古の道(いにしえのみち)

 

源平ゆかりの里道散策

 

両替商旧跡〜願船寺〜呉竹地蔵尊(柿木腹帯地蔵尊)〜常盤御前就捕処の碑〜西運寺(狸寺)〜月橋禅院〜愚庵旧栖宅跡〜大善寺(六地蔵)〜弘法大師杖の水〜

子安地蔵〜吉利倶(キリク)八幡宮〜勧修寺〜隋心院〜醍醐寺〜善願寺(腹帯地蔵尊)〜一言寺〜従三位平重衝(しげひら)卿墓〜天穂日命(あまのほひのみこと)神社

 

街道筋、里道に鎮座する地蔵尊

呉竹地蔵尊(柿木腹帯地蔵尊)

大善寺(六地蔵)

弘法大師杖の水

子安地蔵(こやすじぞう)

小栗栖の里〜山科(勧修寺)〜醍醐、日野の里を訪ねました。このコースを「古の道:いにしえのみち」散策としました。

小栗栖(おぐりす)、山科(勧修寺:かしゅうじ)、醍醐、日野界隈は里の風情の名残があり平氏、源氏に所縁のある界隈です。

今回は、明智越えの続編的散策コースですが、この前とは違ったのどかな里の晩秋を満喫させてくれました。

小栗栖、山科(勧修寺)、醍醐、日野の里、チャリンコ散策・・・古の道(いにしえのみち)コース

小野小町(生没年不詳)

平清盛〔元永1年〜養和11年(1118〜81年)〕

弘法大師(空海)〔宝亀5年(774年)〜承和2年(835年)〕

「古今和歌集目録」には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあり、「小野氏系図」に小野篁 (たかむら)の孫で、出羽郡司良真の娘とある。経歴等も明らかでないが、仁明天皇御代(833〜850年)、文徳天皇御代(850〜858年)頃、後宮に仕えていました。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣(又は中臈女房)であったという説、又「続日本後紀」に記された承和9年(842年)正月の記事に見える小野吉子(仁明天皇の更衣とみられる)と同一人とする諸説があります。

平安時代末期の武将政治家で法号を清蓮、韓海と称した。平忠盛の長子で保元1年(1156年)、保元の乱に参加、その功で播磨守・太宰大弐。平治1年(1159年)、平治の乱で藤原信頼、源義朝を誅滅し、仁安2年(1167年)、内大臣、従一位、太政大臣となる。全国の知行国500余カ所の荘園と対宋貿易を掌握し六波羅政権を成立。重盛、宗盛以下も高位高官となった。その後福原に退隠したが政権に固執し続けました。養和11年(1181年)、熱病により逝去。平治の乱後、清盛の継母池禅尼の助命嘆願や常盤御前の身柄と引き換えに頼朝らを処刑しなかった事を大変悔やみ、臨終の間際に「わしが死んでも供養はしなくてもよい。ただ頼朝の一首を供えよ」と言い残したとも伝えます。

空海は、宝亀5年(774年)、讃岐の国(香川県)屏風が浦に生まれる。名族・佐伯氏の出身、幼名を真魚(まお)という。延暦11年(792年)、今の高知県室戸岬にある洞窟(御蔵洞)で求問持法を修行していたとき、口に明星が飛び込んできて悟りを開く。その間、目にしたものは、海と空だけであったという事に因みそれ以後、「空海」と名乗る。延暦11年(804年)、空海は最澄らと遣唐使の留学僧として渡唐する。弘仁7年(816年)、朝廷より高野山を賜り開祖に着手。弘仁13年(822年)、東大寺に真言院を建立、翌14年(823年)、東寺を賜り教王護国寺と名付ける。延喜21年(921年)、朝廷より「弘法大師」の諡号が贈られました。

両替商旧跡

大石天狗堂

願船寺

両替町の町名は、慶長6年(1601年)に徳川家康が伏見に銀座を設置した事に由来する。慶長13年(1608年)、銀座が京都に移されてからも銀座の伝統を受け継がれ、両替商が多く軒を並べ、天保期間(1830〜44年)には両替屋51軒があった。この石標は両替商の旧跡を示すものです。この町屋は歴史的意匠建築物に指定されています。

手作りかるたの老舗で、ウンスンかるたなどのコレクションがあり、光琳かるたと呼ばれる百人一首の復元で有名です。

宇治川の水運の無事を願う守り地蔵尊から発展しました。又、この辺り一帯を船戸御所があったとされます。後宇多天皇が造営され伏見山の伏見殿を上御所、当地を下御所と称し宇治川に臨む船着場が付近にあったので船戸(津)御所と号した。延文元年(1356年)8月、宇治川の氾濫によって御所は水没しました。

