Column「伏水物語」

 

【新撰組】

「京都が舞台 新撰組ただいま参上!」より

鬼の副長として恐れられた土方歳三

新撰組局長・近藤勇

一番隊組長・沖田総司

【新撰組】

日野が所縁の地、壬生で生まれて伏見が終焉の地?!〜

文久3年(1863年)2月、浪士隊は上洛後、分離し京都守護職に上申、幕末の都の地を警護し倒幕派浪士などを震憾させたのが

新撰組でした。中心となったのが、近藤勇、土方歳三、沖田総司(そうじ)、井上源三郎といった日野宿(東京都日野市)に所縁のある

者達で彼らは、「天然理心流・試衛館」という剣術や道場を通して結ばれた武士集団であった。新撰組は、京都の市中見廻り、不逞

浪士などの取り締まりなどを遂行していたが、池田屋事件後、隊の強化の為に隊士の増員、調練の強化、屯所の移転拡大などを行い

ました。幕政にも関わるようになり長州への糾問使である大目付・永井尚志に近藤勇ら幹部が広島迄同行しています。一方では

隊内での対立も多く、総長・山南(さんなん)敬介の切腹を始め伊東甲子太郎(かしたろう)一派(御陵衛士・高台寺党)の分派など抗争や

粛清があった事も事実です。慶応3年(1686年)6月、正式に幕臣として取り立てられ見廻組と同格となりましたが、この頃は、大政奉還に

向けて薩摩藩と土佐藩で盟約が結ばれるなど幕府の権威はすでに大きく失墜し始めていました。慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が

二条城で大政奉還を表明し、慶応3年(1867年)11月〜12月にかけ伊東甲子太郎(かしたろう)ら高台寺党を油小路で襲撃したり、

坂本竜馬暗殺を紀州藩士・三浦休太郎らの仕業と疑う海援隊々士らに天満屋で報復攻撃を受けたり12月18日、近藤勇が

伏見街道の墨染〜丹波橋北辺りで高台寺党の残党・篠原泰之進らに銃撃され肩を負傷したりと事件が相次ぎました。同年12月16日、

伏見奉行所を最後の屯所として布陣。慶応4年(1868年)1月3日、戊辰戦争の開戦となった鳥羽・伏見の戦いに幕臣として臨みました。

「八.一八の政変」後、京都守護職・松平容保(かたもり)の配下(会津藩御預り)へ・・・

壬生義士伝を巡る旅

 

京都守護職・第9代会津藩主・松平容保(かたもり)

美濃高須藩主・松平義建の第六子として誕生。弘化3年(1846年)、12歳で会津8代藩主・松平容敬(かたたか)の養嗣子となり(容敬も高須松平家から養子に入っており、容保の叔父にあたる)、嘉永5年(1852年)2月、容敬の病死により9代藩主に18歳で就任した。動乱の幕末時に京都守護職を勤め、徳川や朝廷に至誠を尽くすが、朝敵の汚名を着せられ、明治維新の人柱とされました。戊辰戦後、明治13年(1880年)2月2日、第5代・東照宮宮司に就任しました。

新撰組の鉄の掟『局中法度』

 
燃えよ剣

『新撰組誕生』

文久2年(1862年)、黒船来航により徳川幕府への倒幕運動、尊王攘夷の機運が高まった。幕府は最初は反幕勢力への弾圧を行った

が、尊王攘夷派による大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)により、天皇家との和睦・協調路線(公武合体策)に転換し、孝明天皇の

妹・和宮と14代将軍・家茂と結婚させ、会津藩主・松平容保を京都守護職に任命し京都の治安維持にあたらせた。幕府は清河八郎

などで浪士隊を結成し京都に入洛させたが、清河八郎が尊攘派と分かり、浪士隊は江戸に返されたが京都に残った浪士達もいました。

孝明天皇は公武合体派であったが、朝廷の主導権を握っていたのは尊王攘夷派であり、同調する長州藩と通じていました。

文久3年(1863年)8月18日、会津藩は薩摩藩と共に尊攘派の公卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、沢宣嘉、壬生基修、四条

