明智越え

 

織田が搗(つ)き豊臣が捏(こ)ねし餅(天下)、座して食らうは徳川・・・

 

寺田屋〜八科峠〜小栗栖の里(明智藪、胴塚)〜勧修寺(吉利倶八幡宮)〜八科峠〜御香宮

 

小栗栖街道チャリンコ探訪

今回も山越えにチャレンジ!桃山を八科峠から小栗栖の里を訪ねました。このコースを「明智越え」としました。

伏見にも里の風情が、残っています。今回も結構きついコースですが、のどかな里の秋を満喫しました。

明智越え・・・明智光秀が坂本城へ逃れる為に、深草〜大亀谷〜小栗栖へ桃山を越えた峠道です。

★★ 小栗栖(おぐるす、おぐりす)の地名由来・・・大和言葉で小高い平坦地を「クルス」と言います。

桃山丘陵の狭い高台の小さな<クルス>から小栗栖<オグルス>と言う地名になったと伝わります。

 

第56代天皇・清和(せいわ)天皇と明智光秀と小栗栖の里

清和(せいわ)天皇

小栗栖八幡宮

天皇幼少期、外祖・藤原良房が政事を摂行し、貞観8年(866年)の元服時に、改めて良房に天下の政を摂行せよとの宣旨を出され執政の任に就きました。清和天皇の治政期は貞観の治と称し律令支配の危機は前代に増し深刻化の兆しがあったが、良房の指導で良吏(地方政治に才幹をもつ官人)が積極的に登用され、相対的に安定しました。在位19年にして帝位を皇子である陽成天皇に譲位し元慶3年(879年)に落飾(僧)し、法名を素真と称し元慶4年(880年)12月に逝去。遺言により山陵を造らず、火葬にて水尾山に安置されました。

社伝によると清和源氏の祖である清和天皇の御代、貞観7年(865年)に当地に建立されました。祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后です。伏見には、珍しい八幡宮社です。当社内、マムシ、ハチ多し奥の山林には入らないように!と厳重注意の張り紙(社伝説明碑右下)も・・・石段上の本殿は、足元などを確認しながらの撮影でした。

明智光秀と織田信長、豊臣秀吉

明智光秀

織田信長

豊臣秀吉

戦国武将で清和源氏(清和天皇が祖)・土岐下野守頼兼の末裔といわれ通称、十兵衛と称し足利(室町)幕府15代将軍・足利義昭に仕えた後、織田信長に仕え、近江・坂本城主となり、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称した。後に丹波・亀山城主となったが、天正10年(1582年)6月2日、信長を京都の本能寺に攻め自刃させた。僅か11日後の6月13日、羽柴(豊臣)秀吉と京都の山崎で戦い、近江・坂本城へ敗走途中、伏見・小栗栖で信長の近臣・小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により落命し「三日天下」と言われる事はあまりにも有名です。信長に仕える迄の経歴、信長を本能寺に攻めた動機、光秀生存説(天海僧正説など)が諸説あり、日光・東照宮に葵紋と桔梗紋(明智家々紋)が彫られていたり、明智平が近くにあったりと徳川家との関わりなど日本史上、最大級の謎とされています。享年55歳。

天下統一の覇業を推進した戦国時代最大の風雲児で天下統一目前で本能寺にて自刃。本能寺に入った信長は、公家を招き信長が天皇職に就けるか否か問い、堺などから商人を招き茶道具を披露している。信長の天下統一が目前の天正10年<1582年>6月2日未明、中国攻めに向かったはずの明智光秀率いる1万3000の軍勢が本能寺へ攻め込みました。光秀の攻めに織田信長は自刃しました。もし、織田信長が天下統一を成し遂げていたら伏見始め、日本の歴史は大きく違ったかと思います。享年49歳。

農民から関白太政大臣、天下人(太閤)になった戦国武将。織田信長の5軍団(柴田勝家、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉)の1人。天正10年(1582年)6月13日、「天王山の戦い」で明智光秀を破り、天正18年(1590年)8月9日、天下統一を成し遂げた。文禄3年(1594年)伏見城築城。慶長3年(1598年)8月18日、嫡男・秀頼の後事を家康ら五大老に託し、伏見城で病没。京都・東山の方広寺大仏殿の裏手、阿弥陀ヶ峰に埋葬されました。享年62歳。

