深草、稲荷界隈

 

豊臣秀吉が造営した楼門(伏見稲荷大社)

 

稲荷山・四つ辻からの絶景

 

伊奈利社創祀前史(伏見稲荷大社)

欽明天皇が即位(539または531年)される前のことについて、『日本書紀』では次のように書かれています。

稲荷大神のご鎮座は秦伊呂巨(具:はたのいろこぐ)によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと

伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡については、ほとんど不明です。

しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところ

であったことは深草弥生遺跡に見ることができます・・・略

太秦の秦氏族は、記録上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、

深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し山城盆地を中心にして

御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです・・・

「昭和30年頃の稲荷・深草界隈の鳥瞰図」

 

稲荷山

一千年前に清少納言も足を運んだと言われている稲荷山・・・

稲荷山は「東山三十六峰」の、最南端に位置する霊峰(海抜233m)で

古くから三ケ峰と呼ばれてきたように三つの峰が西から東へと段々に高く連なり

これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地に相応しい山容をそなえています。

全国の稲荷信仰は、この神体山信仰に始まっていると言われています。

 

伏見稲荷

ランプ小屋(JR・稲荷駅)

伏見稲荷大社

伏見人形

明治12年(1879年)8月18日、京都、稲荷、山科(勧修寺)、大谷間13.1kmが仮営業され、JR稲荷駅の歴史が始まる。翌13年6月28日には逢坂山トンネルが開通し、京都・大津間が、開通。大正10年(1923年)、東山トンネルができ現路線に至るまで東海道線の路線でした。鉄道史の名残が赤煉瓦造りのランプ小屋である。

朝鮮半島(新羅地方)から渡来した秦伊呂具(はたのいろぐ)が豊作を祈り創建、「お稲荷さん」の総本社、本殿裏の稲荷山には千本鳥居があります。

5世紀中頃〜7世紀前半頃には、土器が造られ、土師部(はじべ:埴輪や土器を造る職人)が、奈良の菅原(西大寺の南)から移住して来た記録があります。遺跡も発掘されました。日本各地の土人形・郷土玩具の原型となりました。

 

稲荷は、稲荷信仰と共に稲荷大社の門前町として商業が、繁栄してきました。

伏見の町で京の都に一番近かった全国に有名な町です。

伏見で一番歴史ある商店街と言っても過言ではありません。

 

藤森神社

古御香(ふるごこう)宮社

延喜式外社(えんぎしきがいしゃ)で深草界隈の産土神として崇拝されています。社伝によれば神功皇后が、三韓征伐より凱旋後その旗と武器を納められた事が、起こりで境内にある旗塚は、それらを埋納した場所と伝え、天応元年(781年)、早良(さわら)親王は、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝を祈願されたと云う・・・よって、祭神を神功皇后とし竹内宿禰や早良親王など十二柱に及ぶ神々を奉祀している特異な神社で当社については、古来種々の伝説があります。

深草大亀谷古御香町にあり、文禄年間、豊臣秀吉が、伏見築城に際し御香宮神社を移築し伏見城の鬼門除けとして祀りました。神社は、伏見城の廃棄後に徳川家康によって現在の御香宮に遷されました。旧地は、古御香と云われ同社の御旅所となりました。

宝塔寺

深草十二帝陵

深草山鶴林院と称する日蓮宗妙顕寺派の寺で境内に日蓮・日朗・日像三代の遺骨を納めた塔が、ある事から宝塔寺と言います。応仁の乱で荒廃しましたが、天正18年(1590年)、日銀上人(日尭の弟子)によって再興されました。

深草北陵といい陵内に後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町(おほぎまち)、後陽成の12帝と栄仁(よしひと)親王のご遺骨を泰安しています。鎌倉〜桃山時代にかけての天皇で多くの天皇が、1ヶ所に奉葬されたところに当時の皇室の衰退を物語っています。

伏見大仏(毘盧遮那仏:びるしゃなぶつ)

仁明天皇深草陵

清涼山欣浄寺(伏見・墨染)のご本尊です。伏見の大仏と云われる丈六の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)です。

