に向けてアームストロング砲で砲撃しました。旧幕府軍は、淀方面に退却する事に・・・

故・内閣総理大臣・佐藤栄作氏の書である。近代国家に維新できるかが、この一戦にあったのである。鳥羽伏見の戦は、日本史上、世界史上、重大な意義を持つ伏見を舞台にした戦いであった・・・という内容が書かれています。

鳥羽・伏見の戦いで新撰組始め旧幕府軍は、伏見奉行所に陣取り戦いました。御香宮神社に陣取っていた薩長軍の砲撃を受け炎上してしまい淀方面に退却せざるえなかった・・・

大手筋界隈の社寺

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

貞観4年(862年)9月、境内に清泉が、湧き出し四方に水が香り病者はこの水を服用すればたちどころに病気が、完治すると云われた。清泉を神格化した神社の1つです。祭神は、神功皇后および仲哀・応神両天皇とされています。旧伏見町の産土神で古来から信仰されている洛南屈指の大社です。

西方寺

旧久米村の金札宮境内にあったが、元亨2年(1322年)、金松弥三郎(北条継貞従族)が、覚如上人に帰依して出家剃髪し久米寺を再興して存覚上人に寄進した事から真宗となり光明山西方寺と改められた。因んで金松御坊と言います。文禄年中伏見築城にあたり、久米町に移り慶長初年に現在の風呂屋町に移りました。寺宝に後伏見・光厳・後崇光・後陽成各天皇の宸翰(しんかん)とってえる古文書を有する。王塚は本堂仏壇下にあると伝えられ(陵墓一隅抄)によれば後崇高太上天皇を埋葬した所と云われ、西方寺移築の際、塚を埋めたと伝えるも定かではない。

西方寺

大光寺

文応元年(1260年)寛海上人が、建立した浄土宗知恩院派(元、黒谷派)の寺院で桃山町本多上野(旧堀内村江戸町)にあったのを寛政年中に現在の伯耆(ほうき)町に移したと伝える。境内の薬師堂に安置する薬師如来は、元、奈良三笠山の薬師寺より移した「手接の薬師」という尊像で耳の病気や安産祈願の信仰がある。日限地蔵や庚申堂、四面石仏(室町期)があります。

大光寺

本教寺

近衛関白家の寄進と伝え堀川御殿を移築された入母屋造、千鳥破風のついた豪壮な建築意匠の本堂と十二支妙見めぐりの一・妙見宮(右)

文禄3年(1594年)、日親の法孫日受上人が、創建した福昌山と号する日蓮宗本法寺派の寺で徳川家康の息女良正院(高姫)の帰依を受け、慶長19年(1614年)旧地の西浜町より移ったと伝える。本堂は、享保年中(1716〜35年)、近衛関白家の寄進によるものと伝える入母屋造、千鳥破風のついた豪壮な建物で庭内には、豊公遺愛と伝える見事な牡丹5,6株があり200余輪の紅白の花を咲かせています。境内には、痔疾祈願の信仰がある秋山自雲(しゅうざんじうん)霊神が、祀られています。ちなみに洛陽十二支妙見めぐりの12ヶ寺は子(北)西陣の妙見宮(善行院)丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

源空寺

宝海山と号する浄土宗本派の寺で円光大師〔法然上人源空〕の旧跡25ヶ所の一つとされ、本堂には円光上人像を安置しています。木幡の里にあったのを慶長年中に現在の瀬戸物町に移転されたと伝え、徳川家光は、伏見城巽(たつみ)の櫓にあった大黒天像を当寺に寄進した事から元の町名を新大黒町と言いました。

源空寺

宝福寺・陰陽石

門内左手にある二個の石で子のない婦人が、この石をまたぐと懐妊すると云われる一種の跨(また)げ石です。

宝福寺

金毘羅堂(宝福寺)

久祥山と号する曹洞宗永平寺派の寺で元伏見九郷の一、森村〔御香宮の南〕にあり瑞光院といったが応仁の乱後、現在の革屋町に移転。慶長4年(明治元年:1599年)、薩摩国宝福寺の住職・日考芳旭(ほうきょく)和尚が、中興となって宝福寺と改めた。本堂には、聖観音像(鎌倉期)は元、三栖にあった竜谷寺の旧仏と伝えます。