寺田屋

薩摩九烈士碑・坂本龍馬銅像

坂本龍馬の碑

文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、おりょうさんとの恋宿としても知られています。

文久2年(1862)4月23日、寺田屋で闘死した薩摩藩士を明治維新のさきがけとして顕彰する碑です。薩摩藩士の有馬新七らは同藩主の父島津久光が上洛した事を機に、倒幕の兵を挙げようと寺田屋に集結したが,久光は鎮圧の為、同藩士を派遣し藩士同士の闘争に及んだ。世にこれを寺田屋事件という。闘死した9名は世に九烈士と称されています。

明治37年2月に坂本龍馬が昭憲皇后の夢枕に立ち、日露の戦いには自分の霊が海軍を守護するので心配ないと明言したという事が新聞に掲載され寺田屋伊助により霊山官祭招魂社(現京都霊山護国神社)の坂本龍馬墓所の傍らに坂本龍馬忠魂碑が建立された。寺田屋の忠魂碑は忠実な複製というより子碑であると言われています。

十石舟

桃山城

キャッスルランドの残影

伏見の春と秋の風物詩・・・宇治川派流と三栖閘門を往復します。

伏見城は、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に築城。この桃山城は、完全な復元ではなく、大天守閣は、姫路城を小天守閣は彦根城を参考にし名古屋城に近い規模で建てられました。かっての伏見城の北西に場所を移して、昭和39年(1964年)に竣工しました。

桃山城は、近鉄経営であったが、平成14年(2002年)1月末に閉園され、京都市に譲渡されました。平成15年(2003年)10月27日現在の遊園地・プールだった所が、更地になっていました・・・4度目の落城?!

八科峠

八科峠標石

古来、京都〜宇治へ抜ける「木幡道」として知られ伏見築城時に北へ移し道幅を拡張したのが現在の道路です。この峠を八科峠と呼び平治の乱で敗北した源義朝の愛妾・常盤御前(義経の生母)の逃亡を助けたという旧家の跡が残っているそうです。「木幡の関」という関所があったとされていますが現在ではその場所を特定することはできません。

「八科峠 右京みち 左六ぢぞう」と記された道標石です。八科峠は、伏見から宇治に出る古道の一つで昔はもっと急な坂道で、くぼみがたくさんある難路でした。「科」は、くぼみを意味します。

車石(逢坂山)

仏国寺

仏国寺開山高泉(こうぜん)碑

牛が荷車を牽き易い様に敷設した路面石で石溝は加工とも轍の跡とも言われ、水を流して滑り易くしていた様です。この車石は、東海道の逢坂山にあったものです。

延宝6年(1678年)黄檗宗本山万福寺の住職・高泉姓敦(こうぜんせいとん)禅師が御香宮神社・三木(そうぎ)宮司の菩提寺であった永光寺を再興し仏国寺としたものです。

亀と一体となった珍形の仏国寺開山高泉(こうぜん)碑が建っています。

仏国寺

小栗栖の里

後水尾天皇や4代将軍・家綱の尊崇を受け当時は多数の堂塔を有する大寺院であった。現在の本堂は昭和時代の再建である。名園家・小堀遠州の分骨された墓などがあります。

山科川を隔て石田の西北辺りで元は、宇治郡醍醐村に属しました。

弘法大師杖の水

小栗栖八幡宮

本殿

南小栗栖南端の小栗栖街道から西へ深草に抜ける山道があり、路傍に杖の水と刻まれた石仏があります。今も湧き出る清泉は弘法大師が杖の先で掘ったと伝えられています。

祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后で社伝によると清和源氏の祖である清和天皇の御代、貞観7年(865年)に武内宿禰(すくね)の子孫である紀古道に関東の守護を命じ、下向に際し男山八幡宮より祭神を勧請し小栗栖八幡宮として当地に建立され、小栗栖の産土神(うぶずながみ)として現在に至ります。