隆謌、錦小路頼徳の7名)と長州藩を京都、朝廷より失脚させました(八.一八の政変、七卿落ち)。この時、芹沢鴨、近藤勇らが率いる

浪士隊も「撰組」と名付けられ出陣しました。正式に京都守護職の配下となり京都の治安維持に努めました。幕府は桑名藩主・松平

定敬(容保の弟)を京都所司代に任命し、長州征伐と尊攘派志士の弾圧に乗りだしました。同年9月、以前から対立していた3人の局長

で新見錦は、切腹。芹沢鴨、平山五郎共々近藤らの手で暗殺し水戸派を粛清し、以後5年間を局長・近藤勇、副長・土方歳三の

体制で京都市中を取り締まりました。元治元年(1864年)7月19日、伏見から進軍した長州藩兵と、守備していた大垣藩兵が伏見街道

の伏見稲荷辺り(一本松)で交戦し黒門を守備した新撰組も援軍として交戦した「禁門の変」が勃発しました(会津藩の守備した蛤御門が

最激戦地だったので、「蛤御門の変」とも言います)。慶応3年(1867年)12月、王政復古の大号令と共に京都所司代が廃止されました。

新撰組も「新遊撃隊御雇」と改称して、大阪へ向かいました。同年12月16日、伏見奉行所に布陣、鳥羽伏見の戦いに参戦し奮闘し

ますが、薩長軍の最新の砲火兵器にはかなわず、多数の死傷者が続出しました。伏見奉行所〜淀〜大阪城へ退却しました。

更に大阪・天保山から幕府軍艦・富士山丸で江戸へ東帰する事になり、新撰組は、この鳥羽・伏見の戦いで終焉しました。

 

大河・新選組 『新選組を行くNo.27【京都池田屋へ】』

新選組隊士名鑑

新撰組局長・近藤勇

天保5年(1834年)〜慶応4年(1868年)
副長・土方歳三

天保6年(1835年)〜明治2年(1869年)
総長(元副長)・山南敬介

天保4年(1833年)〜元治2年(1865年)2月23日

天然理心流の宗家で新撰組局長として活躍。武蔵国の農家に生まれ、天然理念流近藤周助の養子となり、道場を継承。文久3年(1863年)、幕府浪士隊に土方歳三、沖田総司らと参加、京都守護職・松平容保(会津藩々主)の配下で新撰組局長となり、池田屋騒動などで諸藩の倒幕派の志士を一掃しこれにより維新が数年遅れたと言われる。戊辰戦争では甲州勝沼の戦いで敗れ、流山(千葉県)で自ら薩長軍に大久保大和と名乗り出頭したが板橋で断首刑にされました。首は京都・三条河原に晒されました。会津入りした土方歳三によって遺髪を葬ったとされる墓が、会津若松市内の天寧寺にあります。

新撰組副長。武蔵国多摩郡石田村、土方義諄の四男として生まれる。11歳の時、上野・松坂屋に丁稚奉公に出るが番頭に反抗して帰郷。その後、家伝の打ち身薬「石田散薬」の行商をしながら安政5年(1858年)、近藤周介の道場に入門し天然理心流の剣術を学んだと言われ、文久3年(1863年)、浪士隊に近藤勇、沖田総司らと参加し上洛、新撰組の結成に加わった。池田屋事件の後、副長となり、鳥羽伏見の戦い、関東などを転戦し榎本武揚らと北海道へ渡った。函館の五稜郭の戦いで戦死しました。新撰組の鬼の副長と恐れられた土方歳三は、最後まで新撰組として戦い、幕臣として函館戦争でその士道を貫き通して戦死しました。この戦いで戦死した幕府軍幹部は、土方歳三たった1人でした。

陸奥国仙台の出身。一説に三南(さんなん)敬介ともいう。江戸に出て千葉道場で北辰一刀流の剣術を学んだ。ある日、試衛館を訪れ近藤勇と手合わせをしあえなく敗北。近藤勇に弟子入りし天然理心流を学んだ。文久3年(1863年)2月、近藤勇らと浪士隊に参加し上洛。新撰組結成に参加。土方歳三と共に副長(総長)に就任。芹沢鴨の暗殺時、土方歳三らと共に八木邸で芹沢一派の平山五郎を斬殺。元治元年(1864年)1月、料亭(岩木升屋)に押し入った強盗を討ち取る手柄を立てた。刀を真っ二つに折る奮闘にて会津藩から八両の報奨金が下されている。新撰組の副長(総長)だったが、体調を崩し寝込みがちになり池田屋事件の際、人手が足りなかったにも関わらず参加できなかった。池田屋事件で新撰組は佐幕の先鋒である事を内外に明らかにした。尊王攘夷を志とする山南敬介には憂鬱でした。慶応元年(1865年)2月、意見の違いから新撰組を脱走しました。脱走理由には、西本願寺への屯所の移転問題で近藤勇と対立をした為など諸説あります。慶応元年(1865年)2月23日夕刻、脱走の罪をもって切腹を申し渡され介錯の沖田総司に「声をかけるまで刀を振り下ろすな」と言ったと伝わる。島原遊廓の元天神をしていた明里という愛女があり、切腹の間際に前川邸の長屋門の出窓越しに対面し、最後の別れを惜しんだという悲話も伝えられます。

初代筆頭局長・芹沢鴨

文政10年(1827年)〜 文久3年(1863年)9月16日

参謀・伊東甲子太郎(御陵衛士)

天保6年(1835年)〜慶応3年(1867年)