呉竹地蔵尊(柿木腹帯地蔵尊) 常盤御前就捕処の碑 新大和街道(R24)

聖徳太子が仏法を広める為、伏見の里を通った時、空に妙な音楽が響き周囲に芳香が漂い柿の木の上に紫雲がたなびきその中に地蔵菩薩が影現した。太子は柿の霊木から地蔵菩薩を彫刻したところ僧が現れ広く人々に仏法を説き様々な迷いから解き放ち悟りを啓かせるよう語ったと伝わる。安産祈願、宇治川の水運の守り地蔵尊でもあった。

平治の乱(1159年)で義朝(1123〜60年)が敗死、常盤御前は3人の子供(今若8歳〔阿野全成〕、乙若6歳〔愛智円成、後に義円と改名〕、牛若2歳〔源義経〕)を連れ大和街道を逃げ落ちる時に当地で平清盛の追っ手に捕まったと所とされています。源氏の棟梁(義朝)の子を産み、後に平家の棟梁(清盛)の子を産むという波乱万丈な人生を送りました。

現在の大和街道と言われる国道24号線の観月橋辺りです。旧大和街道は、宇治橋〜奈良へのルートだと言われています。

西運寺(狸寺) たぬき像

松風山西運寺と称し、慶長元年(1596年)に雲海和尚が向島橋詰町に創建し、貞享3年(1686年)に上総屋敷跡に移転した。

江戸末期頃、冠道和尚が裏山にいた雌狸に餌付けをして馴らした。裏に出て「八」と呼んで手を叩くと裏山から下りてきて、飼い犬のように馴れ親しんで、いつしか「狸寺」と呼ばれるようになった。

月橋禅院 愚庵旧栖宅跡

伏見宮家初代・栄仁(ひでひと)親王は、ここに大通院指月庵を建て隠棲していました。孫にあたる後土御門(ごつちみかど)天皇は父の後花園天皇の菩提を弔う為、文明12年(1480年)、西山の三鈷(さんこ)寺より専篤(せんとく)上人善空を招き開山しました。秀吉が伏見城築城後、越前武生の金剛院から亀州宗鶴(きしゅうそうかく)禅師を招き曹洞宗の寺となり月橋禅院と改称しました。

明治時代、優れた万葉調の歌人で本名は、天田五郎といい、安政元年(1854年)、福島県生まれ。戊辰戦争で一家離散し父母を求め全国を20余年放浪した。山岡鉄舟との縁で一時、清水次郎長の養子になりましたが、明治17年(1884年)、次郎長が入獄した時に、次郎長の潔白を明かす為に「東海遊侠伝・一名次郎長物語」を書きました。これが次郎長を世に知らせる事となりましたが、次郎長の元を去り明治20年(1887年)、一乗寺村の林丘寺で出家、鉄眼と称しました

三夜荘跡

大善寺(六地蔵)

明治初年頃、信徒の寄進により大谷光尊上人が建てた真宗西本願寺派の別荘。元は、伏見城の月見台のあった所と云われ、秀吉は、ここからの月の美を「一輪は山、一輪は水、一輪は杯中にあり一夜にして三夜の勝を兼ねている。」と賞賛した所以から三夜荘と名付けられたと伝わるが、一説に本多三弥の屋敷跡からとも伝える。

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀したことから。これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたとされています。

弘法大師杖の水

南小栗栖南端の小栗栖街道から西へ深草に抜ける山道があり,路傍に杖の水と刻まれた石仏があります。今も湧き出る清泉は弘法大師が杖の先で掘ったと伝えられています・・・明智光秀が山崎の合戦で敗れ近江・坂本城へ逃れる時に通ったと伝える道すがらにあり立ち寄って喉を潤したかもしれません・・・

つぶれ坂

いつもぬかるんでいる状態の坂道を「つぶれ坂」と称されています・・・

子安地蔵(こやすじぞう)

小栗栖の里道

地蔵尊の守護により、小栗栖には難産の人が少ないといわれます。元、本経寺の近くに粗末な祠(ほこら)がありましたが、日本三体地蔵の一つであることが分かりました。

小栗栖から日野の里方面を望む。

吉利倶(キリク)八幡宮

仁寿3年(853年)の勧請で応神・仲哀天皇・神功皇后を祭神とし勧修寺、小野の産土神です。昔、境内の老杉が風で倒れ板にすべく裁断したところ木面に阿弥陀如来の種子(梵字)(吉利倶:キリク)の3文字があった。その板を建てた事に因んで吉利倶八幡と称しました。この神社には、珍しく狛犬が見当たらず大矢(破魔矢?)がありました。

