コラム「伏水物語」

 

 

明治維新〜近代の伏見】

千年の都として栄えた京都は、明治2年(1869年)の東京遷都によって、35万人あった人口が25万人に激減、活力を取り戻す為の振興策のひとつが琵琶湖疏水の建設。工事は明治18年(1885年)に着工、延べ400万人が従事、総工費125万円。同23年に約20kmの第1疏水(琵琶湖〜鴨川)が完成し、琵琶湖から流れ出た水が京都の中心部から鴨川に沿って南下、伏見城の外堀であった濠川との合流地点ではインクライン(傾斜鉄道)によって船を相互に運び入れました。これにより、大津〜京都〜大阪が船によって結ばれ、物資輸送が盛んに行われました。

 

伏見のシンボル・伏見桃山城

 

太閤秀吉が築いた城下町・伏見は古来、賑わった水運の町、酒処の町そして商業の町

豊臣秀吉が築いた城下町・伏見。江戸時代には三十石船が往来する港町として栄えた。

今も昔ながらの酒蔵が点在する酒作りの町は商店街が連なる賑わい通り・・・

 

洛南最大のショッピングゾーン

昭和30年代の風呂屋町・大手筋・納屋町商店街・・・大手筋にアーケードがなかった時代

現在(平成23年9月)の風呂屋町・大手筋・納屋町商店街

 

近代の夜明けは伏見から・・・

幕末、政治の中心が京都に移ることによって、その外港としての伏見の重要性が益々高まっていった。そんな中で起こった文久2年(1862年)の寺田屋事件、慶応2年(1866年)に成立した薩長同盟などは、日本の夜明けの布石となった。坂本龍馬が伏見の寺田屋を拠点として全国的な活動をしたことは、あまりに有名です。そして、慶応4年の正月三日、下鳥羽の小枝橋付近で爆裂したアームストロング砲の号砲一発を契機に鳥羽、伏見の戦いが始まった。旧幕府軍は一進一退を繰り返しながらジリジリと薩長軍に押されて遂に、旧大坂街道を淀方面へ敗走した。この時、軍事上の重要性から設けたはずの、しかも時の老中職にあった藩主を戴く淀藩が旧幕府軍の入城を拒絶して旧幕府方を見捨てた。歴史とは非情なものです。この年の9月8日、慶応から明治と年号が改められ、天皇は京都を後に東京へ向かった。・・伏見と淀はこの戦いで市街地の大半を焼失し幕府の直轄地としての地位まで失くしたので凋落は激しかった。明治10年(1877年)、神戸〜京都に鉄道が開通し七条停車場(現在の京都駅)が開設されると交通要地としての機能も著しく縮小された。その後、しばらくは伏見〜大阪間を川蒸汽船が就航していたが、明治43年(1910年)、京阪電鉄が大阪〜伏見を経由して京都に施設されると完全に廃絶された。このような中でも伏見の復興が幾つも見られて明治6年(1873年)、官営伏水製作所が近代科学の粋を投入され向島に開設され機械工具の製作にあたったり、琵琶湖疏水をインクラインで介して伏見城外堀に連結させて遠く北陸の物資を最短距離で関西へ運ぶようにしたが、加速度的に発展する近代化の波になじめず成果は十分に上がらぬままに終わった。

 

幕末維新のステージ・伏見

坂本龍馬ゆかりの寺田屋

坂本龍馬像と薩摩九烈士(寺田屋騒動)顕彰碑

西郷隆盛筆の墓碑(右手前)と薩摩九烈士の墓

伏見奉行所跡 伏見の戦跡碑(御香宮 鳥羽伏見戦の弾痕のある窓格子

 

酒処の町・伏見

城下町、港町、宿場町として繁栄した伏見の町も鳥羽伏見の戦いで町の大半が焼かれましたが、南浜界隈は江戸末期から明治、大正にかけて作られた酒蔵が点在し、酒造りが行われています。伏見港のあった場所は平成6年に整備され、水と親しめる緑あふれる散策公園となりました。近年十石舟も春と秋に運航し、三十石船が行き交った往時の賑わいを感じさせます。

伏見百景の一・酒蔵

酒蔵

桜と宇治川派流と酒蔵

 

伏見は酒処、名水処

伏見の酒造りは古くから行われてきましたが、生産量が著しく増加したのは江戸時代になってから。良質の米を産出する近江に近く、できた酒を運ぶのに水運が発達していたこと。また、京の底冷えと呼ばれる冬、寒さの厳しい気候風土が寒造りの伏見酒に適していたことがあげられます。しかし、伏見酒の味の良さは、桃山丘陵から流れくる地下水「伏水」が豊かであったことです。現在でもその水質は変わることなく脈々と地下の奥深く流れています。

伏見の町は酒蔵の風情がよく似合う

 