一番隊組長・沖田総司

天保13年(1842年)〜慶応4年(1868年)

幕末の水戸藩浪士で新選組(壬生浪士組)初代筆頭局長。文久3年(1863年)2月5日、芹沢は清河八郎が発案し江戸で結成された浪士組に平間重助を伴い参加し、六番組小頭に任命された。浪士組には、壬生浪士組(新選組)を結成する水戸の新見錦・平山五郎・野口健司、そして江戸の剣術道場試衛館の近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助らも加わって、京都まで行動をともにした。将軍の警固の為に上洛した浪士組を、尊王攘夷の先鋒とするため、創設者・清河八郎は、朝廷に上奏文を提出し、浪士組を朝廷の直属にする事に成功した。新徳寺に同志を集め攘夷の決行の為、江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退した。この時に残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄や根岸友山らも合流。3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人とも)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを御預かりとする事を決めた。芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)この時、壬生浪士組(壬生浪士隊、壬生浪士)を名乗った。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。文久3年(1863年)9月16日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎・平間重助・土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと同衾して寝た。大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋へ押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢にも斬りつけた。芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするも叶わず、襖を蹴破って縁側に出、そのまま隣の部屋に逃げ込んだ。そこに置いてあった文机につまづいた芹沢だったが、彼の逃げ込んだ部屋には、八木源之丞の妻と次男・為三郎、三男・勇之助の3人が床についており、格闘の煽りを受けた勇之助は右足に傷を負った。暗殺者らとの猛烈な格闘の末、芹沢へ刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけ、立ち去った。現在残されたこの部屋の鴨居や柱には刺客のつけたとおぼわしき刀傷が生々しく残っている。平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したと伝える。

本名は鈴木大蔵。神道無念流の剣術と尊皇攘夷思想の水戸学を学ぶ。江戸に出て、深川佐賀町に北辰一刀流の道場を開く伊東誠一郎に入門するが、師の伊東が病死した為、遺言によってその一人娘うめの婿となり、道場を継ぐ。やがて、面識のあった藤堂平助の紹介で新撰組に入隊。伊東と共に入隊したのは、伊東の実弟鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、服部武雄、佐野七五三之助、内海次郎、中西昇です。伊東は入隊早々に「参謀」という職に就き、同志たちも幹部に任命されて、近藤の期待の大きさがうかがわれます。伊東甲子太郎が、思想を異にするとして新撰組を離脱し、東山高台寺月真院を屯所として孝明天皇の「禁裏御陵衛士」を結成しました。衛士として伊東と行動を共にしたのは、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、服部武雄、内海次郎、新井忠雄、阿部十郎、橋本皆助、毛内有之助、富山弥兵衛、藤堂平助、斉藤一の12名です。斉藤一は、近藤勇が潜り込ませた間者でした。彼が「新撰組屯所に放火し、局長始め幹部を殺害して新撰組を乗っ取ろうとしている」と通報し、伊東甲子太郎を誘い出し暗殺しました。その後「油小路事件」が起こりました。

奥州白河藩士沖田勝次郎の子で、幼名は宗次郎。9才で試衛館道場住み込みの門人として天然理心流近藤周助に入門し、剣技は天才的で、十代で免許皆伝に達し、文久元年(1861年)試衛館塾頭で師範代。近藤勇は宗家を沖田に継承するつもりであった。文久3年(1863年)、浪士隊に近藤勇、土方歳三らと参加し上洛、新撰組では副長助勤1番隊々長として、数々の戦闘に参加。幕軍東帰に従い、幕府典医頭・松本良順の診察を受けながら江戸千駄ヶ谷の植木職人・平五郎宅で療養していたが、慶応4年5月30日、一ヶ月前の近藤勇の処刑を知らぬまま、病没しました。

(↑)沖田総司の写真としてネット上に出回っている二枚の人物写真。向かって左側は『激録新撰組』(原康史著/東京スポーツ新聞社・1977年)にて「沖田総司の写真では?」と紹介されたものですが、元は米国国会図書館に所蔵されているもので、『幕末の素顔 日本異外史』(毎日新聞社)で紹介された古写真の中の1枚のようです(石川県立図書館の調査による)。もちろん、この人物が沖田総司であるという証拠はありません。右側の写真は、『開化写真鏡 写真にみる幕末から明治へ』(石黒敬七コレクション保存会/大和書房・1975年)に掲載されていた若い大工の写真の顔部分を武士風の人物写真に貼り合わせた合成写真で、『沖田総司 誠一筋の天才剣士 』(学研・2004年)の中で紹介されている中の1枚と思われている。