宮道(みやじ)神社

佐治城碑(逢拝所)

勧修寺

古くは宮道ニ所明神といい、宮道氏の遠祖日本武尊・稚武王(わかたけのみこ)を祭神とし大岩の岩屋神社、西野山の岩屋神社(山科神社)と共に宮道氏の祖神を祀った神社の一といわれる延喜式に記す山科神社ニ座は当社とされている日向神社と共に山科における最も由緒ある神社とされています。

佐治城跡は、滋賀県甲賀郡の丘陵にあった。康平5年(1062年)平業国が佐治郷に転封し佐治氏を名乗った。天正11年(1585年)の甲賀破議で領地没収令が出され反対し本城に篭城し秀吉の大軍に滅亡した。

昌泰3年(900年)、醍醐天皇は生母の菩提を弔う為に生母の里であった寺を御願寺と定め外祖父・藤原高藤の諡号をとって、勧修寺と号しました。この庭園を「典雅の極致」とたたえているように、平安王朝の庭で2万uの池を中心に展開する雄大な池泉舟遊式の庭園です。池の中には大小3つの島が浮かび東山などを借景に15もの景勝が造られています。

勧修寺

天皇家、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺、門跡寺院として繁栄しましたが、まもなく衰え、徳川氏の時代、寺領寄進などにより再興されました。寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重要文化財)は元禄10年(1697年)、明正天皇の旧殿を外賜され、書院には土佐光起作とされる襖絵などがあります。

西浦の小町の栢(かや)の木

隋心院

深草少将の百夜通いの折り、小町は榧の実を糸に綴って数をとり後に、その実をこの地に播いたもので、かっては99本あったと伝えられています。

真言宗善通寺派の大本山である隋心院は、平安時代中頃に仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴2年(西暦991年)、奏請し、この地を賜り一寺を建立しました。古くは皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺と称されました。晩年の小野小町が移り住んだといわれ、敷地内のいたる所に小町の縁所があります。

名勝・小野梅園 小町井

小町が鏡代わりに化粧したという「化粧の井戸」や、小町に寄せられた千束の恋文を埋めたといわれる「文塚」など小野小町縁のものが興味深い。 また、小野小町文張地蔵尊像や卒塔婆小町座像など小町をモデルにした仏像なども保管され他にも、重要文化財の阿弥陀如来像なども保管されている。

小町井 小町庭苑 御眞塚

小野小町の屋敷跡に残る井戸で小町が朝夕この水で化粧をしたと伝えます。小町の生涯は歴然としません。弘仁6年(815年)頃生まれ。平安朝初期、仁明天皇が東宮時より、側仕えし特に盛艶優美、詠歌の妙を得た小町は東宮の寵愛を受け、即位後は更衣として仁明天皇に仕ました。

文塚 小町塚

深草少将を始め当時の貴族達から小町に寄せられた千束の手紙を埋めた所と伝えられています。

仁寿2年(852年)、小町が30歳を過ぎた頃、宮仕えを辞め小野の里に引きこもり、晩年の余生を送ったと伝えられています。

清滝大権現

弘法大師獨鈷水(おこうすい)

仁海僧正は勅命を賜り雨乞いを度々、祈願した所以から小野僧正、雨僧正とも称された。増俊僧正(5世)時に今の隋心院の名になりましたが応仁の乱で罹災し現在の本堂は慶長4年(1599年)の再興です。

長岡京市浄土谷堂ノ谷の楊谷寺にも同じ水井があります。楊谷寺々伝では、弘法大師が度々、当寺に参詣されていたが、弘仁2年(811年)、岩屋から湧き出る水で小猿の目を洗う親猿を見て、これは霊験水であると悟りました。猿に効く水なら人にも効くはずと、弘法大師は17日間、加持祈祷を続け独鈷で水をかきまわし続けた所以により、弘法大師獨鈷水といわれたと伝える。

醍醐寺西総門

頼政道跡碑(長尾天神)

醍醐寺は、醍醐山全体、広大な境内を有する真言宗醍醐寺派の本山です。創建は、貞観年間(859〜877年)。理源大師が世俗を離れ真の仏を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立した事に始まる。醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山裾の下醍醐に分かれている。五重塔は、天暦5年(951年)に完成した京都府内で最古の建造物である。五重塔以外の建物は、応仁の乱により消失し、豊臣、徳川両家によって、現在の伽藍に整備された。慶長3年(1598年)秀吉が豪華な花見の宴を開催。上醍醐、下醍醐合わせて8万坪の境内には、約2000本の桜があり毎年4月第2日曜日に、太開花見行列が行われます。

