華の道(はなのみち)

 

里の華道(はなみち)・伽藍散策

 

花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに  小野小町

 

金札宮〜大黒寺〜源空寺〜御香宮〜龍雲寺〜乃木神社〜大善寺(六地蔵)〜隋心院〜醍醐寺〜長尾天満宮〜一言寺〜月橋禅院

 

あゝ醍醐味なるかな・・・

聖宝・理源大師坐像

聖宝・理源大師が紫雲に導かれて笠取山(俗に醍醐山)に登り、「醍醐味なるかな」の法水に出会ったと伝わる・・・今も「醍醐水閼伽井」に湧く「醍醐水」の醍醐味とは乳酪蘇中の微妙なるチーズ風味とも云われます。仏教では教えが深まった状態にも例えられ長い時をかけて心澄し到達する悟りの究極点が醍醐味と言われる。延喜年間、聖宝に帰依した醍醐天皇によって山麓に釈迦堂、山上に薬師堂・五大堂が建立され、醍醐・朱雀・村上天皇も深く信仰をよせ、京都における現存最古の五重塔建立で隆盛に向い、その後も諸天皇も帰依し、大伽藍の完成しました。文明2年年(1470年)、応仁の乱により殆どの伽藍を焼失しましたが、豊臣秀吉・秀頼が醍醐の花見を機に再興しました。

醍醐寺の全景(イメージ図)

醍醐山全体、広大な境内を有する真言宗醍醐寺派の本山です。創建は、貞観年間(859〜877年)、理源大師が世俗を離れ真の仏を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立した事に始まり醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山麓の下醍醐に分かれています。五重塔は、天暦5年(951年)に完成した京都府内で最古の建造物です。五重塔以外の建物は、応仁の乱により殆どが焼失し、豊臣、徳川両家によって、現在の伽藍に整備されました。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が豪華な花見の宴を開催しました。上醍醐、下醍醐合わせて8万坪の境内には、約2000本の桜があり、毎年4月の第2日曜日に太開花見行列が行われます。

御香宮・おそらく椿

利休の影響からか豊臣秀吉も茶花に椿を好んで用い諸大名も競って椿の名木を屋敷内に植えました。徳川の時代に移り新任の伏見町奉行・小堀遠州が参集館脇にある五色の散り椿の花盛りを見て感激し「おそらくこれ程に見事な椿は他にあるまい。」と賞賛したのが所縁となり「おそらく椿」と称されるようになったと伝わる。見頃は3月下旬〜4月上旬頃です。

 

金札宮 地図

縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐとたちまちそこから清水が湧き出た。」と伝わります。この翁が天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)で天平勝宝2年〔750年〕に創立し清和天皇の御代、橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命です。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝えます。

鳥居

天然記念物・クロガネモチ

狛犬と拝殿

大黒寺 地図

本尊は五穀豊穣、出世開運を授ける大黒天を祀り、江戸時代は薩摩藩の祈祷所、本尊は五穀豊穣の神、大黒天。寺田屋事件の薩摩九烈士、家老平田靭負の墓があります。金運清水は、平成13年(2001年)に新しく掘られた井戸で大黒天に供えら金運良好、資産増加、子孫繁栄など大変ありがたいご利益があります。

金運清水

薩摩九烈士の墓所と墓碑(右手前端)

本堂

文久2年(1862年)4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組(薩摩藩急進派)21名、真木和泉守ら10名、田中河内介ら5名の36名が集結。島津久光の君命を受けた薩摩鎮撫使9名が藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず斬り合いとなりました。鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切 腹)を出し、この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、 遺骸を丁寧に白木綿で包み大黒寺に埋葬した。更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています。