本堂の前にあり本尊金毘羅像は、伏見城の学問所にあったもので軒下にかかげる木彫の天狗面は、古来触ると祟りがあると言われ風化破損したまま放置されています。

麦干し(むぎぼし)の弥陀(光照寺)

浄土宗摂取山光照寺の本尊阿弥陀如来をいう。寺伝によればある時、百姓達が田畑に麦を干したまま帰宅中、にわか雨となり慌てて田畑に戻ってみれば麦は、取り入れてあった。不思議に思いつつ後刻当時の本尊を拝したところ衣の袖一面に麦が、付着していたので本尊が身代わりとなり給うた事が判明しました。それ以後麦干しの弥陀と云われ世の尊信を集めるに至った。現在の本尊は、鳥羽伏見の兵燹後のものと伝えます。

長建寺

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は、「伏見の弁天祭」と言われています。

伏見の弁天さんで知られる長建寺

松林院陵(舟戸御所(下御所)跡) 松林院

中世、この辺り一帯に御宇多上皇が創建した舟戸御所がありました。宇治川に臨んで船着場があった事から舟戸御所、舟津御所とも言いました。桃陵指月の森にあった伏見殿を上御所と呼ぶのに対して舟戸御所を下御所とも言いました。吉野時代の延文元年(1356年)8月、宇治川の氾濫によって舟戸御所は水没しました。祀られているのは御崇光太上天皇で伏見宮貞成親王です。伏見を大変に気に入られていたので康生2年(1465年)、当地に葬られ陵墓となりました。

寺伝によれば当時、後崇光太上天皇にかしづいていた一女官が、尼となりお墓をお守りしていた所で後に上鳥羽〔南区〕にあった松林院を移転し仏堂としたと伝える。本堂には、後崇光帝の念持仏と伝える阿弥陀如来像を安置し傍らに同帝の尊牒を泰安しています。

金札宮(きんさつぐう) 一切神社(上三栖)

天平勝宝2年(750年)の創立、清和天皇の御代橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の一つで祭神は、天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと云われています。

上三栖の産土神で大国主命を祭神としています。俗に人切宮(ひときりのみや)と云われるのは、一切をヒトキリと読み誤った事からで、これに因んで昔は社前を通る者に危害を加えられるとの伝説が生じていた。

三栖神社(みすじんじゃ)(下三栖)

金井戸神社(三栖神社)

横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。毎年10月に行われる祭礼では、世に炬火(たいまつ)祭りといい、直径1m以上もある大炬火1対を作り担ぎ回る慣わしが、あります。これは、天武天皇が、大津行幸にあたり当地を通過された時に村人が、松明を灯して暗夜を照らしたという伝説によります。

肥後橋の東南、宇治川派流(濠川)の畔にあり天武・応神両帝、伊弉諾〔いざなぎ〕命を祀る旧村社で通称、三栖神社とよんでいます。元は、横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改められた。昔は、当社付近は、過書船の溜まり場であったから船具を扱う業者が、多く近くの東浜南町を船大工町と云った。

坂本龍馬ゆかりの寺田屋 四つ辻の四つ当り 伏見奉行所跡

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く志士達にも援助を惜しまなかったと伝えます。

伏見別院(伏見幼児園)の門前で東西南北のいずれからも突き当たりになっています。昔の攻防兵学上からの町割りによるものと云われています。伏見別院(伏見幼児園)は、慶応4年(1868年)1月2日、伏見の京橋から上陸した会津藩先発隊約200名が寄宿しました。午後4時頃、薩摩藩と談判中に鳥羽方面からの砲声が響き伏見の戦いも開戦したと聞きます。

慶長5年(1600年)に設置された徳川幕府の出先機関で伏見町の民政・宇治川の船舶の監督・京都御所や西国大名の監視にあたった。幕末の動乱下では、徳川方の根拠地となり慶応3年(1867年〕)・12月に新撰組が、移り翌明治元年・1月の鳥羽伏見の戦いに薩長軍と激戦を交わしたが、薩摩軍の砲撃により奉行所は焼滅しました。明治になって址地に16師団工兵16大隊の兵舎が、建ち太平洋戦争後は、アメリカ軍の兵舎となったが、現在は、桃陵団地になっています。

洛南最大級のショッピングエリア・・・大手筋界隈の四商店街

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