子安地蔵(こやすじぞう)

本経寺

本堂

地蔵尊の守護により、小栗栖には難産の人が少ないといわれます。元、本経寺の近くに粗末な祠(ほこら)がありましたが、日本三体地蔵の一つであることが分かりました。

日蓮宗の寺で永正3年(1508年)に創建されました。明智薮の近くには「本経寺檀林(だんりん)」があり,日蓮宗の道場として僧侶たちの研学施設になっていました。

明治初期までは、その門である「赤門」が残っていました。明智薮は、その後、所有する者は災いに陥るといわれ本経寺に寄進されました。

明智藪

小栗栖の里道

北小栗栖天神宮

天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は勝龍寺城から間道をとり伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃れる途中、当地にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えられている。碑には「信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により」云々と記されています。

山崎の合戦に敗れた光秀は、再起を期して近臣5,6人と夜陰に乗じて勝竜寺城を脱出、大亀谷を抜け坂本に向かったであろう小栗栖の風情ある里道です。

口伝によれば、法淋寺の創建時に鬼門除けとして天神社を建立されたと伝わる。法淋寺は藤原鎌足の長子・定恵の創建で天智天皇の御代(天智9年<670年>)以来、北小栗栖の産土神として崇敬されています。

北小栗栖天神宮・本殿

小栗栖の里(北小栗栖天神宮・本殿脇からの景色)

古くは、栗栖郷といい醍醐、石田、日野一帯をも含んで称されていました。

北小栗栖天神宮参道

明智塚(明智光秀胴塚)

吉利倶(キリク)八幡宮(山科・勧修寺)

急勾配で結構きつい石段です。

 

小栗栖で刺され自刃した明智光秀の胴体が埋められた所とされており、小栗栖街道の脇を入った精米所の横手にありますが、見つけにくいと思います。

小栗栖街道を北に向かうと伏見に抜ける大津街道(大岩街道)に行き着く手前にある古社で種子(梵字)を社名にした当社は、珍しいそうです。ここは、伏見を越え山科・勧修寺になります。

安産の神

天満宮

本殿

仁寿3年(853年)の勧請で応神・仲哀天皇・神功皇后を祭神とし勧修寺、小野の産土神です。昔、境内の老杉が風で倒れ板にすべく裁断したところ木面に阿弥陀如来の種子(梵字)"吉利倶"の3文字があった。その板を建てた事に因んで吉利倶八幡と称しました。この神社には、珍しく狛犬が見当たらず大矢(破魔矢?)がありました。

おぐりす灸

青空市(無人販売)

夕焼け

約200年ほど前、信仰深い老女が旅の虚無僧(こむそう)からこの灸の秘法を教えられたといわれています。元は深草にありましたが宝永年間(1704〜1711年)に当地に移されました。昭和初期には毎日200人〜1000人の行列ができたといわれています。

のどかな無人の青空店です。お買い得と思い(¥100〜50)柿、京野菜などをついつい沢山買いました。代金は、横の箱に入れます。双方の信頼関係で成り立つ商いの原点では?

JR奈良線と夕焼けとススキ

御香宮門前と大鳥居(大手筋通り)

表門(重要文化財)

石井(いわい:御香水)

大鳥居(写真左側)は、平成10年(1998年)9月22日、台風7号の強風を受け片方の柱が傾き、解体修理が必要となり神社、氏子、地元民などの努力と熱意によって平成11年(1999年)9月3日、無事再建されました。

旧伏見城の大手門で元和8年(1622年)徳川頼房(水戸藩々祖)の寄進。

御香宮の湧水で御香水として知られています。湧き水から良い香りが、漂った事からこの名が付いたそうです。また、この水を飲むと病が治ると伝わります。

御香宮

拝殿(京都府指定重要文化財)

御香宮は、伏見九郷(旧伏見町)の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。縁起には、諸説がありますが、筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、真説だと言われています。

紀州大納言・徳川頼宣公(徳川御三家・紀州藩祖)が、寛永2年(1625年)に寄進したものです。葵紋、豊臣桐紋、菊紋などがあります。伏見城の車寄せとも古御香宮の拝殿を移築したとも言われています。