源空寺 地図

豊臣秀吉が御持念の大福受け(出世開運)を授ける朝日大黒天を祀り、宝海山と号する浄土宗本派の寺で円光大師〔法然上人源空〕の旧跡25ヶ所の1つとされ、本堂には、円光上人像を安置しています。木幡の里にあったのを慶長年中に現在の瀬戸物町に移転されたと伝え、徳川家光は、伏見城巽〔たつみ〕の櫓にあった大黒天像を当寺に寄進した事から元の町名を新大黒町と言いました。

二重山門(伏見城遺構)

即一六躰地蔵尊

朝日大黒天

本堂

境内

御香宮 地図

社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)、徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が与えられました。

大鳥居

大手門(重要文化財)

伏見義民碑

桃山天満宮

合格祈願絵馬と紅梅

紅梅

白菊石・歌碑

椿

伏見城残石

昔、即成院の僧で御香宮に住んでいた仙人が常に白菊を食し変幻自在の仙術を極め白菊石になったと伝える。傍に"仙人の昔のあとは白菊の千代のかほりに残りけるかな"と記した東久世通禧の歌碑があります。

鳥羽・伏見の戦い戦碑

絵馬堂

奉納・「猿回し」の絵馬

絵馬堂に奉納された絵馬は、古くは正保・明暦、新しいものでは明治〜現代の絵馬があり、特に正保3年(1646年)、願主・後藤庄兵衛が奉納した「猿回し」の丸彫りをはめ込んだ絵馬は作者が前田六之丞とも左甚五郎とも伝わります。明暦元年(1656年)に奉納された、文禄の役の「将士凱旋図」が豪放な絵タッチで描かれていますが他の絵馬共々破損が激しく観賞に堪えないのが残念です。

奉納絵馬

奉納絵馬

奉納絵馬

奉納絵馬

奉納絵馬

天然記念物・ソテツ

天水桶(防火用雨水溜め酒桶:拝殿北側)

神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑

白梅

神馬舎

末社・菊姫社

末社・弁才天社

末社(金札、那智、熊野、新宮、春日社)

末社・伊勢社

末社・豊国社

末社(住吉、八幡、八坂、恵比寿社)

末社・松尾社

末社・東照宮

龍雲寺 地図

豊臣秀吉が伏見城に在城時、大亀谷敦賀町にあったが、正徳5年(1715年)、伏見奉行・石川備前守が徳川綱吉の念持仏であった観音像を拝領し、これを本尊として現在地に近い三河屋敷町に中興しました。関ヶ原の戦いで伏見城で討死した鳥居元忠以下三百余名の菩提寺とするなど徳川幕府との関係が深い寺です。寛政8年(1796年)、信州善光寺の一光三尊仏阿弥陀如来像のご開帳がこの寺で行われたが、信徒からの懇望で像を模刻した事で龍雲寺は桃山善光寺又は新善光寺と呼ばれるようになった。明治27年(1894年)、このあたり一帯が天皇御料地として買い上げられ同31年に現在地へ寺地を移した。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いでは、当寺(三河屋敷町)に薩摩藩・大山巌が砲兵隊長として大砲陣地を置き、眼下の伏見奉行所に布陣していた会津藩、新撰組などの旧幕府軍に一斉砲撃しました。

山門

手水(洗心井)

本堂

 南無地蔵尊祠

 地蔵尊祠

鐘楼堂

鐘楼堂からの景色(御香宮方面)

史跡庭園由来碑(山本眞嗣〔ただし〕撰文)

史跡庭園

史跡庭園

乃木神社 地図

明治天皇に殉死した乃木希典大将を祀る。明治天皇桃山御陵の南側に隣接しています。夫人・静子を祀る静魂神社と共に大正5年(1916年)、村野山人始め有志の人達により創建されました。

乃木神社神門

境内

乃木将軍景仰之碑

日露戦争の海軍犠牲者慰霊碑

忠魂碑(陸軍大将・南次郎の筆)

慰霊碑

宝物館

乃木将軍記念館(柳樹房・第三軍司令部)

