近代の夜明けは伏見から・・・ |
幕末、政治の中心が京都に移ることによって、その外港としての伏見の重要性が益々高まっていった。そんな中で起こった文久2年(1862年)の寺田屋事件、慶応2年(1866年)に成立した薩長同盟などは、日本の夜明けの布石となった。坂本龍馬が伏見の寺田屋を拠点として全国的な活動をしたことは、あまりに有名です。そして、慶応4年の正月三日、下鳥羽の小枝橋付近で爆裂したアームストロング砲の号砲一発を契機に鳥羽、伏見の戦いが始まった。旧幕府軍は一進一退を繰り返しながらジリジリと薩長軍に押されて遂に、旧大坂街道を淀方面へ敗走した。この時、軍事上の重要性から設けたはずの、しかも時の老中職にあった藩主を戴く淀藩が旧幕府軍の入城を拒絶して旧幕府方を見捨てた。歴史とは非情なものです。この年の9月8日、慶応から明治と年号が改められ、天皇は京都を後に東京へ向かった。・・伏見と淀はこの戦いで市街地の大半を焼失し幕府の直轄地としての地位まで失くしたので凋落は激しかった。明治10年(1877年)、神戸〜京都に鉄道が開通し七条停車場(現在の京都駅)が開設されると交通要地としての機能も著しく縮小された。その後、しばらくは伏見〜大阪間を川蒸汽船が就航していたが、明治43年(1910年)、京阪電鉄が大阪〜伏見を経由して京都に施設されると完全に廃絶された。このような中でも伏見の復興が幾つも見られて明治6年(1873年)、官営伏水製作所が近代科学の粋を投入され向島に開設され機械工具の製作にあたったり、琵琶湖疏水をインクラインで介して伏見城外堀に連結させて遠く北陸の物資を最短距離で関西へ運ぶようにしたが、加速度的に発展する近代化の波になじめず成果は十分に上がらぬままに終わった。 |
酒処の町・伏見 |
||
城下町、港町、宿場町として繁栄した伏見の町も鳥羽伏見の戦いで町の大半が焼かれましたが、南浜界隈は江戸末期から明治、大正にかけて作られた酒蔵が点在し、酒造りが行われています。伏見港のあった場所は平成6年に整備され、水と親しめる緑あふれる散策公園となりました。近年十石舟も春と秋に運航し、三十石船が行き交った往時の賑わいを感じさせます。 |
||
伏見百景の一・酒蔵 |
酒蔵 |
桜と宇治川派流と酒蔵 |
伏見は酒処、名水処 |
||
伏見の酒造りは古くから行われてきましたが、生産量が著しく増加したのは江戸時代になってから。良質の米を産出する近江に近く、できた酒を運ぶのに水運が発達していたこと。また、京の底冷えと呼ばれる冬、寒さの厳しい気候風土が寒造りの伏見酒に適していたことがあげられます。しかし、伏見酒の味の良さは、桃山丘陵から流れくる地下水「伏水」が豊かであったことです。現在でもその水質は変わることなく脈々と地下の奥深く流れています。 |
||
伏見の町は酒蔵の風情がよく似合う |
軍隊の町・伏見 |
||
明治〜大正のはじめにかけて深草の町に陸軍の施設ができました。明治31年(1898年)に歩兵第三八連隊、第十九旅団司令部、京都連隊区司令部などが置かれ、明治41年にはこれらを統括する第十六師団司令部が設けられるなど、次々に軍の施設が設置され、静かな田園地帯は兵舎に変わっていきました。師団街道は京都の市街と軍の施設を結ぶ道路として開かれたもので、軍用物資や兵隊などを運ぶ重要な道でした。この師団街道と交差する道、第一軍道は龍谷大学深草学舎前の道で、第二軍道は師団司令部の置かれた聖母女学院に通じる道、第三軍道は師団街道から大岩街道(大津街道)に至る道で、いずれの軍道も京阪電車や疏水と立体交差する当時としては近代的なものでした。戦後、軍用施設は大学や病院、住宅などに変わり、新しい街づくりに活用されました。 |
||
京都歩兵連隊跡(藤森神社) |
伏見工兵第十六大隊跡碑 |
旧16師団本部司令部庁舎跡(聖母女学院) |
日本で最初にチンチン電車が走った街・伏見 |