割り拝殿・本殿

本殿(重要文化財)

神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑

こういった真ん中に参拝路のある形式の拝殿を割り拝殿と言います。

慶長10年(1605年)徳川家康が造営したものです。

社伝では貞観4年(862年)9月、境内に香り高い清泉が湧出し、薬用にもなったのでこの名が付けられた。清和天皇より「御香宮」の名を賜ったとあります。現在も本殿の脇から湧く御香水は、昭和60年(1985年)、環境庁の名水百選にも選ばれている名水です。

社務所

絵馬舎

献菊会

 

正保3年(1646年)に奉納したという猿回しの丸彫りをはめ込んだ大型の絵馬があり作者は、前田六之丞とも左甚五郎とも言われています。

丹精込められた菊花が展示されています。

能舞台

白菊石

伏見城郭残石

毎年4月17日、祭神 神巧皇后の命日に因んで、舞楽・仕舞が行われています。

昔、即成院の僧で御香宮に住んでいた仙人が常に白菊を食し変幻自在の仙術を極めこの石になったと伝える。傍に「仙人の昔のあとは白菊の千代のかほりに残りけるかな」と記した東久世通禧の歌碑があります。

伏見城の石垣の残石が無造作に積み置かれています。

桃山天満宮

菅原道真を祭神とする旧村社で天安2年(1445年)桃山の中腹にあった竜播山(りゅうばんざん)蔵光庵の鎮守社であったが、伏見城築城時、寺は嵯峨臨川(りんせん)寺の東に移り神社は、前田家の屋敷内に祀られました。伏見城の破却に伴い前田家も取り払いとなりましたが、神社のみ残りました。俗に「山の天神」といわれ久しく旧地にありましたが、天保12年(1841年)近鉄桃山御陵前駅の東(観音寺南側)に移転、後の昭和44年(1969年)11月、現在の御香宮境内に遷座されました。

参集殿

大鳥居基礎石

伏見義民石碑(勝海舟筆)

大手筋に建つ大鳥居の基礎石で約10tもある大鳥居を支えていましたが、平成10年(1998年)9月22日、台風7号の強風を受けて片方の柱が傾き、解体修理が必要となり神社、氏子、地元民などの努力と熱意によって平成11年(1999年)9月3日、無事再建され現在は鉄筋コンクリートの基礎となり参道脇に設置されています。

伏見義民は天明義挙とも言われ、天明5年(1785年)伏見奉行・小堀政方(まさみち)の悪政に抗議、伏見町民を救わんと死を賭して、直訴をした文珠九助など7名の義挙である。直訴は成功し、小堀奉行は失脚、一万余石の大名を失い、祖先の名園家・小堀遠州の名を汚しました。

奉納大工道具

天保12年(1841年)桃山天満宮の造営完成後、阪田岩次郎は造営に用いた大工道具一式(60点)を天満宮に奉納しました。伏見は、江戸時代の大工道具生産の先進地区で中屋、中谷、仲屋、仲谷などの鍛冶屋が活躍していました。現在は、御香宮が保管しています。

  Tourist  2003.10.27(M)

今回のコースは、「」No.5・古城山コースの続編的チャリンコ散策コースです。往復で峠越えにチャレンジしました。

秋を満喫できる小栗栖の里は、伏見にもまだ残っているのどかな里の秋を体験できました。

紅葉にはまだ早いですが、柿、水菜、唐辛子など旬の京野菜などを青空店(無人)で袋一杯にして峠を往復・・・

伏見にもまだまだ里の秋を満喫できる「明智越え」を堪能しました・・・北城堀公園を抜けるコースが、楽でした。

 

関連コラム

上醍醐散策その1

山の華道(はなみち)1

上醍醐散策その2

山の華道(はなみち)2

里の華道(はなみち)・伽藍散策

華の道

日野の里

日野の里

古の道(いにしえのみち)

古の道(いにしえのみち)

六地蔵・醍醐界隈

六地蔵・醍醐界隈

 

戻る 2003年!伏見クローズアップ散策のメニューページに戻る

 

inserted by FC2 system