二番隊組長兼剣術師範・永倉新八
天保10年(1839年)〜大正4年(1915年)1月5日

三番隊組長・斎藤一
天保15年(1844年)〜大正4年(1915年)9月28日

五番隊組長・武田観柳斎
不詳〜慶応3年(1867年)6月22日

神道無念流・岡田十松に剣を学び、18歳で免許皆伝を受けたという。また心形刀流の坪内主馬から、師範代として招かれたりもしたらしい。ここで教授をする傍ら、江戸府内の道場を回って手合わせを挑んでいるうちに、近藤勇と出会うことになる。新撰組在籍中には、しばしば近藤と衝突があった。伏見奉行所から薩摩軍に決死の切り込みをかけるが、薩摩軍の最新武器の前に退却し奉行所の塀を登る際に、鎧が重く意のままにならず、島田魁に引き上げられて助かったという。江戸帰還後は、新撰組と別れて戦いました。浪士隊成立〜鳥羽伏見の戦い〜新撰組終焉迄の約5年余りを永倉が記録した『浪士文久報國記事』を残し新撰組の生き証人として新撰組史を語り継ぎました。

幕臣の家に生まれた。19才の時に誤って人を斬殺してしまい、江戸にいられなくなり京都へ逃げたとも言う。京都では太子流の剣客・吉田勝見の道場に身を寄せ、師範代をしていたが、文久3年、浪士隊で上洛してきた旧知の近藤勇と出会い、新撰組に入隊しました。副長助勤、池田屋事件後は三番隊々長に就きました。伊東甲子太郎が新撰組を離脱時、斎藤も高台寺党に入隊するが、近藤勇の密命を受け、動向を探る為であった。伊東甲子太郎暗殺後、再び新撰組に復帰する。戊辰戦争では、甲州勝沼の戦いから会津戦争を転戦し、白河の戦いでは土方に代わり隊長を務めるしかし、榎本艦隊に乗って蝦夷に行く事に最後迄反対し、会津に残留しその後、如来堂の戦いで戦死したと思われるも生き延びる。会津戦争終結後、会津藩士とともに斗南(青森県)に配流された後、東京に戻り、会津藩大目付の娘・時尾と結婚し、藤田五郎と名乗り維新後は警視庁に入り、西南戦争にも参加する。警視庁退職後は、東京高等師範学校に勤める。

出雲母里藩の医者で甲州流兵法に通じた兵学者でした。文久3年(1863年)に入隊し五番隊長などを務め、池田屋騒動の後、明保野邸に長州藩士が隠れているとの情報で武田観柳斎ら新撰組と応援の会津藩士が踏込んだ。しかし、同行した会津藩士の柴司(しばつかさ)は間違って土佐藩士を斬り、騒ぎとなり柴司は後日、引責で切腹をした(明保野亭事件)。甲州流兵法を隊士たちに指導していた。武田の知識は隊にとって重要で、軍師として重用されていた。慶応2年(1866年)頃、洋式調練が始まると存在価値がなくなってきたと気づき、伊東甲子太郎へ身を寄せようとしたが、伊東に拒まれ薩摩藩に取り入ろうとしたり倒幕派に寝返った為、これを知った近藤勇、土方歳三は、竹田街道の銭取橋(勧進橋)で、斎藤一、篠原泰之進らに武田観柳斎を斬殺させました。

六番隊組長・井上源三郎

文政12年(1829年)〜慶応4年(1868年)

 八番隊組長・藤堂平助

弘化元年(1844年)〜慶応3年11月18日

十番隊組長・原田左之助

天保11年(1840年)〜慶応4年(1868年)5月17日

武蔵国多摩郡日野宿、井上藤左衛門の三男。八王子千人同心・井上松五郎の弟。嘉永元年、近藤周介の道場に入門。文久3年、浪士隊に参加し新撰組結成後は副長助勤・六番隊々長として池田屋事件で尊王攘夷派を捕縛しました。慶応3年(1867年)6月、土方歳三と共に江戸へ東帰し隊士の募集を行う。同年11月に帰京し慶応4年(1868年)1月4日、鳥羽伏見の戦いでの淀・千両松での激戦で銃撃を受け戦死したと御香宮が所蔵している「戊辰東軍戦死者霊名簿」に記されている。