陵は、南面する方墳で周囲に空壕をめぐらし陵上に松樹が茂っています。陵は、後世その所在を失い江戸時代には、諸説粉々、容易に決定できなかったが、安永・天明頃に善福寺の住僧が東車塚とよぶ荒墳をを発掘、石棺や陶壺に入った乾元大宝の古銭を得た事から深草陵と決定し元治元年(1864年)修治されました。

塚本社跡

藤森古天王(皇)社

藤森神社の本殿内に合祀されている塚本社の旧鎮座地は、東山区本町通り16丁目で民家の裏側にあります。塚本とは、古墳の下方をいい、広くその付近をいう。古墳を信仰形態化し神として祀ったのが、塚本社です。

塚本社が藤森に移された所で古来は小天皇真幡寸(まはたぎ)神社と称されましたが応仁の乱で焼滅しました。文明2年(1470年:一説に永享10年)に現在の藤森神社に合祀されました。現在、お旅所とは、名ばかりで廃滅寸前の小祠があるだけです。

石峰寺

浄蓮華院(じょうれんげいん:江戸期まで桓武帝陵)

石峰寺は百丈山と号し黄檗宗の寺院で、薬師如来を本尊とします。平安中期の武将源満仲が摂津多田郷に建立した石峰寺が起源と伝わります。正徳3年(1713年)、黄檗宗・万福寺の六世・千呆(せんかい)によって創設されました。江戸中期に創建時は諸堂も有する大寺院でしたが大正15年(1915年)、昭和54年(1979年)に失火し、現在は本堂、竜宮造りの赤門などを残すのみである。現在の本堂は昭和60年(1985年)の再建です。本堂背後の山中には多くの石仏が並び、釈迦の誕生から涅槃(ねはん)に至るまでの一代を表現しています。これらは、江戸中期の画家・伊藤若沖(じゃくちゅう)が石峰寺の七代住職・蜜山(みつざん)の協力を得て下絵を描き、6〜7年余の歳月をかけて石工に彫作させたと伝わります。

天台宗妙法院末寺院で洋風建築の本堂には阿弥陀如来像を安置しています。境内の後に俗に谷口古墳と称する一堆の円墳があり江戸時代の頃、桓武天皇御陵と言われていました。文政4年(1821年)、比叡山の僧・尭覚は有栖川韻仁(つなひと)親王を奉戴して一宇を草創し浄蓮華院と号しました。万延元年(1860年)、その弟子・尭雄は御影殿を建てて天皇の菩提を弔ったが明治になり種々検討された結果、御陵は単なる伝説に過ぎないと判定されましたが未だに桓武天皇御陵地には諸説がありミステリーとされています。又、当院は幕末期に勤皇派の飯田忠彦が隠栖し「野史」291巻を執筆した所であり彼が参考資料を移しとり書き留めた手記などが当寺に保管されています。

茶碗子ノ水(ちゃわんこのみず)

ぬりこべ地蔵

石峰寺の門前より西へ約100mの地蔵堂の下にある古井戸で口碑によれば都に住む茶人が、下男に宇治橋より宇治川の水を汲ませて茶の湯に用いてたそうです。ある時、下男が、宇治からの帰途、ここの門前で水をこぼしてしまいました。代わりにここの水を汲み持ち帰ったが、茶人に見破られました。下男は、恐縮し一部始終を茶人に話しました。茶人は、宇治川の水より勝ると褒め称えその後茶の湯は、ここの水を用いる事となり下男は、宇治迄使いする労が、省けたそうです・・・この地は、石峰寺の二代目住職・石門が、法蔵庵を建てて隠居所としましたが、明治初期に廃寺となり井戸のみが、残りました。一説にそれより古くこの付近にあった歓喜心院の井戸水とも云われています。

稲荷大社より東南へ約200mにあります。歯痛祈願の筆頭で歯痛の平癒を祈ったハガキが、全国から寄せられ小さな堂内にハカギが山積みにされています。元は、直違橋通りの浄土宗・摂取院の境外墓地にあって塗り込めの堂宇に安置されていた事からこの名があり、塗り込めを病気を封じ込めるという意として信仰が生じたと云われています。この辺りで細川ガラシャの次男・細川興秋が自刃したとも伝えます。

