山の華道(はなのみち)

 

Pちゃんズの上醍醐散策その2

 

あらためて なをかえて見む 深雪山 うずもる花も あらわれりけり  太閤秀吉

花もまた 君のためにと さきいでて 世にならひなき 春にあうらし  淀殿

 

上醍醐(准胝(じゅんてい)観音堂、薬師堂、五大堂如意輪堂開山堂、上醍醐陵)〜下醍醐〜太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡〜長建寺

 

五重塔(国宝:鎌倉期)

五重塔は、醍醐天皇の冥福を祈る為に朱雀天皇が起工し村上天皇の御代、天歴5年(951年)に完成しました。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものと伝えます。

 

横尾大明神

子育て地蔵尊

石塔

准胝(じゅんてい)観音堂

西国第十一番札所で本尊の秘仏とされる准胝観音像が安置されている。この准胝観音像は聖宝理源大師が醍醐水の傍に立っている柏の木で2体の観音像を刻み准胝堂と如意輪堂に安置したと伝えられ、求児や安産の霊尊としての信仰が篤く、醍醐天皇は皇后・隠子(おんし)に皇子がなく祈願した所たちまちに後の朱雀、村上天皇が生まれたと伝えます。

准胝(じゅんてい)観音

准胝(じゅんてい)観音

経蔵跡

薬師堂の下段に鎌倉建築の経蔵がありましたが昭和14年(1939年)の山火事で准胝(じゅんてい)観音堂と共に焼失しました。その後、再建されずに礎石跡などが残っているだけです。

町石卒塔婆

経蔵跡

薬師堂(国宝:藤原期)

延喜7年(907年)の建立し保安2年(1121年)に再建され国宝に指定されてます本尊の「薬師如来坐像」及び「両脇侍像」が祀られていたが、2000年秋に、保管などの理由から下醍醐寺の霊宝館に移されました「薬師如来坐像」、「両脇侍像」は理源大師が延喜7年(907年)に弟子に造らせたと伝わり国宝に指定されています。

薬師堂(国宝:藤原期)

理源大師像

山桜

Pちゃん、オヤジの様なお姿???でちょっと失礼 ( ̄▽ ̄;)!!・・・国宝でのランチタイム(薬師堂)

町石卒塔婆と地蔵尊

五大堂、如意輪堂、開山堂へ o(>w<)〇゛ Pちゃん、もうひとガンバリでつ!!! 。。。(^O^; 暑うぅ〜

町石卒塔婆

五大堂

延喜7年(907年)、醍醐天皇の勅願により朝敵降伏祈願の為に建立され「平の将門の乱」に際し調伏修法を行った時に不動明王の瞼頭に血が現れたと伝わります。後、何回かの火災に遭いその度に再建を繰り返したといわれ、現在の建物は昭和7年(1932年)に焼失し昭和13年(1938年)に再建されたものです。五大堂前には醍醐寺1世主観賢僧正像、醍醐寺開山理源大師像、役の行者神変大菩薩像があります。堂内には木造の五大明王像(不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が祀られ重要文化財に指定されています。

鐘楼堂

五大堂

主観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像

五大明王像(重要文化財:不動明王、後三世夜叉明王、軍茶里夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)

参道、山頂からの絶景(向島、宇治、山城方面) o(>w<)〇゛ ヾ(≧▽≦)ノやっほ〜。。。 しか〜し・・・霞んでますがな!!! ( ̄□||||!!

如意輪堂(重要文化財:桃山期)

慶長11年(1606年)に建てられた舞台造りの建築物で五間三間、単層、屋根は入母屋造、こけら葺きで懸崖造りとなっており、堂内には如意輪観音像が安置されています。

如意輪堂(重要文化財:桃山期)

開山堂(重要文化財:桃山期)

醍醐寺の開山、聖宝・理源大師を奉安したお堂である。最初は御影堂(みえどう)といい、延喜11年(911年)、理源大師の弟子、醍醐寺第一世、観賢座主によって建立されたが、後に焼失し鎌倉時代に再建されたものの荒廃し失われ現在のお堂は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼によって再建されたものである。建物は雄大な桃山時代の特徴をよく表わしており、山上最大のお堂で堂内には、中央に開山聖宝理源大師像、左に弘法大師像、右に醍醐寺第一世座主・観賢僧正像が安置されています。