弘化元年(1844年)、武蔵国江戸にて誕生。永倉新八の同志連名記や京都在留当時の風聞書によれば、伊勢津藩主藤堂高猷の落胤とも、伊勢久居藩家老・藤堂八座の子との説もある。北辰一刀流開祖・千葉周作の道場玄武館の門弟とされるが、加納鷲雄の証言では「伊東甲子太郎の伊東道場の寄り弟子」であったという。『新撰組顛末記』によると、近藤勇の道場・試衛館以来の生え抜きで、新選組結成当時からの同志とされている。最年少幹部という説もある(斎藤一と同年生まれ)。池田屋事件では、最初に斬り込んだ4人の内の一人で、奮戦の結果、佩刀はぼろぼろになり、鍔元には修復不可能な程のひび割れを負った。油断して鉢金を取ったところを斬りつけられ額を負傷している。事件後、近藤勇・土方歳三に次ぐ褒賞金を徳川幕府から下賜されている。元治元年(1864年)11月、新選組は江戸にて大規模な隊士募集を行ったが、藤堂はこれに先立って志願者を集るため江戸に下っている。9月初旬、藤堂が伊東大蔵(甲子太郎)の道場へ入隊の勧誘に来たとの加納の証言も残っている。慶応3年(1867年)3月、伊東と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。慶応3年(1867年)11月18日、油小路で新選組に討たれる(油小路事件)。検死によると、額〜鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達してほぼ即死であったとされ、残りの同志を呼び出すため、遺体は2日ほどの間、野晒しにされたという。永倉新八の証言(『新撰組顛末記』)によれば、近藤から「藤堂だけは生かしておきたいものだ」と聞き、藤堂が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士・三浦常三郎に斬られたと伝える。

伊予松山矢矧町に、松山藩の下級武士・原田長次の子として生まれる。国元で足軽をしていた時、武士と喧嘩になり、切腹の作法も知らないと馬鹿にされ、その場で切腹に及び、腹には刀傷が残っていたと言われる。その後、試衛館の近藤らと出会い共に上洛することになるのである。文久3年3月、近藤らと共に新撰組の創設に参加した原田は、副長助勤の幹部職に就き、のち十番隊および七番隊々長を歴任した。勇猛果敢で近藤からの信頼も厚く、新撰組にとって欠かす事のできない戦力として重用された。池田屋事件では、土方歳三隊に属していた為に池田屋到着に遅れたが奮戦した。慶応4(1868年)年1月、鳥羽・伏見の戦い後、江戸に退却し近藤勇との意見の対立から永倉新八と共に決別し、新たに組織した靖共隊・副長に就任した。その後、永倉新八とも別れて上野の彰義隊に参加、5月15日の戦いに参戦し重症を負い、5月17日、息を引き取った。

 

伍長・島田魁
文政11年(1828年)〜明治33年(1900年)

監察兼剣術師範・吉村貫一郎(嘉村権太郎)
天保11年(1840年)〜慶応4年(1868年)1月3日

中島登
天保9年(1838年)〜明治20年(1887年)

新撰組草創期に入隊し、隊随一の巨漢(身長180cm、体重150s)で剣客だったという。鳥羽伏見の戦いでは決死隊となるほどの勇者で五稜郭の戦い降伏後、新政府からの出仕の勧誘があったが、頑として受け入れなかった強い信念の持ち主であった。新撰組終焉後は、土方歳三と共に箱館に行き、土方歳三の死を看取ったとも言われているが、弁天台場で、土方歳三の戦死を聞いたとも伝わる。戦後、京都・西本願寺の守衛を勤めました。西本願寺は一時、新撰組の屯所が置かれました。当時、西本願寺での新撰組の評判は悪く、殺生ご法度の寺に新撰組が屯所としたから、評判が良い訳がない。明治33年(1900年)3月20日、西本願寺境内で持病の喘息で没しました。又、島田魁は新撰組の名簿「英名禄」を残しました。

映画「壬生義士伝」の吉村貫一郎。奥州南部、盛岡藩出身。新選組諸士取扱役兼監察方及び撃剣師範。北辰一刀流、新当流共に免許皆伝。ただし盛岡藩に吉村貫一郎という人物の記載は一切無く、嘉村権太郎が本名と推測されている。慶応元年(1865年)4月、江戸で入隊。諸士取調役兼監察、剣術師範、目付を歴任。鳥羽・伏見の戦いで戦死した嘉村権太郎が本名で同一人物であると推察されているが、島田魁が残した新撰組隊士名簿「英名禄」には、”奥州南部 吉村貫一郎”と記されています。俗説には、鳥羽・伏見の戦いで敗走し大阪で脱走し出身の南部・盛岡藩邸に出頭し、帰藩を求めたが、諫められ、切腹。南部・盛岡藩邸での切腹時に遺品を故郷の家族に届けるよう血文字でしたためたという説、又、南部・盛岡藩の下級武士で妻子5人を抱えて食うや食わずの生活を送っていたが、文久2年(1862年)に脱藩し、大阪に来た時、新撰組隊士の募集があり、入隊したとされる説などがありますが、現実には年齢も入隊時期も異なっていますが鳥羽・伏見の戦いでの1月4日、淀・千両松戦で戦死したと御香宮が所蔵している「戊辰東軍戦死者霊名簿」に記されている。