摂津源氏の棟梁である源頼政は、平治元年(1159年)、平治の乱では源義朝を裏切り平清盛に加勢し、従三位となり源三位頼政と称した。治承4年(1180年)、以仁王に平氏追討の令旨を出させ、挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中の宇治平等院で自刃した。この時、醍醐〜宇治に通り抜けた山道を頼政道と称する。

三宝院全景案内図

三宝院表門

表門〜玄関の眺め

三宝院は永久3年(1115年)醍醐寺第14世座主勝覚(しょうがく)僧正の創建。その後、座主の住房とされていた金剛輪院に名称がうつされ、現在に至っている。特別史跡、特別名勝に指定されている庭園は、慶長3年(1598年)豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、庭奉行・竹田梅松軒等に命じて築庭させた。織田信長ゆかりの藤戸石〔ふじといし=千石石(せんごくいし)〕は聚楽第より運ばれた名石である。

勅使門(唐門)

醍醐寺全景案内図

庭園全体を眺めることのできる表書院(おもてしょいん)と唐門(からもん)は国宝である。

 

仁王門(西大門)と金剛力士像

仁王門(西大門)、金剛力士像は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により再建されました。重要文化財です。

仁王門から金堂方面の眺め 善願寺(腹帯地蔵尊)

仁王門から真っ直ぐ行くと金堂、不動堂、鐘楼のある所に出ます。 

近江国・坂本の聖衆来迎寺(地蔵教院)の末寺として創建。長保年間(999〜1003年)、恵心僧都源心を招き当地で再興されました。地蔵菩薩坐像(腹帯地蔵)は、重要文化財で鎌倉時代の作と伝わります。寺伝によれば、平重衝(しげひら)が生まれる時、安産を祈願の為に建立されたと伝わる。安産祈願の信仰がある。

栢(かや)の木不動(善願寺)

一言寺

樹齢千年を下らないといわれる栢の木に先の住職によって彫られた不動明王です。昔、この木から幽霊が出て街道を行く人々を怖がらせたといいます。

千手観音を本尊とする真言宗醍醐寺派の寺。 少納言信西の女阿波内侍が清水寺本尊の霊告によって建立したと伝わる。明治になって「金剛王院」と合併し現在に至っています。本堂には千手観音、不動明王像、阿波内侍像が安置されています。

一言寺 頼政道

一言寺と俗称されるのは、一心に祈願すれば一つの祈願が成就するとの云われからです。

一言寺の石段途中を横切る小道は、治承4年(1180年)平家追討に立ち上がった源頼政が、利あらず大和へ逃げ落ちる為、この道を通ったとされる所以から頼政道と里人に言われています。

天然記念物・ヤマモモの木 従三位平重衝(しげひら)卿墓

天然記念物に指定されているヤマモモの木です。伏見区民の誇りの木にも指定されています。一言寺山門を入った所にあります。

平清盛五男の三位中将・平重衝も、一の谷の合戦で捕らわれ、文治元年(1185年)6月、大津〜醍醐路を経て大和に向かう途中、日野へ立ち寄り北の方(妻)と今生の別れを惜しんだ。同年6月23日、大和・木津河原で処刑され遺骸は当地に埋葬されたと伝える。2人が相会した河原を阿以波川(現、合場川)、重衝が別離の情を琴の音に託した所以から琴弾山と称すると伝わります。

天穂日命(あまのほひのみこと)神社 本殿 苗塚

貞観4年(862年)6月、官社にあづかり延喜の制に列せられた。一に田中神社、又は石田神社とも言います。石田の参土神で天穂日命(あまのほひのみこと)を祭神とします。天孫降臨に先立ち出雲に下向し天日隅宮の祭祀を司った。後に出雲氏の祖神と仰がれ子孫は出雲大社の祠官となった。現在の祭神は、天照大明神、大山咋神としている。

酒蔵

伏見と言えば・・・酒・・・ロマンチック回廊を演出している酒蔵界隈のライトアップ。

 Tourist  2003.12.01(M)

 

今回のコースは、「No.7・明智越えコース」の続編的チャリンコ散策コースです。

晩秋を満喫できる小栗栖、山科(勧修寺)、醍醐、日野は、源氏、平家、藤原(北家)貴族に所縁もある里々です。

小栗栖や日野界隈の史跡などを訪ねるのは、長老に尋ねないと結構見つけにくく時間が掛かります。

残念ながら日没により、予定行程を最後迄行けませんでした・・・いつか再び日野の里を訪ねようとと思います。

 

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