六地蔵、醍醐界隈

 

仁王門(醍醐寺)

 

醍醐の由来

醍醐の山に理源大師が登られた時、仙人が現れ、この水は醍醐味(大変に美味)であるとその水を教えました。

大師はその水を元として大伽藍を創立し上醍醐、下醍醐の寺が出来たと伝えます・・・

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は下醍醐の再建に着手。3月15日、民衆をいやすため『醍醐の花見』を盛大に催しました。

日野は、日野家の領地で、法界寺には藤原時代の平安貴族文化が、現存します。

親鸞聖人生誕の地でもあり、鴨長明が『方丈記』を記した所(長明方丈石)でもあります。

醍醐味とは「乳酪蘇中の微妙第一にして能く諸病を除き、諸々の有情をして心身安楽ならしむ」と説いています。

醍醐味(チーズやヨーグルト味?)とは、人生で味わっても味わい尽くせない微妙なものをいい仏教の教えを糧として「醍醐」とも言います。

 

醍醐寺(下醍醐三宝院上醍醐)

仁王門

金堂

五重塔

醍醐山全体、広大な境内を有する真言宗醍醐寺派の本山。創建は、貞観年間(859〜877)、理源大師が世俗を離れ真の仏を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立した事に始まる。醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山裾の下醍醐に分かれている。五重塔は、天暦5年(951年)に完成した京都府内で最古の建造物である。五重塔以外の建物は応仁の乱により消失し豊臣、徳川両家によって、現在の伽藍に整備された。慶長3年(1598年)、秀吉が豪華な花見の宴を開催。上醍醐、下醍醐合わせて8万坪の境内には約2000本の桜があり毎年4月第2日曜日に太開花見行列が行われる。

法界寺

弁天堂(醍醐寺)

山門

本堂

法界寺・・・「日野薬師」または「乳薬師」と呼ばれる伝教大師を開祖とする日野氏一族の氏寺。 かっては、立派な寺であったらしいが今は、阿弥陀堂と薬師堂が残っているだけである。

醍醐天皇陵後山科陵(のちのやましなのみささぎ)

醍醐天皇陵後山科陵

延長8年(930年)、醍醐上皇は、山陵に埋葬されました。一辺3丈、深さ9尺の土壙を掘り、その中に一辺1丈、高さ4尺3寸の校倉を納め、にその中に棺を入れたものでした。外部構造としての墳丘は造りませんでしたが、陵上には卒塔婆3基を立て承平元年(931年)には空堀が掘られました。現陵は直径45mの円形ですが、盛り土はなく周囲に周溝と外堤をめぐらせています。醍醐寺が御陵の管理、祭祀をしていました。

大善寺

一言寺

六地蔵堂

山門

本堂

800年以上の歴史が有る行事で京の街道口に奉られている。六地蔵を巡りお札を玄関先に吊すと家内安全招福の御利益が有ると云われています。

千手観音を本尊とする真言宗醍醐寺派の寺で明治になって「金剛王院」と合併し現在に至ります。

明智藪 明智塚

明智藪(小栗栖) 明智塚(明智光秀胴塚)

天正10年(1582)6月13日、山崎の合戦で秀吉軍に敗れた光秀は近臣5、6人と夜陰に乗じ勝竜寺城を脱出、 坂本城に向かう途中、この地で信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃され溝尾勝兵衛の介錯により自刃したと伝えます。

自刃した光秀の胴体が埋められた場所と云われています。当時、秀吉は光秀の胴体を探し出し首を金具でつないで粟田口で磔にして見せしめたと伝えます。小栗栖街道を入った民家の裏手にあり見つけにくいかも?

 

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