軍隊の町・伏見

明治〜大正のはじめにかけて深草の町に陸軍の施設ができました。明治31年(1898年)に歩兵第三八連隊、第十九旅団司令部、京都連隊区司令部などが置かれ、明治41年にはこれらを統括する第十六師団司令部が設けられるなど、次々に軍の施設が設置され、静かな田園地帯は兵舎に変わっていきました。師団街道は京都の市街と軍の施設を結ぶ道路として開かれたもので、軍用物資や兵隊などを運ぶ重要な道でした。この師団街道と交差する道、第一軍道は龍谷大学深草学舎前の道で、第二軍道は師団司令部の置かれた聖母女学院に通じる道、第三軍道は師団街道から大岩街道(大津街道)に至る道で、いずれの軍道も京阪電車や疏水と立体交差する当時としては近代的なものでした。戦後、軍用施設は大学や病院、住宅などに変わり、新しい街づくりに活用されました。

京都歩兵連隊跡(藤森神社)

伏見工兵第十六大隊跡碑

旧16師団本部司令部庁舎跡(聖母女学院)

 

日本で最初にチンチン電車が走った街・伏見

明治28年(1895年)2月1日、日本で初の京都電気鉄道によって電気鉄道(路面電車:七条〜油掛町)として伏見線が開通しました。明治45年(1912年)に市営路線開通後の大正7年(1918年)に京都市が、受け継ぎ昭和53年(1978年)9月末に全線廃止になる迄の約80年間市民の貴重な交通手段として活躍しました。

明治28年頃)の京電・京都駅前の市中電車停車場 二代目・京都駅前から発着する市 伏見・稲荷線の勧進橋・・・勧進橋〜稲荷間の開通は明治37年8月

明治時代、京都電気鉄道の油掛停留所の南にある京橋から淀川汽船に乗り大阪八軒茶屋へと連絡する文明開化の最先端としてのターミナルでした。大正3年(1914年)、京阪電車と連絡する為に中書島まで延長され同7年(1918年)に市電となりました。

伏見線の油掛停留所 日本初の電気鉄道発祥の地碑(伏見・油掛停留所跡) 中書島停留所(京阪中書島駅)
伏見線から稲荷線へ(勧進橋) 伏見線・土橋鉄橋(濠川) さよなら伏見線の花電車
伏見に現存する二両の市電車両1800型

 

水運の町・伏見

豊臣秀吉の死後、天下を掌握した徳川家康は伏見城に留まり、幕府体制を強化していきました。伏見の町は幕府の直轄地となり、伏見城下は御座船や過書船の淀川三十石船と呼ばれる旅人専用の乗合船、米や薪炭などを満載した大小の船で賑わいました。船の発着場は京橋、蓬莱(ほうらい)橋、阿波(あわ)橋、平戸橋などにあり、現在の宇治川派流域は伏見浜と呼ばれ、主に荷揚げ場として伏見伝馬所が置かれました。さながら、物資が溢れる流通基地の役割を果たしていました。また伏見は伏見港のある京橋周辺が中心で、参勤交代をする西国大名の発着地となりました。本陣は南浜町、山崎町にそれぞれ2軒、脇本陣は京橋と南浜にそれぞれ1軒、旅籠は大小あわせて39軒あったといわれています。坂本龍馬が幕府の捕り手に襲撃され、恋人お龍の機転により危うく難を逃れた寺田屋が南浜にある。

伏見港、宇治川派流(濠川)を航行する外輪の蒸気船(明治後半〜大正期頃) 淀川を航行する外輪の蒸気船(昭和初期頃)

明治3年(1870年)、淀川〜宇治川航路に外輪の蒸気船が就航し、汽船運航時代を迎えました。明治9年(1876年)、大阪〜京都間が鉄道で結ばれ貨客が大幅に減少しましたが、明治の中頃まで、大阪湾〜京都の伏見港を往来する船運は、主要な輸送手段でした。

淀川を航行する外輪の蒸気船(昭和初期頃) 三十石船 十石舟
 

わが国唯一で最大の内陸河川港・伏見港

わが国唯一の内陸河川港・伏見港の今昔
伏見港鳥瞰図(昭和30年代)

 

豊臣秀吉が開港したわが国唯一で最大の内陸河川港「伏見港」と三栖閘門

伏見港・・・文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。三栖閘門・・・伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

豊臣秀吉が開港した内陸河川港・伏見港

伏見のパナマ運河と呼ばれた三栖閘門
角倉了以(すみのくらりょうい)の高瀬川開削

徳川家康は御朱印船(ごしゅいんせん)貿易で活躍していた角倉了以(すみのくらりょうい)から申し出のあった高瀬川の開削を許可し、慶長19年(1614年)に京都〜大坂が水運により結ばれると、伏見港に船が集中するようになり、高瀬舟の数も元禄時代に入ると128隻に増えるなど伏見はその中継地、京都の南玄関口として益々発展しました。京橋界隈には、米、材木、薪炭などを取り扱う問屋、廻船問屋が立ち並び、京橋北詰には高札場、南詰には過書船(かしょぶね)番所、船番所、船高札場などがありました。

角倉了以像(嵐山・亀山公園) 高瀬川を開削した角倉了以水利紀功碑 角倉了以が開削した高瀬川

 