学習院々長時代の乃木将軍像

拝殿

本殿

 静魂神社

拝殿の奥に一間社春日造りの本殿があり楠正成を祀る湊川神社に模して建立され、明治天皇陵を鎮護する為に珍しく北面に建てられています。

紅梅

創建者・村野山人像

長府旧邸

長府旧邸内

長府(山口県)にあった乃木希典が少年時代に住んでいた家で両親に訓戒を受けている乃木大将の幼年像が設置されています。

橘俊綱山荘(伏見殿)跡界隈

伏見城お船入り常夜灯

平安時代末期、藤原頼道の子で伏見修理大夫・橘俊綱は、桃山丘陵の南端、指月(しげつ)の丘に風光明媚な「伏見山荘」を造営しました。巨椋池を見渡す絶景観により伏見という所は都人に注目され俊綱没後、白河上皇に寄進され「伏見殿」と称され、後に伏見宮家の荘園となりました。やがて豊臣秀吉が当地の所縁を知り伏見城の築城を決めたとも伝えます。

宇治川から伏見城の学問所近く迄引き込まれていたお船入りの名残である常夜灯です。

大善寺(六地蔵) 地図

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する"六地蔵巡り"の風習が生まれたとされています。

参道

本堂

鐘楼堂

銘木・臥竜(がりゅう)の松

地蔵堂

地蔵堂内

観音堂

観音堂内

随心院 地図

真言宗善通寺派の大本山である随心院は、平安時代中頃に仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴2年(西暦991年)、奏請し、この地を賜り一寺を建立しました。古くは皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺と称されました。晩年の小野小町が移り住んだといわれ、敷地内のいたる所に小町の縁所があります。又、深草少将の百夜通いの折り、小町は榧の実を糸に綴って数をとりました。後、その実を当地に蒔き、かっては99本あったと伝えられています。

 随心院

名勝・小野梅園

 山門(大玄関)

 大玄関

 名勝・小野梅園

小野小町ゆかりの化粧橋

小町の生涯は歴然としません。弘仁6年(815年)頃生まれ。平安朝初期、仁明天皇が東宮時より、側仕えし特に盛艶優美、詠歌の妙を得た小町は、東宮の寵愛を受け、即位後は更衣として仁明天皇に仕ました。仁寿2年(852年)、小町が30歳を過ぎた頃に宮仕えを辞め小野の里に引きこもり、晩年の余生を送ったと伝えられています。

化粧橋

醍醐寺 地図

醍醐寺は、真言宗を学んだ理源大師が山中で修行を積もうと、貞観16年(874年)、笠取山々上に草庵を建てた事に始まり山岳信仰の拠点となり薬師堂・五大堂などが次々と建ち、上醍醐が形成されました。延喜7年(907年)、醍醐天皇の帰依によって朝廷の保護を受ける御願寺(ごがんじ)となり、朱雀・村上天皇の帰依により発展を遂げ、山麓にも伽藍を広げ金堂(こんどう)の前身となる釈迦堂が延長4年(926年)、五重塔が天暦5年(951年)に落成し醍醐寺は、山の上(上醍醐)と下(下醍醐)に伽藍を連ねる大寺院となりました。山の上下にまたがる約8万坪にもおよぶ寺域の広さ、伽藍の規模などは、洛南随一と言われ、上醍醐は西国33カ所巡り第11番札所の准胝(じゅんてい)堂、薬師堂、如意輪堂など佇まいです。山麓の下醍醐には、桃山時代の豪華絢爛さが漂う三宝院(さんぼういん)、京都府で現存最古にあたる木造建築の五重塔、霊宝館などがあります。伽藍ばかりではなく春には広大な境内を約2000本の桜が薄紅色に、秋には山一帯を紅葉が人々の目を楽しませてくれます。

第60代・醍醐天皇

第80代座主(ざす)・義演准后(ぎえんじゅごう)