武州多摩郡八王子在寺方村中島又吉の長男。幼名を峯吉。天然理心流習得者で八王子千人同心に所属していたが、元治元年に新撰組に入隊し、近藤の内命により、武蔵、相模、甲州などの諜報活動を行っていました。戊辰戦争では、隊長附小頭助役、二分隊嚮導役などを務める。甲州勝沼戦争以後は、流山から野州戦争、会津戦争、函館戦争に従軍し、弁天台場で降伏する。捕虜生活を送るうち、新撰組終結部分を綴った「中島登覚書」とその様子を絵にした「戦友絵姿」を残し、才人ぶりを発揮しました。維新後は許されて浜松市に居住し銃砲店を開業して余生を送りました。

 

井上泰助
安政4年(1857年)〜昭和2年(1927年)

佐藤彦五郎
文政10年(1827年)〜明治35年(1902年)

 

井上源三郎の甥で近藤勇の小姓として上洛。鳥羽・伏見の戦いではわずか11歳で参戦し1月4日、淀・千両松での激戦中に叔父・井上源三郎が戦死。源三郎の首と刀を持ち乗船場の八幡・橋本へ退却したが、遅れがちになり、仲間の隊士に「遅れたら捕まるから残念だろうが捨てろ!」と言われ仕方なくとある寺院の門前の田んぼに埋葬したと伝わります。後に「人間の首があんなに重いとは思わなかった。」と家族に語り「京都や大阪に行く事があればそのお寺をお参りして来い!」と首と刀を埋葬した寺名を言い残したが、妻(ケイ)も忘れてしまい埋葬場所は未だに分からないままである。最近になって首級を埋めたのは淀納所欣浄寺(廃寺)の門前だと判明しました。

武蔵国多摩郡日野宿問屋役(名主兼帯)をわずか11歳で継承。弘化2年(1845年)、土方歳三の姉・のぶと結婚。嘉永2年、近藤周介の道場に入門し自宅内に道場を設け日野宿における天然理心流の普及に努めました。安政5年(1858年)、日野宿の牛頭天王社へ剣術上達祈願の額を納めています。浪士隊上洛を経て新撰組結成後、近藤、土方、沖田らと密接に通じ彼らを日野宿の民達と共に支援し続けました。慶応4年(1868年)3月、甲陽鎮撫隊編成に伴い日野宿の農兵隊である春日隊を結成し甲州・勝沼の戦いに参戦し敗戦後、薩長軍の追及を避け潜伏しましたが後に許され、南多摩郡々長なども勤めました。

 

【戦友絵姿(中島登)】

近藤勇 土方歳三 山口ニ郎(斉藤一) 中島登(のぼり) 伊藤鉄五郎 中島三郎助父子
河合鉄五郎 甲賀源吾 野村利三郎源義時 鈴木錬三郎 志村武蔵 新井破摩男

中島登(のぼり)が函館戦争(戊辰戦争)終結後、捕虜生活を送る間(明治3年迄)、新撰組終結部分を綴った「中島登覚書」とその様子を絵にした「戦友絵姿」を残し、才人ぶりを発揮しました。「戦友絵姿」は素人の域を超えた仕上がりで当時の錦絵の影響を受けたと言われています。


石田散薬(土方家々伝薬)

石田散薬貼り札

石田散薬製造道具(土方歳三資料館所蔵)

石田散薬は、土方家の家伝薬で宝永年間(1704年〜11年)、多摩川の深淵に住む河童明神から製法を伝授されたと伝わり、打ち身、捻挫などの特効薬と言われる。製法は、土用丑の日に多摩川、淺川、近くの水辺に茂る牛皮草(牛顔草:ミゾソバ)を採り陰干しで乾燥し貯蔵後必要に応じて鉄の焙烙(ほうらく)で黒焼きにし薬研(やげん)で粉末にしたものである。昭和20年代以降は伝承が途絶えて製造されていません。土方歳三もこの薬の行商をしながら剣術を学んだと伝わります。

旅籠・池田屋(三条小橋西入ル)

池田屋玄関

池田屋内(二階)

座敷

現在、池田屋はなく池田屋のあった場所に僅かに石碑が立っているだけです。

【池田屋事件】

文久3年(1863年)8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫され、長州・土佐・肥後藩などの尊王攘

夷派達が勢力回復をめざして中川宮や京都守護職・松平容保の暗殺計画を企てた。元治元年(1864年)年6月5日(祇園祭宵々山)、

近藤、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤周平(養子)、原田の7人は三条小橋西入ルの旅籠・池田屋において会合中の尊王攘夷派達30余

名を襲撃。後、縄手付近を探索していた土方歳三らも加勢し2時間ほどの斬り合いだったという。新撰組に襲撃され長州藩の吉田稔

麿、杉山松助、土佐藩の望月亀弥太、肥後藩の宮部鼎蔵、松田重助ら多数の死傷者が出ました。会合に参加するはずだった長州藩

の桂小五郎は近くの対馬藩邸にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎が亡くなり、藤堂平助と

永倉新八らが負傷しました。この時に沖田総司が吐血したとも伝わります。主人・池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄舎で獄死しました。