軍隊と酒処伏見

衰退の一途をたどる伏見に歯止めをかけたのが明治31年(1898年)、この地に設置された歩兵38連隊、第19旅団司令部、京都連隊区司令部の軍隊である。明治41年(1908年)にこれらを統括する第16師団が深草に置かれ田畑はみるみる兵舎や練兵場へと変貌していった。師団司令本部は直違橋5丁目にあって今は、聖母女学院本館として様式のクラシカルな重厚なレンガ造りの容姿を誇ってる。京都駅と連絡する道路は師団街道とも呼ばれて当時しては珍しい二車線でした。また奈良電鉄(現在は近鉄電鉄)の宇治川に架かる鉄橋が工兵第16大隊の渡河訓練の邪魔になるということで、ドイツから技師を召還して橋脚が一本もない現在の高架式鉄橋が完成した。目新しさと軍部の需要に応ずる為に商工業者らが各地から雲集して旧城下町のように再び活気を取り戻すこことなった。そんな中で、伏見の新しい経済基盤として伏見の酒が登場した。灘に次ぐ酒処として知られる伏見の酒は既に江戸初期にはかなりの生産量を誇っていた。それは伏見には豊富な地下水に恵まれていたこと、京・大阪など大都市を近くに持っていたこと、その上交通の要所であったことも大きな原因でした。しかし、日露戦争後の飛躍的な発展には遠く及ばない。そして酒造業者も大規模なものが多く、月桂冠、金鵄正宗、神聖、名誉冠、日の出盛など軍隊好みの銘柄からみて軍隊への納品が、かなり多かった事を物語っている。酒の味は、伏見独特の地下水が芳醇な甘さを出す原因となっているが、それ以上に業者の絶えざる研究と努力が積まれて今や天下に轟く名酒となっている。

当時、奈良電鉄の鉄橋橋脚が工兵十六大隊の渡河演習の邪魔になるとドイツから技師を招いて橋桁が一本もない高架式鉄橋を作らせた近鉄・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)

 

伏見の近代化

伏水製作所とは、明治6年(1873年)、京都市が勧業政策の1つとして設立した鉄工場で伏水鉄具製工場、伏見鉄工所、伏見製鉄所ともいわれた。宇治川を利用し水車動力で農機具、織機、印刷機、蒸気機械などを製作していた当時最新最大の模範工場で明治天皇も親しく行幸された。府の政策転換により明治14年(1881年)に明石博高に譲られたが、明治22年(1889年)頃に経営難により閉鎖されました。

明治天皇御駐輦所製工場跡

 

墨染発電所(インクライン跡)

豊臣秀吉が伏見城の築城時に外堀として開削した濠川と、疎水の水運に役立てる為に明治27年(1894年)、インクライン(傾斜鉄道)で両川を連結しました。完成した当時、1日に100隻もの船を上げ下げしたと伝える。しかし、戦後使用されなくなり、昭和34年(1959年)、レールも撤去されました。一方では、疎水と濠川の落差を利用した発電を目的に墨染発電所ができました。その電気を、日本最初の「チンチン電車」として伏見〜京都間を走った電車に供給しました。現在も発電されており伏見界隈などに送電されています。

琵琶湖疏水と墨染発電所(インクライン跡)

 

伏見の新風

近世以来、伏見の興亡と歩みを共にしてきた淀町も大正年間になって敷地606ha、鉄筋コンクリート造りの壮大な競馬場を開設し沈滞していた町に近代化の好景気の風を送り込んだ。かつて、伏見の顔であった交通機関だは旧伏見城跡に明治天皇御陵が造営された関係で戦前、国鉄・伏見桃山駅やその付近が賑わったが戦後は京阪電車と近鉄電車が交叉する丹波橋駅が便利になり桃山丘陵や向島がベットタウンとして団地や住宅が増加して京都、大阪への通勤者が増え続けている。一方では道路開発は目覚しく近郊農業地帯としての役割を果たしてきた鳥羽・竹田地区をも一変させ前者は住宅地、後者は洛南工業地帯を作り出しました。伏見の歴史を振り返ると伏見は不死身である。幾多の歴史の激変に翻弄されつつも、そこから学び京都同様の歴史と伝統を維持しながら新しい街づくりに悠久の生命を生き続けているのです。

明治時代〜昭和30年頃の京阪電車

京阪電車・八幡木津鉄橋

京阪電車・稲荷新道駅現・伏見稲荷駅)

昭和30年頃まで使用された木造車両

 

日本一の淀競馬場

わが国の競馬場の中で最大かつ最高の施設規模を誇るのが淀の京都競馬場である。ここは元、紀伊郡納所村に属する葭原であったが、淀町の発展のために統合されました。大正13年(1924年)丹波の船井郡須知(しゅうち)の山間にあった競馬場が引っ越した。トラック中央が池になっており真ん中に位置する小島に弁才天を奉っている。池は旧宇治川の河川道であり弁才天は宇治川の守護神とも言われる伏見の長建寺弁才天の分身と言われる。

JRA:京都競馬場(淀競馬場)

新しく高架駅になった京阪電車・淀駅

 

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