鎌倉時代以降、武家政権の庇護を受け寺勢を伸ばした醍醐寺も、応仁・文明の乱の戦火は免れず特に下醍醐は、五重塔を残してほぼ焼滅し伽藍の復興と寺の整備に尽力したのは、桃山時代、第80代座主(ざす)・義演准后(ぎえんじゅごう)でした。豊臣秀吉と交流を深め、積極的な援助で大規模な修理と復興を成し遂げ、慶長2年(1597年)、五重塔の修理に始まって、金堂を紀伊より移築、三宝院の殿舎と庭園を築造しました。上醍醐とは違う、豪華な桃山建築が下醍醐に吹き込まれました。秀吉が催した「醍醐の花見」は、代表的な催しでした。秀吉の死後、秀頼の寄進で、仁王門始め、現在の伽藍のほとんどが整えられました。

醍醐寺西総門

仁王門(西大門)と金剛力士像(重要文化財)

金剛力士像

仁王門(西大門)と金剛力士像は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により再建されました。重要文化財です。

長尾天満宮 地図

慶長5年(1600年)、金堂は延喜帝の遠忌にあたり豊臣秀吉が紀伊(和歌山)・湯浅からの移建を命じたが大工の棟梁が度々病気などになり工事が遅れた。これは菅公が延喜帝の追善供養を妬む祟りであるとされ勅詔によって天満宮に奉幣されたところ無事に金堂も竣工に至ったと伝わります。醍醐町一帯の産土神で本殿は三間社流造、こけら葺。文政4年(1821年)の再建と伝えるが建築の細部には豪華な桃山風の彫刻が見られる。

長尾天満宮参道(頼政道)

参道の石段(頼政道)

頼政道跡碑

拝殿

摂津源氏の棟梁である源頼政は、平治元年(1159年)、平治の乱では源義朝を裏切り平清盛に加勢し、従三位となり源三位頼政と称した。治承4年(1180年)、以仁王に平氏追討の令旨を出させ、挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中の宇治平等院で自刃しました。この時、醍醐〜宇治に通り抜けた山道を里人は「頼政道」と称しました。

本殿

 皇大神宮

 菅公衣装塚

参道の石段を登った突き当たり右横にある塚の上に宝篋(ほうきょう)印塔を設置し、口碑によれば菅原道真の遺衣を埋納した所と伝える。

 参道の石段(頼政道)

 仁王門〜金堂

 五重塔(国宝)

金堂(国宝)

五大力尊、奉納・餅上げ会場

五大力大鏡餅

五大力餅(七難即滅・七福即生)

金堂(国宝)は豊臣秀吉の命により紀州(和歌山県)の湯浅から移築され主要部は平安末期の様式を完全に残しています。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されている。「五大力さん」として親しまれているこの法要は、千百余年のの歴史があり、醍醐寺開山以来継承され、毎年の2月23日には、「五大力尊仁王会」があり、「五大力さん」の分身御影は、醍醐寺一山の僧侶によって7日間、21座にわたり、上醍醐の五大堂においてご祈願されたものです。ご祈願された御影・御守は、あらゆる災難を除いてくれる利益があると伝わり、毎年2月23日のみ授与されます。名物の餅上げの法要は、男子150Kg、女子90Kgの大鏡餅に挑戦します。

護摩焚き(不動堂)

 祖師堂

 伝法学院(修行道場)

 日月門(上醍醐入り口)

 鐘楼堂

 大講堂

 大講堂々内

 弁天堂と林泉(池)

 上醍醐登山

 女人堂

水掛不動(弥勒菩薩など5体の銅像)

上醍醐(西国11番札所)登り口

仁王門〜西総門

五重塔(国宝)

清滝宮拝殿

清滝宮本殿(重要文化財)

五重塔は、醍醐天皇のご冥福を祈る為に朱雀天皇が起工し村上天皇の御代、天歴5年(951年)に完成しました。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものと伝わります。

光台院

醍醐山伝法学院(修行道場)