捕縛された古高俊太郎も、六角獄舎で獄死しました。1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり、その後の政治情勢に多大な

影響を与える事件となった。維新が1年遅れたとも1年早まったとも言われています。世に新撰組の名を一気に高めた事件となりました。

 

大河・新選組 『新選組を行くNo.27【京都池田屋へ】』

新撰組局長・近藤 勇

戦術の鬼才!新撰組副長・土方歳三

天才剣士・一番隊組長・沖田総司

剣豪・三番隊組長・斉藤 一

【天満屋事件】

伊東甲子太郎暗殺の3日前の慶応3年(1867年)11月15日、坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺されました。これを紀州藩士の仕業と思った

海援隊・陸援隊々士ら16名が、報復の為に天満屋に投宿中の紀州藩士・三浦休太郎らを襲撃。警護していた新撰組と乱闘になった。

新選組隊士の7人が当日、三浦休太郎の宿・天満屋に出向き「会津候の命令で警護に来た」と伝えたが、三浦休太郎は不在だった。

その時に応対した三宅精一が、三浦休太郎と面会させる為に、三浦休太郎が帰宿後に顔合わせの酒宴を行った際の出来事でした。

【油小路事件】

 

大河・新選組 『新選組を行くNo.40【伊東甲子太郎と藤堂平助 油小路事件】』

伊東甲子太郎ら「禁裏御陵衛士(高台寺)」が新選組をのっとるために屯所を焼き討ちにして近藤勇ら幹部を皆殺しにする計画を

立てた為、間者の斎藤一が、近藤勇・土方歳三らの妾宅に報告しました。伊東一派は近藤ら新撰組幹部殺害を計画していた。

斎藤一は、自分が近藤を殺害すると伊東甲子太郎に持ち掛け22日に近藤殺害・屯所襲撃と決まった。近藤勇の密命を受けていた

斎藤一は、この情報を持って11月18日、新撰組に帰隊。名を山口二郎(次郎)と改めたとも記されています。

新撰組は、11月18日夜、御陵衛士として隊を分離して尊皇活動を展開していた伊東を罠にかけて暗殺しその遺骸を油の小路に

運び、伊東の同志をおびきよせる囮として放置。19日の午前2時頃、遺骸を引取りに現われた衛士7名と待ち伏せの新撰組隊士

数十名の間に死闘が広げられ、衛士側は藤堂平助・服部武雄・毛内有之助の3名が討死したと伝わります。12月18日、近藤勇が

伏見街道の墨染〜丹波橋北東辺りで高台寺党の残党・篠原泰之進、加納道之助、阿部十郎らに銃撃され肩を負傷しました。

 

大河・新選組 『新選組を行くNo.41【近藤勇襲撃】』

【鳥羽・伏見の戦い】

伏見奉行所図

慶応3年(1867年)12月16日、新撰組が屯所として布陣したのを始め幕府軍の本営(布陣地)となりました。

新撰組が初めて敗北した・・【伏見の戦い】・・刀や槍の時代の終わり

幕府軍は伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められました。

夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられました。新撰組も応戦し大砲一発が

御香宮に届き、薩摩軍にも負傷者を出しました。新撰組隊士・永倉新八が『浪士文久報國記事』で「この戦で新撰組は、屯営と

している奉行番所へ、御香宮の山上(龍運寺)から、薩摩軍の大砲を散々浴びせられた。局長の近藤は、傷手当をして大阪城に

いるので、土方歳三は、夜の六つ半(七時)過ぎから決死の覚悟で応戦を開始しました。大砲たった一門で低地から山の方へ

向かってどんどん撃ったが、とても手ごたえがない。とうとう永倉新八の二番隊が決死隊として、敵陣への切込みを決行した。

島田魁、伊東鉄五郎など隊士を引き連れ、三度切り込みをするも、敵陣に近寄る事もできず奉行所へ引き返した。」と伝えます。

幕府軍の会津藩兵、新撰組は奮闘しましたが、長州軍の援軍を得た薩摩軍に撃破され体制を整えるべく淀城を目指して退却しました。

 

大河・新選組 『新選組を行くNo.42【鳥羽伏見の戦い】』

新撰組二条城入城の図(伝遠藤蛙斎筆)

伏見鳥羽戦争図(伝遠藤蛙斎筆)

慶応3年(1867年)12月、二条城へ入城する新撰組隊士らを描いています。隊士が山形模様の羽織を着ていますが実際は、着ていた期間が短く今に現存しないそうです。沖田総司〔そうじ〕は、この羽織を好まずほとんど着なかったと言われています。浅黄色で山形模様の羽織の意味⇒切腹時に武士が、身につけるのが、浅黄色の衣装です。山形模様は、仮名手本忠臣蔵の討ち入り時の衣装から引用したと言われています。以上の事などから"武士道を意識し死を覚悟している"という意味の羽織だったようです。