開山堂(重要文化財:桃山期)

白山大権現

町石卒塔婆と諸蔵

醍醐山三角点(頂上:450m)

上醍醐陵

白河天皇皇女媞子(ていし)、令子内親王と生母・藤原賢子(白河帝中宮)を葬送した場所で元々上醍醐の子院・円光院があったが明治の修陵にあたり寺は撤去され御陵は南面する小円墳です。

奥の院道口(岩間、石山へ)

上醍醐陵

如意輪堂(重要文化財:桃山期)

五色散り椿

柏木大明神

准胝(じゅんてい)観音

清瀧宮本殿

下山開始・・・

開山石碑

町石卒都婆

 霊木・桐生の杉

花見山(太閤秀吉の醍醐の花見)

上醍醐に至る途中にあり檜山とも言い頂上の平坦地を千畳敷と呼び慶長3年(1598年)3月、豊臣秀吉が花見の宴を行った所で桜木は花見宴の為に秀吉が近隣諸国の近江、山城、河内、大和から取り寄せた桜約700本を植え林間に亭を設け数奇屋を建て一代の栄華を誇ったと伝わり当日用いた百雙(ひゃくそう)屏風などが醍醐寺に残されており当時の花見宴の豪華さが偲ばれます。

 不動の滝

太閤秀吉が「醍醐の花見」を催した「花見山」(檜山々頂:千畳敷)

 上醍醐登り口

水掛不動尊で無事、下山のお礼と閼伽水で汗を拭います。(*´ο`*)=3ホッ

水掛不動尊(手水場)

参道(上醍醐登り口)

伽藍参道(仁王門〜金堂)

枝垂れ桜

清滝宮拝殿

清滝宮本殿(重要文化財:室町期)

五重塔(国宝:藤原期)

五重塔は、醍醐天皇のご冥福を祈る為に朱雀天皇が起工し村上天皇の御代、天歴5年(951年)に完成しました。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものと伝えます。

五重塔(国宝:藤原期)

枝垂れ桜

金堂(国宝:鎌倉期)

金堂(国宝)は豊臣秀吉の命により紀州(和歌山県)の湯浅から移築され主要部は平安末期の様式を完全に残しています。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されている。「五大力さん」として親しまれているこの法要は、千百余年のの歴史があり、醍醐寺開山以来継承され、毎年の2月23日には、「五大力尊仁王会」があり、「五大力さん」の分身御影は、醍醐寺一山の僧侶によって7日間、21座にわたり、上醍醐の五大堂においてご祈願されたものです。ご祈願された御影・御守は、あらゆる災難を除いてくれる利益があると伝わり、毎年2月23日のみ授与されます。名物の餅上げの法要は、男子150Kg、女子90Kgの大鏡餅に挑戦します。将来、Pちゃんも・・・( ノ ̄∇ ̄)ノ

金堂(国宝:鎌倉期)

枝垂れ桜

参道(仁王門〜西総門)

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡

太田垣蓮月は、本名を誠といい、夫・子供・養父に先立たれ、33歳で出家し蓮月尼と称した。孤独を求めて岡崎、西賀茂等転々と住まいを移りましたが、ここもその一つで歌を詠み陶器を焼いて静かに余生を送ったと伝わります。

南門

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡

十石舟

長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ、真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。

山門

閼伽水井

かえる石

本堂

糸桜

糸桜

よくがんばりました!!!(^-^)v

寺田屋

Tourist  2004.3.29(M)

 

今回は、久々のPちゃんズでのチャリ&登山です・・・醍醐山は中々登り甲斐のある山でした。(@_@;)

Pちゃん曰く「稲荷山より、ず〜ときつくてしんどい山やなぁ〜この山、何山?」と名言?本音?(^^ゞ など言いつつも最後迄頑張りました。(*´ο`*)=3ホッ

多分、醍醐山という山を身を持って覚えた事と踏破した満足感を得たと思います。無事に終われて何より、何よりでした。☆⌒(*^∇゜)v

 

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