報恩院山門

報恩院本堂

三宝院

三宝院は永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうがく)僧正の創建。その後、座主の住房とされていた金剛輪院に名称がうつされ、現在に至っています。醍醐寺の塔頭の一つで上醍醐寺の本坊です。 応仁の乱の兵火で焼失しましたが豊臣秀吉により再建された為に桃山建築の美しさがあり特別史跡、特別名勝に指定されている庭園は、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が“醍醐の花見”に際し、庭奉行竹田梅松軒等に命じて築庭させた。藤戸石〔ふじといし=千石石(せんごくいし)〕は聚楽第より運ばれた名石である。又、桃山時代の豪華な襖絵や障壁画で飾られた葵の間、秋草の間、勅使の間(ともに重要文化財)、表書院(国宝)がある。

唐門(勅使門)

下乗石

門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門が唐門(勅使門)です。大胆な意匠は、桃山時代の気風を今に伝え、園全体を眺めることのできる表書院(おもてしょいん)と共に国宝です。

一言寺 地図

千手観音を本尊とする真言宗醍醐寺派の寺で正式には金剛王院と言います。少納言信西の女、阿波内侍が清水寺本尊の霊告によって建立したと伝わる。明治になって「金剛王院」と合併し現在に至っています。本堂には千手観音、不動明王像、阿波内侍像が安置されています。本尊・千手観音菩薩は本堂に安置され、ただ一心に祈ると言下に願いが叶うとされ、一言寺という名の由来になっている。境内に大きなヤマモモの木があり、天然記念物に指定されていて春に見事な花が咲き、6月頃に赤い実をつけます。

参道の石段

本堂

 白梅

 天然記念物・ヤマモモ

 鐘楼堂

頼政道

一言寺の石段途中を横切る小道は、治承4年(1180年)平家追討に立ち上がった源頼政が、利あらず大和へ逃げ落ちる為、この道を通ったとされる所以から頼政道と里人に言われています。

頼政道

月橋禅院 地図

伏見宮家初代・栄仁(ひでひと)親王は、ここに大通院指月庵を建て隠棲していました。孫にあたる後土御門(ごつちみかど)天皇は父の後花園天皇の菩提を弔う為、文明12年(1480年)、西山の三鈷(さんこ)寺より専篤(せんとく)上人善空を招き開山しました。豊臣秀吉が伏見城築城後、越前・武生の金剛院から亀州宗鶴(きしゅうそうかく)禅師を招き曹洞宗の寺となり月橋禅院と改称しました。

山門

本堂

松林院 地図

寺伝によれば当時、後崇光太上天皇にかしづいていた一女官が、尼となりお墓をお守りしていた所で後に上鳥羽〔南区〕にあった松林院を移転し仏堂としたと伝える。本堂には、後崇光帝の念持仏と伝える阿弥陀如来像を安置し傍らに同帝の尊牒を泰安しています。

山門

本堂

酒蔵

伏見は古来、名水処として酒造りが地場産業となっています。伏見の酒造りが開花したのは安土・桃山時代で豊臣秀吉の伏見城築城時に城下町として大きく栄え酒の需要が高まる中、全国にその名を知られるようになりました。江戸時代には宿場町・港町として水陸交通の要所として発展、酒造家も急増し酒処として益々発展しました。往時に比べ酒蔵も減りましたがこの界隈は往時を偲ぶ事ができます。

 酒蔵

 伏見夢百衆(旧・月桂冠本社)

Tourist  2004.2.23(M)

 

今回は、「椿」や「梅」などの名花木も見物しようと散策しました・・・早すぎ?遅すぎ?状態の処もあり・・・今一の開花状況でした。醍醐寺では、偶然にも五大力尊の奉納・餅上げの表彰式などに遭遇しました。上醍醐登山口から先は続編コラムで紹介します。この春、Pちゃんとのチャリ散策「上醍醐」編を予定していますので今回の散策は下調べを兼ねたプロローグ散策となりました。

 

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