慶応4年(1868年)1月4日、伏見奉行所から撤退する新撰組の図で誠の隊旗が描かれ馬上で指揮するのは、土方歳三だといわれています。残念ながら実物の隊旗は、現存していません。新撰組を描いた絵画資料は少ないのでかなり貴重な資料でこれらの絵画は、京都国立博物館が所蔵されています。

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。(写真左)当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていました。現在は旗は立っていないが、綺麗に手入れされ、花なども毎日取り替えられている様子です。又、この埋骨地には次の幽霊伝説があります・・・千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。

「戊辰東軍戦死者霊名簿」(御香宮所蔵)

慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いで戦死した東軍側つまり幕府軍の戦死者を記した長大な名簿の一部です。大正15年(1926年)1月に完成し冒頭には榎本武揚による祭文(明治35年)が記されています。これによると鳥羽伏見の戦いでの幕府軍戦死者総数は283名とされ新撰組、見廻り組を含む幕臣の戦死者数は、119名で会津藩士130名、桑名藩士12名、大垣藩士10名、浜田藩士6名と記録されています。坂本竜馬を暗殺した見廻組・佐々木只三郎、桂早之介は下鳥羽の戦いで戦死と記され、新撰組・井上源三郎、嘉村権太郎(吉村貫一郎)らが淀・千両松での戦いで戦死と記され新撰組隊士の戦死者総数は24名と記録されています。この戦いで山崎蒸(進)も負傷後戦死しました。鳥羽伏見の戦いにより伏見の町は南半分が焼滅したとも記されています。

五稜郭の戦いにて土方歳三戦死!・・・戊辰戦争終戦!そして新撰組隊士最後の戦死者?!

慶応4年(1868年)1月5日、新撰組は淀・千両松の戦いでも善戦空しく伏見の戦いに続いて多数の死傷者を出して敗戦、

再起を図ろうと目指した淀城への入城を淀藩に拒否された為、淀から退却。更に八幡・橋本から船に乗船し大阪城まで退却しました。

傷ついた旧幕府軍兵が大阪城に到着すると、あろうことか・・・慶応四年(1868年)1月6日の夜、味方の敗戦を大坂城で聞いた

将軍・慶喜は、わずかな側近だけを従えて大坂城を密かに脱出し、大坂城内にも、鳥羽伏見の各戦場にも、兵を残したまま、

軍艦・開陽丸で江戸に逃げ帰った後でした。慶喜が「大将の敵前逃亡」した時点で大勢が決まったと言っても過言ではありません。

致し方なく12日、新撰組は、大阪・天保山から軍艦・富士山丸と順動丸に分船して江戸へ下りました。

その後の甲府の勝沼の戦いで破れ、板橋で近藤勇が処刑(斬首)された後、京都・三条河原に首を晒されました。

土方歳三が率いる新撰組は会津〜箱館戦争まで転戦、明治2年(1869年)5月11日、五稜郭で土方歳三が戦死しました。

土方歳三の戦死の地は、島田魁(かい)、中島登(のぼり)らが残した記録などに異国橋(栄国橋)付近と諸説あるが、

佐藤彦五郎は土方歳三に終始付き添っていた沢忠助、立川主悦(ちから)から聞いた「一本木鶴岡町」と断定している。

5月11日朝四つ時(午前10時頃)、弁天台場へ救援に向かった土方歳三は、一本木関門を函館市中に入った辺りで馬上で陣頭指揮を執っていた時、

敵弾を受け落馬、沢忠助、安富才輔らが付近の農家に運び入れたが土方は「すまぬ・・・」とだけ言い残し息を引き取ったと伝える。

安富才輔は直ちに馬を駆って五稜郭に報告、幕臣・小柴長之助が土方の遺体を運び去りました。

近藤勇の様に薩長方の礼儀を欠いた断首、晒し首という末路を嫌い、武士らしく滅びたいと願った土方の思いを知っていた小柴は

土方歳三の遺体が薩長方に掘り起こされぬよう密かに埋葬したと伝え、埋葬地は未だに分からずのままである。

新撰組は鳥羽・伏見の戦い初めて敗北。北の大地、函館・五稜郭まで戦場を移した戊辰戦争は土方の死をもって5月18日に終焉。

 

大河・新選組 『新選組を行くNo.45【新選組それぞれの道】』

 

戊辰戦争 戊辰戦争

 

幕末(維新)回廊 幕末〔維新〕回廊

 

戻る 伏見クローズアップ散策メニューページに戻る

 

inserted by FC2 system