明治28年(1895年)2月1日、日本で初の京都電気鉄道によって電気鉄道(路面電車:七条〜油掛町)として伏見線が開通しました。明治45年(1912年)に市営路線開通後の大正7年(1918年)に京都市が、受け継ぎ昭和53年(1978年)9月末に全線廃止になる迄の約80年間市民の貴重な交通手段として活躍しました。 |
軍隊と酒処伏見 |
||
衰退の一途をたどる伏見に歯止めをかけたのが明治31年(1898年)、この地に設置された歩兵38連隊、第19旅団司令部、京都連隊区司令部の軍隊である。明治41年(1908年)にこれらを統括する第16師団が深草に置かれ田畑はみるみる兵舎や練兵場へと変貌していった。師団司令本部は直違橋5丁目にあって今は、聖母女学院本館として様式のクラシカルな重厚なレンガ造りの容姿を誇ってる。京都駅と連絡する道路は師団街道とも呼ばれて当時しては珍しい二車線でした。また奈良電鉄(現在は近鉄電鉄)の宇治川に架かる鉄橋が工兵第16大隊の渡河訓練の邪魔になるということで、ドイツから技師を召還して橋脚が一本もない現在の高架式鉄橋が完成した。目新しさと軍部の需要に応ずる為に商工業者らが各地から雲集して旧城下町のように再び活気を取り戻すこことなった。そんな中で、伏見の新しい経済基盤として伏見の酒が登場した。灘に次ぐ酒処として知られる伏見の酒は既に江戸初期にはかなりの生産量を誇っていた。それは伏見には豊富な地下水に恵まれていたこと、京・大阪など大都市を近くに持っていたこと、その上交通の要所であったことも大きな原因でした。しかし、日露戦争後の飛躍的な発展には遠く及ばない。そして酒造業者も大規模なものが多く、月桂冠、金鵄正宗、神聖、名誉冠、日の出盛など軍隊好みの銘柄からみて軍隊への納品が、かなり多かった事を物語っている。酒の味は、伏見独特の地下水が芳醇な甘さを出す原因となっているが、それ以上に業者の絶えざる研究と努力が積まれて今や天下に轟く名酒となっている。 |
||
当時、奈良電鉄の鉄橋橋脚が工兵十六大隊の渡河演習の邪魔になるとドイツから技師を招いて橋桁が一本もない高架式鉄橋を作らせた近鉄・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) |
伏見の新風 |
||
近世以来、伏見の興亡と歩みを共にしてきた淀町も大正年間になって敷地606ha、鉄筋コンクリート造りの壮大な競馬場を開設し沈滞していた町に近代化の好景気の風を送り込んだ。かつて、伏見の顔であった交通機関だは旧伏見城跡に明治天皇御陵が造営された関係で戦前、国鉄・伏見桃山駅やその付近が賑わったが戦後は京阪電車と近鉄電車が交叉する丹波橋駅が便利になり桃山丘陵や向島がベットタウンとして団地や住宅が増加して京都、大阪への通勤者が増え続けている。一方では道路開発は目覚しく近郊農業地帯としての役割を果たしてきた鳥羽・竹田地区をも一変させ前者は住宅地、後者は洛南工業地帯を作り出しました。伏見の歴史を振り返ると伏見は不死身である。幾多の歴史の激変に翻弄されつつも、そこから学び京都同様の歴史と伝統を維持しながら新しい街づくりに悠久の生命を生き続けているのです。 |
||
明治時代〜昭和30年頃の京阪電車 |
||
京阪電車・八幡木津鉄橋 |
京阪電車・稲荷新道駅現・伏見稲荷駅) |
昭和30年頃まで使用された木造車両 |
日本一の淀競馬場 |
||
わが国の競馬場の中で最大かつ最高の施設規模を誇るのが淀の京都競馬場である。ここは元、紀伊郡納所村に属する葭原であったが、淀町の発展のために統合されました。大正13年(1924年)丹波の船井郡須知(しゅうち)の山間にあった競馬場が引っ越した。トラック中央が池になっており真ん中に位置する小島に弁才天を奉っている。池は旧宇治川の河川道であり弁才天は宇治川の守護神とも言われる伏見の長建寺弁才天の分身と言われる。 |
||
JRA:京都競馬場(淀競馬場) |
新しく高架駅になった京阪電車・淀駅 |
↓時代別リンクで見ていただくと便利です。
コラム「伏水物語」時代別リンク |
「室町時代」 「安土桃山時代」 「江戸時代(前半)」 「江戸時代(後半)」 「鳥羽・伏見の戦い」 「戊辰戦争」 「新撰組」 「明治維新〜近代」 |