 

雀のお宿

うずらの里

伏見街道の東側の鍵本家をいう。口碑によれば同家祖先が、庭先に飛来した1羽の雀を救い餌を与えて放ってやった事から雀の集まる所となり主が、瓢箪に穴を開け藁を敷き寝ぐらとし、軒端に吊り下げました。たちまち雀が、巣付いたので台所や屋根裏に至る迄、大小200余の瓢箪を吊り下げました。夕刻頃の賑やかさは、深草の名所の1つとなりました。戦中、戦後、食糧難から餌不足になったり住宅街となり雀は、寄り付かなくなり、空き巣となった瓢箪が、侘しく揺れていて、ありし日の雀のお宿を物語ったそうです。27、8年前にお宿(家屋)を建替えられ当時の面影は、ありませんが、中庭に僅かの瓢箪を吊るされています・・・「秋風に揺れて瓢(ひさご)の雀留守」・・・義生

平安時代、深草、藤森界隈は、草が大変に茂っていて雀、うずら、ひばりなどの鳥が、沢山いて、この界隈を"うずらの里"(枕詞)と云いました・・・「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里(千載和歌集・藤原俊成)」、「秋をへてあはれも露も深草の里とふ物はうづらなりけり(新古今集)」、「深草や竹の葉山の夕霧に人こそ見えね鶉鳴くなり(続古今集・藤原家隆)」など多くの和歌で歌われています。王朝歌人始め在原業平もしばしばこの地に住むほど鶉や月の名所として嵯峨にも劣らなかったと伝えます。

 

饅頭喰い(まんじゅうくい)

布袋(ほてい)

子供が、両手に饅頭を持って立っている伏見人形。ある人が、子供に「父と母のどちらが好きか?」と尋ねたところ、持っていた饅頭を2つに割って「あなたは、どっちが旨いか?」と答えたという・・・伏見人形を代表する人形です。

伏見人形で右手に団扇を構え左手に袋を提げた人形で大小数種類あります。毎年初午の日に買い求め背中に火の字を記し荒神棚に祀っておくと火難を除くと云われ"火防の布袋"とも言います。初年に一番小さい布袋を安置し逐年大きい布袋にして行き7対又は、12対を揃えると満願成就となる。満願迄に凶事があるとそれ迄集めた布袋は、全部川に流し改めて揃え始めるという古風習があります。

おもかる石

布袋と共に伏見人形で稲荷大社に因んで作られました。小判乗り、俵乗り、猪乗り、御幣持ち、千両箱持ち、小鍛冶、馬曳きなどさすがに多種類あります。

稲荷大社のお山参道の命婦社の前にあり手水舎の傍にある石灯籠の宝珠をいいます。この石を持ち上げて軽ければ願い事が叶い、重ければ叶わないと云われる一種の神占石です。

 

直違橋(すじかいばし)

つぼつぼ、かまかま

伏見街道の七瀬川に架かる橋を言います。橋が、道路に斜めに架けられている事からこの名前である。伏見街道を直違橋通りというのは、この橋に因るもので南の1丁目〜北へ11丁目迄あり文禄年間に豊臣秀吉が、伏見築城に際し開通させたと云われています。

つぼつぼは、壺を2個又は、3個重ねたものをいい、かまは釜の事で、いづれも女の子の遊戯に用いた玩具です。

でんぼ

柚(ゆず)

子供の遊戯用の菓子入れで素焼きの皿に丹、緑、青、群青で縁を彩り、大中小の3つ重ねになっています。"丁稚でんぼ、稲荷の土産、落とせば割れる"とは、昔に京童達に歌われた俚言です。

柚子の形をした菓子容器でチョロ、成田屋人形、西行法師、おぼこ、撫牛(なでうし)、蔵、天神、猫、鳩などがありました。往事の風俗や民話を人形化したものです。

 

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